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京セラ創業者の稲盛和夫氏が昨年8月24日に90歳で逝去し、1年余りが経ちました。
『経営の神様』などと評され、その経営哲学に共感する声は今なお多いです。
ですが、実は稲盛氏を巡っては、いまだ知られざる逸話や意外な人脈なども存在しています。
週刊ダイヤモンドでは、それらを再発掘し、改めて稲盛氏の思想の深遠や素顔に迫っています。
稲盛和夫氏直筆の草稿を初公開
『副官』に渡したメモの中身
『経営の神様』稲盛和夫氏がこの世を去ってから1年余りがたちました。
京セラやKDDIの前身となる第二電電を創業し、
経営破綻した日本航空(JAL)を再建に導くなどの実績を残した手腕や
経営哲学を評価する声は多いです。
そんな稲盛氏が生前、「私の副官」と呼び、京セラ秘書室長などとして約30年にわたり、
同氏の側近を務めたのが大田嘉仁氏(元京セラ常務秘書室長、元JAL会長補佐、現MTG取締役会長)です。
大田氏は、これまでに公にしてこなかった『稲盛氏直伝』の手書きメモの存在を明かします。
それは約30年前に京セラで稲盛氏の秘書を務めていた際、
「これが俺が考えていることだから、参考にしてほしい」という言葉とともに稲盛氏から渡されたものです。
そのように手書きで考え方をまとめてもらったのは、それが最初で最後だったといい、
それ以来、大切に保管して事あるごとに読み返してきたといいます。
「稲盛さんがお亡くなりになり、本来は公開すべきものではないかもしれないと思いつつ、学びや教えを多くの人に知ってもらいたいとの考えに至った」
この手書きメモには「振り返れば、稲盛さんらしい考え方がたくさん入っているように感じる」と話します。
大田氏の経歴
大田氏は新卒生として京セラ入社後、1998年に米ジョージ・ワシントン大学ビジネススクールへ留学。
社内試験を経て米国へ送り出されたわけですが、
実はその際の面接を務めたのは当時、京セラ会長の稲盛氏だったといいます。
そして90年、大田氏は同大学を外国人では初となる首席で卒業し、MBA(経営学修士)を取得。
そんな稀有な経歴も目に留まり、大田氏は日本に帰国後、少数生成の新組織である経営企画室で
当時京セラの社長を務めていた伊藤謙介氏のサポートを担うメンバーに抜てきされました。
さらに、91年には稲盛氏が政府の行革審(第三次臨時行政改革推進審議会)で
部会長を務めた際の特命秘書に指名された他、
稲盛財団の仕事に至るまでを手広く兼務させられるほどの重用ぶり。
稲盛氏は当時から有名経営者だっただけに、大田氏は「その頃は緊張しっ放しだった」と振り返ります。
しかし、稲盛氏は大田氏を匿名秘書に指名した際、
「おまえと俺は一心同体でなければいけない。おまえが傲慢なら俺も傲慢だと思われるし、おまえがいい加減な回答をしたらそう思われる」
などとハッパを掛けました。
例えば、東京で開かれた行革審の部会や懇談会では、財政界を代表する要人たちが一堂に会していましたが、
稲盛氏は「おまえの意見はどうなんだと、一丁前に扱ってくれた」といいます。
重圧を感じながらも、約3年にわたる行革審の特命秘書を何とか終えた後のこと。
稲盛氏直下の仕事が一巡したと考え、お世話になりましたとあいさつすると、
大田氏は思わぬ言葉を掛けられました。
「何を言っているんだ。これからは専任の秘書として、秘書室に来るんだ」
大田氏は、伊藤社長にも相談しましたが、稲盛会長からの指名は受けるべきだと直言され、心に決めたそう。
稲盛氏が大田氏に渡したメモ

そうして長きにわたる稲盛氏の秘書業務が本格化し始めた頃、
稲盛氏が大田氏に渡したのがこちらの手書きメモ。
稲盛和夫氏の手書きメモ
原文のままで記載します。
人間は暗いと失敗をする 陰気な人間は失敗する
明るい人が成功する 人の長所を認める人が明るい
自分を未来に於いて立派な明るい自画像をかける人
先のことは判らない 運命である それ故にこそ未来に
立派な明るい目標を立てること
外部の環境がどうあろうと 自分の心の中に非現実的
なことでも良いから 明るい希望を持つことによって人間
不易流行 不易=信用
(決断)道理に合ふかどうか 次に儲けられるかどうか
と考へるべきである
道義を忘れては困る 根本である
不易=道義 流行=商法 時代を見る 工夫する
智恵を出す 時代を見る目 太陽エネルギー
は良い仕事のはずだ 成功すると信ずることだ
本誌では、稲盛氏に長く使えた大田氏のさらなるエピソードを掲載しています。
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