2017年7/15号
Pen(ペン)
【沖ノ島】福岡県
絶海の孤島に住む女神が、玄界灘を見守る。
福岡県宗像市に鎮座する宗像大社は本土側の辺津宮(へつみや)、大島の中津宮、そして沖ノ島の沖津宮という三社一体の神社。それぞれに市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、満津姫神(たぎつひめの)、田心姫神(たごりひめのかみ)という女神を祀っている。古来この地はシルクロードの終点に当たり、日本列島と大陸との海上交通の要衝だった。大和朝廷は国の繁栄を祈願するため、在地の豪族にして神職でもある宗像氏を通じて三女神への祭祀を懇ろに行っていたのである。沖ノ島は宗像市の神湊(こうのみなと)から約60km。時速55kmの高速船でも1時間10分かかる絶海の孤島だ。九州と朝鮮を最短で結ぶ「海北道中」上に位置し、釜山までわずか145km。取材当日の海は凪ではあったが揺れは相当なもの。中津宮が鎮座する大島を尻目に、玄界灘のただなかへと進む。見渡す限りが水平線となり、海への畏れが湧き上がってきた頃、島影が見えてきた。
アニミズムが息づく、巨岩信仰の聖地へ。
常緑樹に覆われる沖ノ島は周囲4km。石英斑岩がいたるところに露出し、南側にわずかに整備された港以外には船を着けることは難しい。上陸した我々は、神職に出迎えられた。宗像大社に奉仕する約20人の神職は10日交代で単身、島に渡り、沖津宮の祭祀と管理を行う。沖ノ島は一般人がみだりに立ち入ることができない神聖な場所。女人禁制で、男性であっても特別な許可を得た上、港での禊を行わねば上陸できない。抗により我々も素裸で禊を行い着衣を整えてから一の鳥居をくぐった。神職たちが毎朝行き来する参拝路は、人がひとり通れる程度の細道。鬱蒼とした茂みに覆われ、歩を進めるにつれて濃密な樹叢の匂いに気圧される。踏み石を覆う苔も深々とした緑色だ。400段の参道を経て見えてくる社が、沖津宮の拝殿と本殿。裏側にいくつも屹立するのが、この場所を"神の島"、と言わしめる巨岩の祭祀遺跡である。神職は毎朝、その日の神饌(しんせん)を献じる「日供祭(にっくさい)」を拝殿で行う。米、酒、野菜などだが季節によっては漁師たちの獲物が献魚として奉られる。祭祀が終わると神職自ら魚をさばき、自炊の食事の糧とする。社殿は巨岩すれすれに密接するように造営されており、祝詞の声が幻想のように響き渡る。
宮司の葦津敬之(あしづたかゆき)さんはこう語る。 「今日の神社には仏教の影響で社殿が設けられていますが、古来、神道の祭場に建築物はありませんでした。奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)が好例で、三輪山を御神体として拝するため現在も本殿は存在しません。沖津宮の巨岩も神様が宿る“磐座"として古来、祭祀の対象でしたが、社殿の建造はそれほど古くはありません。磐座祭祀はケルトやネイティブアメリカンにも見られるような、宗教の原初的な形態。ここには世界中に存在していたにもかかわらず、一神教の登場で姿を消すことになったアニミズムがいまなお息づくのです」

島の南側、玄界灘海上から見た沖ノ島の全景。上陸する船は、左手前に見える岩礁の間をちょうど鳥居のようにくぐり抜けて港に到着する。

巨岩がひしめく森の奥に、静かなる社殿が鎮座する。
葦津さんはライフワークとして長年、環境問題に取り組む。代表的な活動例が「宗像国際環境100人会議」だ。環境問題に注力する企業をスポンサーに迎え、有識者とともに海の環境保全について考えるもので、これまでに3回開催された。昨年は葦津さんも登壇し、神道と環境問題について講演。今年は、海の環境を守る「全国豊かな海づくり大会」も宗像で開かれる。世間の耳目を集める沖ノ島を擁する宗像市は、変わりゆく玄界灘の現状を訴えるべく警鐘を鳴らしている。「〝持続可能な開発〟という考えが認知され、神道はエコロジカルな宗教として高い評価を得ています。アボリジニーなど土着宗教を奉じる人々からは、神道は最後の希望だといわれます。自然は神様そのもの。環境破壊は神々を破壊する行為です。そのため沖ノ島周辺の環境を守ることは、未来に向けてとても重要です。またアニミズムをベースとする民族宗教は、信仰される地域の外に出ることが想定されておらず、性善説に基づきます。一方、一神教には対立軸が存在して軋轢が生まれ、性悪説を取らざるを得ない。仏教伝来の際に日本人は外国の神がやってきたと考えて、それをも自らの信仰形態に平和的に取り込んで神仏習合が生まれました。グローバル社会の現在、これまで以上に日本の神話や神道は世界的に注目されているのです」

社殿からやや離れた場所にあり、露天祭祀が営まれたと目される1号遺跡。いまも土器の破片がそこかしこに散らばり、祭具を処分した遺棄場所と考える説もある。

漁師たちの獲物も「献魚」として日供祭で奉られる。供えられた魚は煮付けなどにして、神職たちが日々の食事としていただく。

社殿は巨岩の合間を縫うように建てられ、南側はこのようにぴったりと隣接する。この奥に、さらに13もの巨岩が密集している。

当番の神職たちは朝、社務所前の御前浜で禊を行う。その後、神饌を携えて400段を登り、樹林を抜けて社殿へと向かう。

沖津宮の社殿は17世紀中頃から造営され、昭和7年に現在の形に。それまでは社殿は設けず巨岩そのものに神を見出し祭祀を行っていた。

毎朝、田心姫神に供え物を饗する神事、日供祭の様子。沖ノ島に10日交代で当直する宗像大社の神職たちが行うべき大切な勤めのひとつだ。
八万点もの国宝が眠っていた、 海の正倉院
金製指輪
5世紀〜6世紀 5号遺跡出土 内径1.8㎝

中央には四葉座、側面には円文が細い金板を蝋付けして表現された純金製の指輪。韓国慶州の王陵から同型が出土しており、新羅との直接的な関係を裏づける。わずかな痕跡から本来は宝石で彩られていたことがわかっている。
金銅製龍頭
6世紀半 5号遺跡出土 幅約20㎝

竿の先端に付けて祭礼時の天蓋や幡(はた)などを吊り下げるのに使ったとされる飾り金具。一対だが別の鋳型でつくられ細部に違いがある。敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)の壁面に類似品が描かれるが、日本での出土例は沖ノ島のみ。
沖ノ島には
祟りを恐れて神職以外は立ち入らない時代が続いたが、キリシタン大名で知られる16世紀の黒田長政は、下命して宝のひとつを持ち出させた。その際の遺物と言い伝えられるのが、女神たちが纏う
発掘調査が明らかにした、神の島の祭祀遺跡とは?
本格的に宝物が人の目に触れたのは戦後のこと。昭和20年代〜40年代に12回の発掘調査が行われた。地元出身の財界人・出光佐三を中心とした、戦後の神社の荒廃を嘆く有志による社史編纂事業の一環である。発掘とはいえ、遺物の多くはすでに地表に露出。岩上の「祭壇」や「御金蔵」と呼ばれる洞窟からも、鏡や勾玉などが大量に発見された。落ち葉の下にも土器片が散乱し、調査員の足下で割れ音が響いたという。
調査と分析の結果、祭祀遺跡の全貌が少しずつ明らかになっていく。巨岩の数は14、その上部や岩陰、周辺が1〜23号までの遺跡とされた。
縄文期から人の痕跡があった沖ノ島で、現在まで続く祭祀が始まったとされるのは4世紀後半。「岩上祭祀」と呼ばれ、磐座の上部に祭壇を設けて神事を行ったという。特筆すべきは71面もが見つかった銅鏡。大和朝廷によって生産されていたものだが、これほどの量が一度に見つかった例はない。
5世紀後半からは、庇状の巨岩の陰を祭場とする「岩陰祭祀」の時代だ。小さいながらも随一の存在感を放つ純金製の指輪は、この時代の遺物。新羅の遺跡から同型が出土し、大陸との交渉の痕跡が色濃い。また、カットグラス破片はササン朝ペルシャでつくられ、シルクロードの終着点たるこの地に運ばれてきたものだ。
7世紀後半からは「露天祭祀」が行われ、祭場が磐座からしだいに離れていく。露天に一時的な祭壇を設けるさまは、現在のように社殿を営む新しい祭祀形態への萌芽とも感じられる。国内では類例がない「金銅製龍頭」や、唐三彩の日本版とでもいうべき「奈良三彩小壺」がこの時代の遺物の代表格。
これらはすべて、宗像大社の神宝館に収蔵された。沖ノ島にはいまも、無垢な遺物が眠り続けている。


奈良〜平安時代の作といわれる「金銅製高機」。長さ48㎝、幅12.8㎝。精巧な機織道具のミニチュア。伊勢神宮の同型の宝物よりも古いという。

「奈良三彩小壺」。日本最古の釉薬陶器で、奈良時代に唐三彩の影響で誕生。大和朝廷が生産を管理し、各地の国家祭祀で奉献された。

4〜5世紀のものとされる硬玉・碧玉・滑石製の勾玉。岩上祭祀が行われたと考えられる、巨岩上の16号遺跡から発見された。

金銅製の「歩揺付雲珠 (ほようつきうず)」は100点以上出土した馬具。鞍から尻にかける革帯が交差する場所に付けた。

金銅製の「杏葉(ぎょうよう)」。高さ約11・1㎝。馬を装飾する道具。杏の葉をかたどり、優美な透かし彫りが施されている。

8号遺跡から出土したカットグラス碗の破片の一部。ササン朝ペルシャからシルクロードを通り、我が国にもたらされたと考えられている。
三角縁神獣鏡
3世紀作 18号遺跡出土 面径22.2㎝

沖ノ島から出土した71面の銅鏡のうち最も状態がよいもの。縁の断面が三角形で、神や獣が描かれているためこう呼ばれる。大和朝廷からもたらされたものだが、国内にある同一遺跡でこれほど多量に出土した例はない。

藤原新也が見た、未開の神域・沖ノ島の姿。
福岡県門司出身の写真家・藤原新也さんは、子どもの頃に、漁師たちから玄界灘にある「宝の島」の話を聞かされていた。それが沖ノ島であることがわかったのは5年前。知り合いを通じて入島を誘われたのだが、当初は島根の「隠岐の島」だと思っていた。「全体が神域と聞いても、過去に行った似たような場所と同じ程度だろうと思って、最初はそれほど興味はなかった。渡航の日、荒れた海の遠くに島影が見えた時、初めて『えっ?』と思った。外国を含めて、あれほど小さな島なのに、180度周りを見渡してもすべて水平線というのはすごく珍しい。シチュエーションの妙というか、孤高の美しさを感じたね。きっと古代人もまた、俺が感じたのと同じようなことをあの島の姿に感じたはずだ。島が神格化されるには理由がある。神聖さと美しさはリンクする。俺は目で見て、あの島は普通ではないと思ったんだ」
船が港に到着し、素裸で禊を済ませると、ある「異変」を感じた。「俺にとって海ってのは収穫をする場所。だから潜ってムラサキウニを素手で捕まえた。神聖な島だから殺生してはいけないと思いつつ、そのまま割って食べようとしたら中身がスカスカ。磯焼けで栄養が足りていないから、身が入っていないんだ。こんな海は初めて見たよ。神聖な島なのに、周りの海は死につつある。恐らく大陸からの汚染の影響だろう。俺にとって沖ノ島の最初の体験は環境汚染だったんだ」
持参したカメラはコンパクトなリコーのGXR。2013年刊行の写真集『神の島 沖ノ島』や今年上梓した『沖ノ島』に掲載された作品は、ほとんどがこの時に撮られたものだ。「一の鳥居から坂道を上がり、三の鳥居をくぐると窪んだ場所に下っていく。そこで空気が、がらっと変わったのがわかった。吹いていたはずの風がやみ、小鳥の涼やかなさえずりが聴こえ始めた。植物の色が醸し出す清涼な感じも違う。普通の人には感じないかもしれないが、俺は感じた」
人目に晒されていない、初う心ぶな聖地を撮影する。
初回は沖ノ島の「空気感」を撮影したという彼は、今年の5月半ば、今度は「モノ」を撮るために三度目の上陸を果たす。神職ととともに社務所に2泊3日で泊まり込む予定だったが残念ながら天候は雨。しかし、3日目の早朝に「いい光」が一瞬だけ回ってきた。「撮れない日が続いた中の、撮れる時間はいい。沖ノ島で本当に神聖なところは、本殿裏の巨岩の先の丘陵地だ。いわゆる禁足地で、今回頼んで特別に入れてもらった。白装束に身を包み丘陵に入ると、これはすごいなと思った。骨董品をケースで展示すると、人の目垢がついて駄目になっていくということがあるが、その場所は〝人の目〟から見られていなかった場所。広さでいうとテニスコート3面分くらいで、海が少し見える。用心深く、下草の葉一枚すらも踏まないように歩いたよ。世界中、神聖だという場所にはあちこち行ったが、あれほどの初心な感じってのはどこにも残ってない」
誰も足を踏み入れていないとすれば、そこは地球誕生以来46億年もの間、放置されているということになる。「それでいて、そこには秩序があった。植林した場所でも手を入れなければすぐに荒れてしまう。あの場所は外来種もいないし、下草もきれいなガラパゴス的な場所。仮に小堀遠州のような造園家を連れてきても、ああいう自然の造形には勝てないだろう」
深い緑が渦巻く神聖なる場所を斬り取った新作は、今夏に開催される写真展で見ることができる。今日まで見た者はほとんどいない聖域に足を踏み入れた藤原さんが沖ノ島に見出したのは、「女性そのもの」だったという。「聖地というと富士山のように、とんがったものが多い。ところが沖ノ島は窪んだところが聖地であり、そこにお社がある。船の世界というのは男の世界。つまり男から見てあの島がどう見えたか。巨岩から染み出る水は愛液のようにも感じるし、あの島の窪地は女陰であったり子宮や母胎のようにも感じられる。海を意味するフランス語 〝ラ・メール〟が女性名詞であるように、海は女性として古代人に考えられた。あの島を遠目に見た船乗りも、女性の姿を見たのだと思う。これを男性だとは絶対に感じないと思うね。古代人は性に関して大らかだった。現代は性というと忌事のように感じるが、本来は最も大切なものだったんだ」
藤原さんの考える宗像三女神の解釈はこうだ。
「彼女たちの名前は当て字だと思う。

『沖ノ島』藤原さんが沖ノ島を撮影した最新の写真集。日本橋タカシマヤ8階ホールにて写真展『沖ノ島 神宿る海の正倉院』(有料)が7/19〜8/1に開催予定。藤原新也著 小学館

藤原さんの作品から。『岩陰 ひご』。祭祀の道具が大量に見つかった岩と岩の狭間。触れると岩自体から染み出す水が手をびっしょりと濡らす。「女陰を連想させる」と藤原さん。

『飛石 みちびき』。三の鳥居を過ぎて坂道を下ると、空気の変わる場所がある。飛石を覆う苔の濃い緑色が、この道を通る者が古来ほとんどいなかったことを如実に示している。

『岩上 こうりん』。沖ノ島の祭祀が始まったと考えられる巨岩の上からは玄界灘が見下ろせる。宗像三女神の田心姫神が降り立ったとされる、最も聖なる場所のひとつだ。

