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日本人初となる日米野球殿堂入りをした鈴木一朗(イチロー)選手。
日米野球殿堂入りとは、米大リーグを10年以上経験し、現役引退後5年を経過した者が殿堂入りの対象となり、選出されること。
ベースボールマガジンでは、イチロー選手にインタビューをしています。
「こんな使い方でまた二軍に落とすなら……」

日米野球殿堂入り、おめでとうございます。
「ありがとうございます。過去に対する評価とはいえ、たくさんの方々に喜んでいただけてうれしいです」
日本での9年間のプロ野球人生は、イチローさんの中でどういう位置づけでとらえていますか。
「今は多くのアマチュア選手がMLBでプレーしたいと表明する時代ですが、ちょっと前までは考えられないことでした。隔年で行われていた日米野球を見て『あー、すごいなぁ』と終わって終わり。自分がメジャーリーガーとしてプレーする姿なんて、まったく描けませんでした。
高校からプロの世界に入って三年間は二軍で基礎を作るつもりでいました。しかし3年目(1994年)に仰木(彬)監督に出会い、レギュラーとして抜擢していただき、人生が大きく変わることになります。立場も一気に変えられました。そうやって周りによって先を走らされている自分に追いつこうとしていた時期もありましたが、地道に進んできた結果、MLBが見えてきた流れはとても味わい深いものでした」
最初の2年間は野球がすごく楽しかったと過去に語っています。自分から「一軍はまだ先でいい」というポジティブなチョイスをした印象があるのですが、一方で、これまで培ってきたバッティングなどを認めてくれない首脳陣がいて試合に出られない。そういうもどかしさ、悔しさ、「なんだよ、プロって」という気持ちはイチローさんの中にあったのですか。
「2年目の7月、ナゴヤ球場での近鉄戦後、神戸に戻ってからグリーンスタジアム神戸のロッカーで二軍行きを通告されたんです。それは悔しかった。人目もはばからず大泣きしたのはあれが最初で最後です」
その悔しさや、涙はいま思うと何に対してぶつけられていたものですか。
「3年は基礎を作るという当初のシナリオとは違っていましたが、その頃にはやる自信がありましたし、その年は何度も一軍と二軍を行ったり来たり。こんな使い方でまた二軍に落とすなら、一軍に上げてもらいたくなかった」
涙を流すくらい悔しかった思いを、どれくらいの時間をかけて消化できましたか。
「計画していた3年以内だったので受け入れることができたのだと思います。その後もう一度一軍昇格し、最終的には9月にまた降格。そこからシーズンが終わるまでに形(振り子打法)をしっかり作ろうと河村さん(健一郎、当時二軍打撃コーチ)と取り組み、シーズン後にハワイのウインターリーグへ参加することになりました」
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