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大谷翔平がバッターとして前人未到の頂に登り詰めた2024年。
彼はホームランと盗塁、つまりパワーとスピードの両方を高いレベルで極めた史上初の“50-50”をメジャーの舞台で悠々とクリアしました。ホームラン54本、 盗塁59個ともなれば「打って走る」バッターとして大谷は世界一の選手になったと言っていいでしょう。
しかし、忘れてならないのは大谷は二刀流のプレーヤーだということです。
バッターとしての能力が高ければ高いほど、周囲からの評価が高まれば高まるほど「もうピッチャーをやらなくていいのではないか」という声が出てきます。おそらくドジャースでもそれは変わらないでしょう。
それでも大谷はピッチャーにこだわります。それはなぜなのでしょうか。
今号のベースボールマガジン記事特集では大谷がピッチャーにこだわる理由について深堀しています。
その理由について、大谷の母・加代子さんがかつてこう話してくれたことがありました。
「翔平は高校で日本一になるんだって花巻東に入ったんです。でも一番大事な2年の夏を前にケガをして、そこから半年くらい、ピッチャーとして投げられない時期がありました。
3年の春にはセンバツで投げましたが、まだケガが治ったばかりで甲子園では勝てなかった。3年の夏も160キロを出しましたけど、冬のトレーニングができていなかったことが響いたのか、甲子園には出られませんでした。
結局、 勝てるピッチャーになれなかったことが翔平の中で不完全燃焼という形で残っているんだと思います」
身長が190を超えてもまだ成長段階にあった高校時代、骨の成長に筋肉が追いつかず、大谷は股関節の軟骨が傷つく骨端線損傷などのケガに悩まされました。
大事に育てようという方針から、花巻東の佐々木洋監督は身体のできていない1年生の大谷にはピッチャーをやらせませんでした。
そして野手として、1年の春からいきなり四番を任せられた大谷がこう振り返りました。
「高校へ入ったとき、自分はピッチャーで行くものだと思っていました。でも、ケガもあってピッチャーができない時期が長かった。
だから高校時代はバッティング練習をたくさんやりました。試合では三番とか四番を打たせてもらっていたので、野手としての仕事もしっかりやらなきゃいけなかったんです。
そうしたらバッターとしての自分がどんどん良くなっていくのを感じました。 自分で思っていたよりも、もっと上の自分がいたのでバッティング が楽しくなってきたんです。
その分、 ピッチャーとして高校時代にやり残したことがあまりにも多かった。 このままピッチャーをやめるのは心残りのところがありました。 だからピッチャーをやり切ってみたかったんです」
大谷の中では、いつもバッターの大谷が先を走って、その背中をピッチャー大谷が追い掛けていました。
高校のときも プロに入ってからも、メジャーに舞台を移してからも、残った数字ではなく大谷の感覚の中に「ピッチャーとしての自分はこんなものじゃない」という想いが常に横たわってていました。
本誌ではさらに、大谷のプロ初挑戦時に持っていた「二刀流への思い」が紹介されています。
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