指導者たちが語るダルビッシュ有…根っからの研究熱心でストイックなエースの姿

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5月20日(日本時間)に日米通算200勝の歴史的快挙を成し遂げたダルビッシュ有選手。

若き日を知る指導者たちの証言から浮かび上がるのは、根っからの研究熱心でストイックなエースの姿でした。

 

週刊ポストでは、ダルビッシュ有さんの中学時代の恩師が語るインタビューを掲載しています。

 

「休んだことは一度もなかった」

 

 

メジャーリーガー・ダルビッシュ有(37)の原点は大阪・南河内にあります。

小学2年生で地元の『羽曳野ブラックイーグルス』で野球を始めました。

 

イラン出身の父・ファルサさんはサッカー選手だったこともあり、息子にもサッカーをさせたがったのですが
ボールを蹴るより投げるほうに興味を持ったといいます。

 

大きく成長したのは中学1年生から入った地元の強豪チーム『羽曳野ボーイズ』でした。

山田朝生総監督が振り返ります。

 

「入団当時は目立った存在ではなかった。体は大きかったが、野球がうまい子は他にたくさんいました。ただ歩くうしろ姿がよかった。バランスが取れた歩行姿勢を見て、いずれエースに育てたいとトレーニングをさせました」

 

小さな平均台の上でテニスのラケットを振らせ、左右で投げさせたそう。

そしてダッシュとランニングを徹底的にやらせました。

練習嫌いと報じられていますが、
「釣りが好きで友達と行きたいと言っていましたが、休んだことは一度もなかった。集中力が素晴らしく、練習の目的を理解していた数少ない選手でした」
と山田総監督。

 

2年生秋からエースになると、全国大会ベスト8、世界大会3位の成績を残しました。

 

「姿勢がいいのでコントロールがよかった。スピードもあったが、試合中にどんどん修正できる子だった。ストレートを四隅に投げれば変化球になると教えていたが、隠れて変化球の練習をしていたようです。試合ではスライダーで三振を取っていたが、中学生で打てる球ではなかった

 

「一番凄いのはプロ根性」

 

高校進学では全国の強豪36校から声が掛かったのですが、
関西から遠く離れた仙台の東北高校を選んだダルビッシュ選手。

英語が話せたこともあり、海外留学に力を入れている教育方針も合致しました。

 

1年生秋からエース番号を背負い、2年生夏、3年生春夏と甲子園に計4度出場。

2年生夏の準優勝が最高成績ですが、3年春ではノーヒットノーランを達成しています。

 

「高校時代から練習法や投球術に独自の考えを持っていた。若生正広監督(故人)がその考え方を尊重し、指導者の考え方を押し付けなかったことで成長した」(ジャーナリスト・広尾晃氏)

 

2004年ドラフトで日本ハムが単独指名。

当時、二軍投手コーチ(のちに一軍投手コーチ)で、
ダルビッシュ選手が“恩師”と慕う佐藤義則氏(野球討論家)が語ります。

 

「入団当時は驚くようなボールではなかった。左足のステップがバラバラだったので修正したことでコントロールがよくなり、潜在能力が発揮できるようになった。
もともと器用な選手で、研究熱心だった。当時からブルペンでは変化球をいろいろ投げていたが、ゲームではスライダーやカーブなどが中心でしたね」

 

佐藤氏はダルビッシュが大きく成長したゲームとして2006年のシーズン終盤のソフトバンク戦を挙げます。

勝てばペナント1位通過の大一番。

前回の先発から中3日で6回から2番手で登板し、2イニングを無失点に抑えました。

 


 

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