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..景を求めて●ういざ、名作の舞台へ藤沢作品の主要な舞台「海坂藩」の情景を探す鶴ヶ岡城址(鶴岡公園)致道博物館庄内藩校致道館旧風間家住宅丙申堂湯田川温泉湯野浜温泉総穏寺大督寺鶴岡市立藤沢周平記念館3..
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..いい沢ざわ匡ただすも書いている、〈悪趣味な土産物をむやみと買いあさり、外国館の吸い殻入れを小便壺にし、くたびれ切った男女が新聞紙を敷いて通路にごろ寝し、外国人の金髪を珍しがって引っ張ったりといっ..
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..ったのか。私の記憶に残った「ごみと混乱」のイメージは、いわば無知ゆえにゆがめられた大阪万博への「畏い怖ふ」だったに違いない。私は十年ほど会社勤めをしたあと、無秩序と悪趣味こそが文化変革の底力だっ..
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..的なバトル話はとくに心に響いた。そもそも岡本太郎は「テーマ展示」のデザインだけを頼まれたにすぎず、事務局側も岡本の周辺も不調・不成立にすべき案件だった。しかし、それが逆に岡本をおもしろがらせた..
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..を獲得した。一体だけ残ったから、その意義がやっと理解可能になったのだ。だとしたら、その太陽の塔すらが目立たなかったつまり、会場内は勝手にできあがった前衛建築だらけで、太陽の塔すら周囲に馴な染じん..
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..かけていない。この書字の伝統に反した右下りの横画はどこから来るのだろうか。一定しない起き筆ひつの形状、一律ではない横画のベクトルなどを加味すると、これは左手で書いたとも推論される。ところで、日..
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..すると、これは左手で書いたとも推論される。ところで、日本は、人口減少に象徴されるように、東アジア漢字文明圏において、ひとり先駆する時代を終え、今や「右肩下り」。近代初頭、日本語はひらがな語をもつ..
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..第一に、やや右上りに書かれるべき横よこ画かくが逆に右下りに書かれる癖をもっている。第二に、文字は書きつけるだけで十分とでもいうかのように、図形を構成する線のごとき筆ひつ画かく。左右のハライの姿を..
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..画かくが逆に右下りに書かれる癖をもっている。第二に、文字は書きつけるだけで十分とでもいうかのように、図形を構成する線のごとき筆ひつ画かく。左右のハライの姿を見せない無造作な直線状の「天」の姿から..
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..ような方ほう形けいに書かれる「始」や「觀」や「吾」字の「口」部の姿。明みんちようたい朝体活字をモデルにしたというべきか、書の歴史をもたない西欧風の書字をモデルにしたというべきか。ここには明らかに..
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..始」や「觀」や「吾」字の「口」部の姿。明みんちようたい朝体活字をモデルにしたというべきか、書の歴史をもたない西欧風の書字をモデルにしたというべきか。ここには明らかに文字観の近代的変貌がある。美..
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..をもたない西欧風の書字をモデルにしたというべきか。ここには明らかに文字観の近代的変貌がある。美術行政家・岡おか倉くら天てん心しんは若き日、洋画家・小こ山やま正しよ太うた�カろうとの間のいわゆる..
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..・岡おか倉くら天てん心しんは若き日、洋画家・小こ山やま正しよ太うた�カろうとの間のいわゆる「書は美術ならず論争」で、書もまた美術であると主張したが、自ら書く文字は、歴史的な書の美学からすっかり..
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..ると主張したが、自ら書く文字は、歴史的な書の美学からすっかり縁が切れている。近代的といえば近代的。殺風景といえば殺風景。歴史的に築かれて岡倉天心『仰ぎよう天てん有ゆう始し』仰天有始第12回資料提..
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..身近にあった。自分が書いた詩に曲をつけたのは小学3年生のとき。中学時代(写真)には、ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』を独習して弾いてみせたこともある。││多くの合唱団の指揮者をされています。..
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..マチュア混声合唱団の練習日です。『新しい合唱団』という名称ですが、25年前の創立で、この1月15日の演奏会(※)に向けて猛練習をしているところです。合唱は、ひとりひとりの歌声が集まってできるもの..
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..奏会(※)に向けて猛練習をしているところです。合唱は、ひとりひとりの歌声が集まってできるもので、その基になるのは声楽です。声楽とは息と声を使って行なう��曲芸?であり、��自由自在な息づかい?で..
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..すね。「私たちの息は心の動きで変化します。喜びが高まると息は弾み、逆に悲しくなると息は詰まってくる。そのときどきの感情で発する息で声の姿は異なります。ですから、人は声で多彩な表現ができるわけで..
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..うのが合唱です」││練習では「足の指」を気にされていました。「身体を楽器にして歌う合唱の一番の基本は、10本の足の指を大地にしっかりつけて立つことです。足の指で大地をつかむことで、全身││それま..
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..ノソナタ『月光』を猛練習して弾いてみせたんです。先生もみんなもシーンと聞き、特に拍手もありませんでしたが、通信簿で音楽は100点でした」(笑)││音楽を目指す転機は何だったのですか。「昭和20年..
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..思えば、それが自分の心でもあったんですね。その空疎さから抜け出すきっかけを与えてくれたのが音楽でした。学校の講堂に父兄が寄贈したピアノを見つけて弾いていると、クラスの仲間がだんだん集まってきて..
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..る「新しい合唱団」の練習。間近に迫った第25回演奏会に向け、その指導にも熱が入る。,{0DAB77AF-A06A-4E59-93A4-2213D5EFCE24}16,16音楽を創造し、450曲を..
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..高めてゆく。合唱団の練習も、学生なら授業が終わってから。サラリーマンや自営業の人などは夜6時以降に集まり、8時半とか9時頃まで練習を行ないます。それから自宅に帰り、いろいろとやりますと、寝るのが..
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..8時半とか9時頃まで練習を行ないます。それから自宅に帰り、いろいろとやりますと、寝るのがどんどん遅くなってしまうんです」││指揮者は皆の心をひとつにする。「いえ、そんな必要はありません。歌は人の..
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..す」││指揮者は皆の心をひとつにする。「いえ、そんな必要はありません。歌は人の心の叫びです。曲に対する考え方はそれぞれ違っていい。その人なりの感じ方でいいんです。合唱は人に合わせて歌うのではあ..
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..ありません。歌は人の心の叫びです。曲に対する考え方はそれぞれ違っていい。その人なりの感じ方でいいんです。合唱は人に合わせて歌うのではありません。ひとりひとりが相互に影響を与えながら歌い合う。ひ..
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..ん日じつ録ろく』など名作の多くはここで生まれた。大特集己を飾らず、自慢せず。藤沢周平《私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている..
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..原風景を求めていざ、名作の舞台へ●第3部…………………………………44ページ寒鱈のどんがら汁、ハタハタの湯上げ、カラゲの甘煮…藤沢が愛し、登場人物が舌鼓を打った庄内の滋味鶴岡市街地図………………..
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..か、黙々と働く農民の心を持っています。いつも理想のモデルは農に生きる人たちで、自分はそれほどのものではないという控え目な思いがありますから、決して威張ったり、はしゃいだりはしません。そういう謙..
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..そういう作家としての心の修しゆ羅らは原稿の中だけです。派手なこと、目立つことは好まず、ふだんの生活は、「普通」でいること「平凡」であることに徹していた。そのつつましさと律儀さは、藤沢周平にとっ..
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..を見に行く話を随筆に書いていますが、それを読むと「この人は一見穏やかに見えて、心の中に狼を飼っている孤高の人だ」とわかります。(談)?藤沢周平の生地、山形県鶴岡市の高たか坂さか地区の農地と朝日。..
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..一見穏やかに見えて、心の中に狼を飼っている孤高の人だ」とわかります。(談)?藤沢周平の生地、山形県鶴岡市の高たか坂さか地区の農地と朝日。幼い頃の藤沢が毎日見ていた風景である。奥は出で羽わ三さん..
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..市)大字高たか坂さか字楯ノ下で生まれた。生家の跡地には現在、藤沢周平生誕之地碑が立つ(地図かB4※)。��カタムチョ?な作家の素顔特集第1部見栄、自慢、流行とは無縁藤沢は己の性格を��カタムチ..
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..を見失わないため》の心の錨いかりだった。「飾らず、ありのまま」を宗むねとした作家の生涯を追う。撮影/宮地工,{FA523CDB-97D2-46C8-BFF1-7C1A76F1131C}25,2..
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..ると決まってこの句を書いた。?藤沢が気に入って使っていた落らつ款かん。何事によらず簡素を好んだ藤沢らしく、「周平」の2文字のみが彫られている。,{9198E989-EFC2-41D8-80AD-..
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..8~69歳)《小説を書くということはこういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと、仮りに答を出す作業であろう》(『周平独言』所収「時代小説の可能性」)?鶴岡市立藤沢周平記念館..
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..所に、同じ時代小説を書く五ご味み康こう祐すけさんが白壁の武家屋敷風の大邸宅を構えていました。それと対照的に、藤沢さんのお宅はごく庶民的な住宅です。それがいかにも藤沢さんらしかった」その頃、カラー..
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..バネになった。小説を書きだした頃には夢想だにしなかった直木賞受賞が《到達点ではなく出発点》になった。流行に安易に飛びつかない「藤沢さんは律儀な人で、締め切りは必ず守るし、一緒に取材旅行に出かけて..
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..なかった。そのため《心の中にかすかな負い目が生じ》、それが?昭和61年1月、58歳の折、選考委員として初めての直木賞選考会に臨む。以降、平成8年1月まで21期11年務めた。?愛用の万年筆はパー..
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..わらず、人のこころに残るような小説も書け、賞ももらい、満ち足りた晩年を送ることが出来た。思い残すことはない。ありがとう》安らぎを覚え、そっと背中を押してくれる││。藤沢小説には、そんな励ましを受..
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..ろに残るような小説も書け、賞ももらい、満ち足りた晩年を送ることが出来た。思い残すことはない。ありがとう》安らぎを覚え、そっと背中を押してくれる││。藤沢小説には、そんな励ましを受け取ったような感..
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..言及する随筆が次々と書かれた。故郷に根を張る人たちにも、藤沢は同じ思いを重ねていた。前出の小こ菅すげ隆りゆうじ次さんが言う。「里帰りした時はもちろん、電話でも��オレ、留とめ治じだども?といった..
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..017年2月号いざ、名作の舞台へ藤沢周平の生まれ故郷、山形県鶴つる岡おか市。庄しようない内藩の城下町として栄えた鶴岡には、藤沢が数数の作品の舞台にした架空の小藩「海うな坂さか藩」を想起させる名所..
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..起させる名所・旧跡が残る。作家が愛したこの町を歩き、作品世界を肌で感じたい。特集第2部作家が紡いだ物語の原風景を求めて?映画『?せみしぐれ』の撮影にも使われた、豪商・風間家の住居兼店舗「丙へい申..
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..」には、《小説で城を書くときは、大抵この鶴ヶ岡城じようし趾になってしまうようである》と綴つづっている。鶴つる岡おか市街のほぼ中心に広がる鶴岡公園が、江戸時代、庄内藩14万石・酒井氏の居城だった鶴..
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..して私がいつも考えて書いているのは、郷里の庄しようない内藩なんです》(『藤沢周平の世界』所収「対談日本の美しい心」)と、対談相小説では五層の天守閣が描かれている庄内藩の平ひら城じろは、日本有数の..
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..収「対談日本の美しい心」)と、対談相小説では五層の天守閣が描かれている庄内藩の平ひら城じろは、日本有数の桜の名所《海坂は私が小説の中でよく使う架空の藩の名前である》(『小説の周辺』所収「海坂、..
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..どをお閉め下さい」と書かれた紙片が貼られている。冬は日本海からの冷たい西風が致道館を通り抜けるというが、その紙片に庄庄内藩の藩校だった「致ち道どう館かん」は、東北で現存する唯一の藩校建造物だ。藤..
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..明の光線に出会えれば心は安らぐ。写真/アフロ,{C777E774-7830-445C-942D-7E939D1EDB7F}41,41 2017年2月号?昭和50年3月、総穏寺を訪れた47歳の藤..
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..岡の冬は空も海も人の心も灰色になりますけど、静かでいいところです。どうぞ気楽に寺へいらっしゃってください」総そう穏おん寺じ藤沢の初期の作品『又また蔵ぞうの火』は史実に基づいた小説である。兄・万..