2017年7/15号

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ニライカナイの神が、琉球の島々をつくるまで。

ニライカナイの神が、琉球の島々をつくるまで。

【久高島】沖縄県


琉球神話では、沖縄の島々は、アマミキヨという海の神様が作ったとされている。その始まりの地として、本島にほど近い久高島には、今も独自の文化が息づく。



久高島で旧暦8月10日から行う神事が「八月マティー(ハティグヮティ)」。イザイホーの祭場であった久高御殿庭(ウドゥンミャー)で行われる。近くには「タルガナー」と呼ばれるイラブーの燻製小屋もある。

神事には現在の聞得大君や神女が集う。

昔はノロのみが漁を許されたイラブー(エラブウミヘビ)。その燻製を食す伝統料理「イラブー汁」は「食事処とくじん」で味わえる。¥1,500

アマミキヨが最初につくった琉球七御嶽のひとつとされる、フボー御嶽。手前にある岩より先は立ち入ることが禁じられている。

「ニライカナイ」とは東方の海の彼方にある神々が住む理想郷のことである。琉球神道においては、魂が帰り、また生まれてくる場所だといわれる。太陽はこの海上から昇り、西の海に沈むと、海底や地底の他界を通って再び昇るのだと信じられていた。

沖縄本島南部、知念半島の東方約5・5㎞の洋上に浮かぶ、周囲約7・5㎞の小さく平らな島、久高島。この島には、アマミキヨ(女神)とシネリキヨ(男神)が、ニラーハナー(ニライカナイ)からやって来て島をつくった、という琉球開闢(かいびゃく)の神話が伝えられている。また、島の東海岸にあるイシキ浜は、五穀が入った壺が流れ着いたという〝穀物伝来神話〟が残る聖地だ。

女性が神事を執り行い、太陽と月と暮らす島。

かつて南太平洋を黒潮に乗って北上してきた古代の海洋民族は、たどり着いた島の人口が増えると食料を積み、新たな島を目指したという。その際、上陸した島で食料を確保するために、穀物の種子を携えて航海に出た。祖先も穀物も、黒潮が海の彼方から運んできたのだ。それがニライカナイからのアマミキヨ神話につながるーと久高島のガイドは話す。確かに、島にはアマミキヨが最初に降り立ったと伝わるカベール岬や、アマミキヨがつくった琉球七御嶽(うたき)のひとつ、フボー御嶽など、神話にちなむ数多くの聖地や、古くから伝承されてきた祭祀が残されている。

有名な「イザイホー」は、12年ごとの午年に行われる重要な祭祀行事。島の女性たちが山ごもりをして神女(タマガエー)になるための、古代琉球の神事である。現在は後継者不足により1978年を最後に途絶えたままだが、島ではいまも年に三十余りもの神事が行われている。島民の暮らしは、太陽と月、龍宮(海)への感謝の祈りで始まる。

集落は島の南にある港のまわりに集中し、島の四分の三以上を占めるのは御嶽のあるアダンやクバの森だ。集落と森とを分かつ十字路から北は神の領域とされ、神事の際、男性はこれより先へは入れない。ほかにも御嶽や拝所(うがんじょ)など、島民でも入ることが許されない場所が久高島には数多くある。

アマミキヨはやがて久高島から島伝いに本島の玉城へ渡り、稲を栽培して広め、3人の男とふたりの女を産む。男は国王、諸侯、農民となり、女は神と、神に仕えるノロ(祝女)となった。このため、歴代の王と最高位の神女・

聞得大君(きこえおおぎみ)は2年に1度、久高島に渡り礼拝をするようになる。本島に多数ある拝所はすべて久高島を遥拝するようにつくられた。琉球最高の聖地と呼ばれる斎場御嶽(せーふぁうたき)でさえ、久高島を真東に拝する場所にあるのだ。

那覇空港から安座真港までクルマで約45分。港から久高島へは高速船で15分、フェリーで25分。1日に往復6便が運航。島内の移動はレンタル自転車が便利。クルマでのガイドツアーもあり。

斎場御嶽の三庫里(さんぐーい)の奥にある久高遙拝所。木々に縁取られた空間の向こうに神の島・久高島が。遥か昔より祈りを捧げた場所。

いまも巡拝される、本島に渡ったアマミキヨの足跡。

いまも巡拝される、本島に渡ったアマミキヨの足跡。

琉球の王が始めた霊地巡りが、沖縄人(うちなーんちゅ)へと引き継がれた。

琉球開闢の祖神アマミキヨはやがて、稲を栽培する場所を探して久高島から対岸の本島に渡る。その第一歩を印した場所と伝えられるのが、ヤハラヅカサだ。アマミキヨはここから、仮住まいであった浜川御嶽(はまがーうたき)を経て、安住の地としてミントングスクに住み着いた。そして、そこからさらに玉城城跡、知念城跡へと歩みを進めたという。現在の知念半島周辺に、琉球の創世神話にまつわる史跡が数多く点在しているのは、そのためだ。

そんなアマミキヨゆかりの霊地を巡拝する「東御廻り(あがりうまーい)」は、琉球王国の繁栄と五穀豊穣を祈願する行事として始めた国王の巡礼が、その起源といわれている。代々、国王は麦の穂が出る旧暦2月には久高島へ行き、稲の穂が出る旧暦4月には知念、玉城の御嶽を巡った。それが東御廻りの原型となり、王族から士族、沖縄の人々へと広まったのだ。

国王自らが執り行った聖地巡礼は200年余り続き廃止されたが、ともに巡拝した、国の祭祀をまとめる最高神職の聞得大君による東御廻りは、その後も長く続けられたという。首里から久高島へと続く聖地巡拝の旅は、なお多くの人々が参加している。

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