日本最大級の雑誌数 定期購読者100万人以上!

掲載記事

新文化 2006年07月06日号
時代を創る 若き経営者たち
一九九五年のアマゾン・ドット・コム登場は出版産業史における重大なエポックだった。日本においては、二〇〇〇年十一月のジャパンサイト開設にやはり同じことがいえる。アマゾンジャパン立上げに動いた張本人であり、その後は富士山マガジンサービスを創業、現在約二三〇〇誌を取り扱う雑誌の定期購読サイトを運営する西野伸一郎氏は、時代の転換点をどう捉えてきたのか。今週はアマゾンジャパン誕生のエピソード、来週は富士山マガジンサービスで描く雑誌の未来を中心に紹介する。(本紙・石橋毅史) 西野氏が捉えた時代の転換期(上) 初めて語る アマゾンJ誕生秘話 富士山マガジンサービス社長 西野伸一郎 -大卒後の就職先にNTTを選んだ経緯は。 「当初の目的は、MBA(経営学修士号)の取得だったんです。大学時代は真剣にミュージシャンを目指していて、就職は人生の墓場と思っていた。英語の歌詞を理解し、英語で曲を作れるようになりたくて、三年の時に休学してロサンゼルスに移りました。学校に通いながらいろんなバイトをしたのですが、キリンビールの米国法人で働いたときに、当時の社長がMBAを取得していて、社会に出てからも学生をつづけ、こんな風に自分の可能性を広げる方法があると知った。でも学費がかなりかかる。会社の派遣でMBAを取りに行ける可能性の高い会社を探した結果、NTTを選んだんです」 -NTTではどんな仕事を。 「入社当時は電話局での料金督促や窓口受付、電柱に登って電話線の接続などもやりましたね。MBAはその後ニューヨーク大学に二年留学して取得しました。ニューヨークでインターネットを知り、日本に戻ってからも検索サイト『goo』の立上げや米国ベンチャー企業の日本進出の投資などに関わる仕事をした。ミュージシャンにはなれなかったけど、インターネットに出会ったとき、これはロックだ、と感じたんです。『第三の波』や『パワーシフト』でアルビン・トフラーが書いた、パワーが民衆へシフトする時代を実現する、既存の権力を破壊するシステムが出てきたと思った」 -九八年にアマゾンの日本法人設立に動きだすわけですが、そもそもの言いだしっぺは西野さんではないそうですね。 「NTTで仕事をする一方で、九八年二月にネットエイジというインターネット関連の起業支援会社を現社長の西川潔と立ち上げたのですが、その年の春、岡村勝弘さん(現トレジャークエスト代表)が『オンラインブックストアを日本に立ち上げたい』と相談にきた。『日本の書籍販売のあり方を根本から変えるような会社をやりたい』と。このとき、やるならアマゾンを日本にもってこよう、というのが僕の意見だったんです。アマゾンのことはすでにある程度調べていたし、その前年に、累計一〇〇万人目のお客さんが日本人ということでジェフ・ベゾス(アマゾン・ドット・コムCEO)が来日して本を直接手渡すパフォーマンスもしていた。日本進出を考えているのは間違いない、メールをベゾスに直接送ってみよう、と。そうしたら驚いたことに返事が来た(笑)。そこで、世界で一番大きい川に対してこっちは日本一長い川だ、ということで岡村さんを中心に五人のメンバーで『信濃川プロジェクト』と名付けたチームを結成し、具体的に計画を練りました」 -当時、そうした動きは他にもあったのでしょうか。 「具体的な交渉まで進展した話はなく、適当な相手がいないなかで僕らは飛んで火に入る夏の虫だったんじゃないでしょうか。そこは想像するしかないけれども」 -実際に会いに行ったのはいつですか。 「九八年九月。岡村さんと西川と僕の三人で。飛行機代は自前、ホテル代はアマゾンが出した。僕はNTTに一週間の夏休みを申請して行きました」 -かなり気合を入れて望んだわけですね。 「いや、僕はベゾスに会えるだけで面白いと思っていた。記念写真とサインは絶対もらうつもりで(笑)」 -ベゾス氏は憧れの存在だった? 「さっきの話でいえば、ロックを感じていました。例えば、今やどのECサイトにもあるカスタマーレビューやアフィリエイトプログラムを開発したのはアマゾンです。『書評家より一般の人の感想のほうがよほど説得力がある』という発想や、ホームページをリンクさせて書籍の紹介をすることで個人でも報酬を得られるというシステム。トフラーの説を具現化した一例だと思う。今では当り前すぎて、当時の僕が受けた衝撃の大きさはわかってもらえないかもしれない」 -初めてのプレゼンではどんなやり取りを。 「ジェフのほかにも買収担当、財務担当など副社長が揃っていて、『あまり時間がない』と言われたのに、結局は二時間以上話しました。ギリギリ、前日の深夜までかけて練り上げた資料をもとに、『僕らはアマゾンが日本に進出するためのドリームチームだ』と説明した。ジェフはとにかく前向きで『グレートアイディア!』『レッツゴートゥジャパン!』の連発です。『いつから始める?』ときいたら『ライク、イエスタデイ!』って」 -もう始まってるようなもんだ、今すぐやろうと。でも、実際の開設はそれから二年以上も先でした。 「そもそも、いきなり立ち消えになりかけたんです。日本に戻ってからオファーレター(雇用契約書)が送られてきて、その後、今度はそれを取り消すという内容の連絡が来た。これはアマゾンに正式に入った後になって分かったのですが、当時のアマゾンは国際展開と国内の商品充実の選択を迫られていた。米国では取締役会が社長より上位にある。ベゾスが日本進出を主張しても、取締役会で国内の商品充実を優先すると決まってしまった。でもなぜか僕はその話を聞いて、逆に俄然やる気が出てきたんです。絶対に立ち上げるという意思が、むしろここで固まった。岡村さんと二人で再びシアトルへ説得に行きました。そんなやり取りを半年ほど続けて、ついに説得できた。まあ、押しかけ女房みたいなものですね(笑)」 -その頃NTTを退職。一〇年のキャリアを積んでいたわけですが。 「NTTの仕事は楽しかったけど、僕の好きな言葉に『どこかに辿り着きたいと欲するならば、今いるところに留まらないことを決心しなくてはいけない』(J・P・モルガン)という言葉があるんです。けっこう器用なほうだし、長くいれば出世できたかもしれない。でも、アマゾンの日本法人を立ち上げるチャンスに恵まれたわけだから」 -実際にシアトルへ移って本格的な準備を始めたのは。 「ビザの問題もあって、それからさらに半年ほど後でした。当時のアマゾンは成長スピードが速すぎて、組織もかなり混乱していた。シアトルに移るまで、僕らはまったくの無給だったんですよ。ある日のミーティングで『え、君たち給料もらってなかったのぉ?』って(笑)。でも僕たちにとっては、そんなことは二の次だった」 -開設に向けて日米を往復しながら準備を進める過程で、そもそものきっかけである岡村さんがアマゾンを離れていますね。 「彼はもともとアマゾンというより独自のオンライン書店を作りたかったから、仕方がなかった面もある。でもシアトルで一年間同じアパートに住み、同じオフィスで個室をもらい、カスタマーセンターや倉庫にもいってノウハウを学んだ。最初にシアトルで受け入れられたのは、彼の強烈なパワーによるところも大きかったと思う。そもそも彼がネットエイジを訪ねて来なかったら、僕がアマゾンで仕事をすることもなかったわけです。当初の本の担当は彼、大阪屋さんと最初の交渉をしたのも彼です。すごく感謝しているし、僕にとっては戦友だった」 -西野さんは何を担当していたのですか。 「じつは当初、アマゾンの日本進出はオークションサイトから始める計画もあったんです。流通も倉庫もいらないし、まだ『ヤフオク』も『ビッターズ』も始まっていなかった。この分野なら日本の市場を先取りできるということで、僕はおもにその準備などに動いていた。本はオークションの後に立ち上げる計画で。でもオークションサイトの計画はなくなり、岡村さんの代わりに僕が本の責任者になった」 -出版社や取次会社との折衝はいつ頃から。 「九九年のうちにスタートしたが、はじめは会ってくれない会社も多かったですね。取次会社は、まず大阪屋さん以外の大手・中堅七社とコンタクトをとった。人脈がなくて総合受付に電話をかけて担当を探したこともあるし、ある取次からは会社に来られては困ると言われ、ホテルのロビーで密会したこともありましたね」 -大阪屋に決まった経緯は。 「最初は本社が大阪にあるという理由だけで頭から外していたのですが、やがて大阪屋の単品管理が群を抜いて発達していることが分かったんです。これは僕らもすっかり見落としていたのですが、拠点が大阪と首都圏に分かれていることで、はじめからデータ管理などが発達する素地があったんだと思います。それと、EC事業部長の荻田日登志さん(現取締役)の存在が大きかった。もともと情報システム開発会社出身のうえに、物事の捉え方がとても柔軟でした。三好勇治副社長(現社長)が社内でも隠密に進めるよう、バックアップしてくれたことも大きかった。開設当時、『仕入先が中堅の大阪屋なのは欠点』と書いた新聞記事もありましたが、安易な見方だなと思っていましたよ。記者としては短所を探し出して書くことで客観的な記事にしたつもりだったのでしょうが、在庫状態についても他社に劣ることはなかった」 -開設時はほかに日教販、その後に日販とも取引するわけですが。 「仕入れルートを多様にもつのは日本の出版業界以外では常識。ただ、取扱量も今ほどではない立上げ当初、大阪屋がメインで日教販さんにサポートしてもらうという形態はベストでした。トーハンや日販では取引先として重視してくれなかったかもしれません」 -出版社の反応も厳しかったですか。 「情報をあまり公開しないために、相手を怒らせる場面もあったかもしれません。初期の初期の頃、大手版元さんに挨拶に行った際、『いつ始めるの?』『言えません』『事務所はどこにあるの?』『お答えしかねます』などと答えているうちに、完全に機嫌を損ねられてしまったこともあった」 -それは当然かも。 「ま、そうですよね(笑)。ただ、アマゾンにとって非常に重大な新規事業だったわけで、ヘンに情報が漏れると本当に株価に影響してしまう。情報管理の甘さで株主に不利益をもたらすことは、米国では許されない」 -そういう米国式企業文化をもち込んだのもアマゾンの特徴ですね。「守秘義務契約」は業界の流行語大賞ですよ(笑)。この六文字が関係者を過剰に萎縮させた印象もある。 「実際のところ、それを目指して強調していました。『ここだけの話だけど』が多い世界だというのは最初から認識していたから。日本で外資系企業が成功するには、情報管理はかなり徹底すべきなんです」 -たしかにベルテルスマンのブッククラブ、BOLジャパンなど、外資系小売業は撤退が多かった。情報の出し方を失敗した例もありましたね。 「黒船なんて言われましたが、イー・ショッピング・ブックス(現セブンアンドワイ)、bk1、紀伊國屋書店などが先にスタートしていて、他社に先駆けることでシェアをとった米国とは違う展開を強いられた。当時の調査でも、一般消費者にはまったく認知されていなかったですよ。顧客や取引先に対して情報をどう公開していくかは、かなり神経を遣いました」 -〇二年夏にアマゾンを離れて富士山マガジンサービスを設立した経緯は。 「雑誌に関する市場ニーズは、アマゾンを立ち上げてからずっと感じていました。そもそも雑誌のほうが書籍よりも市場は大きいし。それと、アマゾンというブラスバンドじゃなく、自分で選んだ少人数のジャズバンドをやりたい気持ちが大きくなってもいた。NTTのときと一緒で、やりたいことがあればまずそこを去る必要があるということです。アマゾンに対する不満とか失望はなかったですね」 -ベゾス氏について思うことは。 「一言でいえば、ジェフから学んだのはリーダーシップですね。日本進出の方法についての最終ミーティングのとき、僕らは大きく分けて二種類の計画を用意しました。一つはそれぞれの分野で実績とノウハウをもつ日本企業とのジョイントベンチャー。もう一つはアマゾン単独での進出。僕らはジェフにジョイントベンチャーを勧めた。そもそも出版業界の人間ではないし、ECビジネスの経験もない。倉庫やコールセンターだって作ったこともない。独自の商習慣もある日本の市場では、日本の出版社や取次にも協力を仰いで、どこかと組んで立ち上げた方が確実だと思った。ところがジェフは、『お前らだけじゃできないのか?』と言うわけです。そのとき・・若干の不安があっても、今やアマゾンという組織にいる以上、そんな様子は微塵も見せられないと思ったんですよね。『もちろん、できる』『よし、やってくれ』。そこはもう、ごく短い会話で決まりました」 -そうした緊張感のあるやり取りは、開設以降もあったんですか。 「そうですね。リーダーとして、決めたものはやる、という姿勢を彼は持っていた。いま自分の会社を経営していて、ジェフならここで何て言うだろう、と想像することは多いです」 -アマゾンをやめるにあたって、ベゾス氏とはどんな会話を。 「彼個人との間では、こういう事情でやめるよ、とメールで伝えただけです。シアトルに行く時間はなかったから」 -ベゾス氏の返事は。 「『グッドラック!』。それくらいです。それで十分じゃないですか?」