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..美を半世紀以上たって私はやっと理解したのである。桜への旅文/澤地久枝さわち・ひさえ●1930年、東京生まれ。4歳で旧満州(中国東北部)に行き、終戦の約1年後に日本に引き揚げる。49年、中央公論..
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..が待ち受けていたり、私たちの人生は予期せぬ出来事の連続といえます。そんなとき、凹んだり、ぐらついたりせず、しなやかに生き抜くにはどうしたらいいのでしょう。作家たちの生き方から、ヒントが見えてき..
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..藤愛子さんに伺った。私たちは何を見失い、何を置き忘れてしまったのだろうか。生きる力を鍛える,{297F99B6-DD40-4C04-8E5C-4A8CF86B09D6}13,13絡しています。..
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..うと努力しなくても。私の父なんか、「女で小説を書くのはブスに決まっている」とよく言っていました(笑)。すべてそうです。昔は、ほしいものがあっても、お金がなければ買えませんでした。ローンというも..
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..しおだったんですよ。私の母は、「月賦で物を買うもんじゃない」とよく言っていました。だって、利息分が高くなるでしょう。それに金もないのに、ほしいからといって月賦を組んでまで買うのは欲望に負けたこ..
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..ることだったんです。私などの若い頃は、自由はほとんど悪徳のように考えられていました。不本意な結婚でも、親のいいつけ、あるいは生活のために我慢してお嫁にいくのが普通で、離婚は女の恥とされていまし..
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..えられていますから。私たちが小学生の頃は、朝礼のときは初めから終わりまで、みんな直立不動。先生に「休め」と言われて初めて片足を出して休んだものでした。私の娘は昭和35年生まれなんですが、小学校..
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..て休んだものでした。私の娘は昭和35年生まれなんですが、小学校1年生の運動会の日に行って、朝礼を見てると、列もぐちゃぐちゃだし、身体を揺らしたり、後ろを向いてしゃべったりしているんです。「なぜ..
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..言われました。でも、私は寝転ぶ男なんて嫌ですね。親が寝転んでいる姿を見たことがないから、それが身にしみついている。だから、結婚した亭主が寝転んでいるのを見て、「何という情けないヤツ」と思いまし..
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..いるんでしょうけど、私はだらしないと思ってしまう。家風とは、こんなふうにしみこむものなんですね。行儀といえば、子どもの頃、校庭のユスラウメの赤い実がおいしそうだから、みんなでとって食べたことが..
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..。規律も行儀もない。私が女学生の頃は、わざとつり革を持たずに、電車が揺れたときに、よろけないように踏ん張ったものです。それが、自慢だった。だから、今でも足腰は丈夫なんです(笑)。今は、駅で電車..
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..尻をつけて座り込む。私たちの時代は、何かにもたれている人を見ると、どこか悪いのかと訊いたものでしたよ(笑)。私の父は、とても行儀の悪い人でしたが、畳の上に寝転ぶということはしませんでした。昼寝..
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..ものでしたよ(笑)。私の父は、とても行儀の悪い人でしたが、畳の上に寝転ぶということはしませんでした。昼寝をするときは、夏でもちゃんと布団を敷いて、横になっていました。父に限らず、明治の男はみん..
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..う面白半分の対談で、私が「男子たるものはやたらに寝転ぶな」と言いましたら、「かわいそから尊敬される人間になれ」とか、困っている人を助けなければならないとか、不正を憎むとか、昔の親は、ひとつの理..
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..なってしまいました。私は、昭和30年代の終わり頃から、こういうことをずっと言い続けてきているんですから、もう飽きましたね(笑)。この前も、私の本をずっと読んでくださっている方が、「佐藤さんの言..
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..ね(笑)。この前も、私の本をずっと読んでくださっている方が、「佐藤さんの言ったとおりになりましたね。今考えると思い当たります」と言ってくださったんですが、今頃思い当たってもらっても遅いです。こ..
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..ないように……これは私の老婆心です。うな本がたくさん出ているということですけど、テレビのテロップなんか呆れるくらい字の間違いが多いですね。新聞記事も丁寧に読めばひどいものです。ひとつ例を挙げる..
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..るかと思って期待し「私のような悪たれでも、女学校時代に尊敬できる校長先生がいたことは、幸せなことでした。今大切なのは、尊敬できる人がいることだと思います。今は尊敬よりも好き嫌いなんですよね」「..
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..、06年に全巻完結。私の小説は��夢見小説?。「私はこう思うの」「こう生きたい」というのを書いてきました田辺聖子さん●作家まるで自分史のようにゆうゆう世代が読み継いできた田辺聖子さんの小説やエ..
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..は��夢見小説?。「私はこう思うの」「こう生きたい」というのを書いてきました田辺聖子さん●作家まるで自分史のようにゆうゆう世代が読み継いできた田辺聖子さんの小説やエッセイ。文学のこと、おっちゃ..
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..はほうっておけない。私の家に来て一緒に暮らしてと言ったんです。でも、昔気質ですから“川野さんに悪い”と言う。“じゃあ私の家をアパートかなんかと思って、その一室を借りるんだったらいい?”と聞くと..
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..い”と言う。“じゃあ私の家をアパートかなんかと思って、その一室を借りるんだったらいい?”と聞くと“それなら行く”と。それでプレート屋さんに『すみれ荘一号室』というのを作ってもらったんです。母の..
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..まへのお返しなのか、私たちが田辺さんに「お寂しいでしょう」と言うと、「皆さん、そう言ってくださって、ありがとうございますと言ってるけれど、内心では��共に住んでずいぶん長かったから�≠ネんて…..
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..から�≠ネんて……。私はず~っといたんですからね、腐れ縁でございますからね(笑)」。湿らない口調が、台風一過、飛んだ屋根から青空を見上げたときのような透明な悲しみを思わせる。2004年から始ま..
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..でしょうかね。でも、私は嬉しかったのもつかの間、��困ったなあ、困ったなあ�≠ニ。だって面白い小説を書きたいのに、あんまり世間のことも男のことも知らなかったですから」芥川賞受賞の栄冠は、いわば..
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..野さんの『主人』に、私はそのとき会うことができなかった」「この男と、二年のちに私が結婚するとは、夢にも思わない」ましてや、それから間もなく彼女が4人の子どもを遺して早逝するとは、想像だにしてい..
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..この男と、二年のちに私が結婚するとは、夢にも思わない」ましてや、それから間もなく彼女が4人の子どもを遺して早逝するとは、想像だにしていなかった。田辺さんの結婚は、当初別居(通い婚)のはずだった..
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..あちゃんがいるから、私は下のほうの家事だけしてればよかったんですけど、でも、なんだかワンワンごちゃごちゃあって大変。父兄参観に行ったりすると、3人が小学校にいましたから駆け回る。下の息子が��..
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..を買って出てみたり。私はそんなに男の人とつき合った経験がなかったから、男の人って��本質はいいんやな�≠ネんて思って」千客万来、談論風発。まだ医学生だったおっちゃんの弟さんが連れてくる客もあっ..
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..見力かしら。やっぱり私の小説は、夢見小説。論破とか説得してやろうとかそういうんじゃなくて、『でも私はこう思うの』とか『こう生きたいの』というのを書いてきたんだと思うの」田辺作品とともに、時代を..
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..んじゃなくて、『でも私はこう思うの』とか『こう生きたいの』というのを書いてきたんだと思うの」田辺作品とともに、時代を歩んできたゆうゆう世代。50代、60代のファンのために、ぜひ恋愛小説をお書き..
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..ばかり。「だからね、私はそんなんじゃなく、夢のある恋愛小説で、読んだあと舌の上になんか残るみたいな、甘くてちょっぴり苦い味の物語を書きたかった。パステル画みたいに淡い色合いの恋愛小説。そうした..
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..てきて、これだったら私が求めてる小説と一緒じゃないの、これでみんな喜んでるんだったら私も書けるわ、と、ものすごく気がラクになったの。主人公の年齢は最低でも25歳くらい。それからだんだん26、2..
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..な喜んでるんだったら私も書けるわ、と、ものすごく気がラクになったの。主人公の年齢は最低でも25歳くらい。それからだんだん26、27歳になって、最後は30代になりましたけど、そういう女の子の本音..
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..かということですね。私は戦争を体験していますから、子どもの頃からそんなふうに考える癖がついていました。戦争というのは一切救いの手がないんです。空襲で焼け出されたその晩から食べ物もない、水もない..
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..原点がありますから、私はすべてをありがたいと思って生きてきました」ものに満ちあふれた今、自分がもっていないものの価値だけに目が行きがちだ。もっていないものばかり数え、もっているものに気づかない..
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..ただいた、その幸せを私は感じないではいられません。そうすると少しくらいの不平不満は吹き飛んでしまうんですね。これが私の言う『足し算の幸福』です。自分にないものを数え上げるのではなく、あるものを..
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..まうんですね。これが私の言う『足し算の幸福』です。自分にないものを数え上げるのではなく、あるものを数えて喜ぶ。そんなふうにスタートラインを低いところにおけば不満のもちようもなくなるはずです」と..
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..ずです」ところが、“私だってあの人くらいの生活ができるはずだわ、平等な世の中なんだもの”と考えたら、それは引き算の考え方になる。常に百点満点を基準にしているから、わずかでも手に入らないとマイナ..
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..るのだが、ともすると私たちはこんなふうに、他人と比べて自分の幸せ度をはかってしまいがちではないだろうか。「幸せというのは誰にわかってもらえなくても、自分が幸せだと思えたらいいんです」と曽野さん..
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..深くなってしまう。「私はよくアフリカに行きますが、行くたびに日本で暮らせることを感謝することが増えます。でもよく考えてみると、戦争の体験から、もともと生活の基準をそんなに高いところに置いていな..
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..をおすすめしますね。私は今、アラブについての本を読んでいますが、ときどきアラブからはみ出して、ロマの人たちについて書かれた本を読んだりします。ロマというのはいわゆる放浪の民ですが、彼らは占いと..
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..言葉があります。でも私は強欲だから(笑)、たくさん受けてたくさん与えるのが幸せであると考えています」人生が満たされる条件として“人にもたくさん与え、自分もたくさん受けた”という実感が必要だと曽..
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..さんは思うそうだ。「私たちは成長する過程ではたくさんのものを受けてきました。そのお返しに人に与えさせてもらうのも幸せを感じることだと思いますよ」何か人の役に立つことをやってみる。子育ても終わっ..
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..野さんは提案する。「私は昔からよくやっていますよ。この間も、友達の家に行くのに金目鯛1匹を煮つけて鍋ごと持って行きました。4人集まって、野菜の煮物を持ってくる人、ステーキを焼いてくる人などもい..
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..もを抱いて、その子を私に持って行ってくれと言うんですね。もうお乳が出ないからこの子は間もなく死ぬだろう、日本人が連れて行ってくれれば生き延びられるからと。もちろんそんなことはできませんから、他..
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..ているんです。そこで私は人生を知りましたね(笑)。どこそこのご主人が浮気したとか、誰それが株で儲けたとか、嘘つきは一番いけないよねとか、よくわからないながらもいろんな知識が入ってくるんです。こ..
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..くるんです。こたつは私の小さな宇宙でした」大人になってもそれは変わらない。「私は、目は悪いけど耳はいいので、立ち聞きも上手なの(笑)。それに、どんな人からも学ぶことはできるものです。たとえば飢..
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..それは変わらない。「私は、目は悪いけど耳はいいので、立ち聞きも上手なの(笑)。それに、どんな人からも学ぶことはできるものです。たとえば飢餓の年のエチオピアでのことですが、痩せこ,{BE6041..
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..10人は下りません。私は食の関係ほどいいものはないと思っているの。食べるということで交わりは深く、長く続くのね。お金が許す範囲内で、自分の身の丈に合った中で楽しむということが幸せの条件だと思い..