【戦国武将の酔いどれエピソード】伊達政宗の宴、上杉謙信の暴飲、真田幸村の慰め酒

  • 更新日
  • 有効期限 2025.01.04

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乱世の猛者たちには欠かせない嗜好品の酒。

今号の男の隠れ家では、武将たちのお酒にまつわるエピソードを紹介しています。

伊達政宗と酒の深い絆
文化人武将が生んだ清酒と失態の逸話

 

東北・仙台の初代藩主として知られる伊達政宗は文化人としても多才で、料理にも造詣が深いと言われていました。

「仙台味噌」を開発し、鮎すし、鮭、 茶などを好み、贈答品として活用していたことがわかっています。

そして、酒についてもさまざまな記録が残っています。
江戸時代になって間もない慶長13年(1608)、政宗は仙台城内の一角に「御酒屋」を設けました

当時、酒造りの本場だった大和国(奈良県)から又右衛門という職人を招いて御用酒造りを行わせていたのでした。

当時民衆の間で広く飲まれていた「どぶろく」ではなく諸白だったこともわかっています。
透明度の高い、今の清酒とほぼ同様の高級酒です。

幕府からの使者をもてなす際、政宗は藩で造った酒や御肴に至るまで細やかに気配りし「毛頭、油断あるまじき候」と指示を与えていました。

老中の本多正純には、抜け目なく御用酒を十樽も贈っていました。
政宗は筆マメでもあり、自筆の書状を多く残していますが、中には酔っぱらった状態で書いたような 字の乱れたものが何通かあります

その一つが慶長15年(1610)、信州松本藩主・石川康長に宛てた書状です。
「今朝から夕方まで酒を流し込むように飲んだので、正体を失うまでくたびれてしまいました」と、二日酔いのため面会を断っています

また、息子の亘理宗根に出した書状にも「明朝に会う約束をしていたが、気分が優れないので改めて1日の晩に参る」と書いたものがあります。

さらに藤堂高次の使者に対し、酔っていて応対に出られなかったのを詫びたこともあります。
酒好きだけに飲みすぎることも多かったことが分かります

 

戦国武将たちの酔いどれエピソード

 

上杉謙信

京で将軍の足利義輝たちと「大酒を飲んで夜を明かした」ことがある。

近衛前嗣(このえさきつぐ)が「今日は二日酔いで参加できない」と断った手紙が残っていますが、よほど謙信に飲まされたのでしょうか

それ以外に酒好きぶりを明解に記す史料は見当たりませんが、謙信費用と伝わる大きな馬上杯が残っているのは、やはり酒豪の証しでしょうか。

 

真田幸村

関ヶ原の戦いで西軍に属した幸村は高野山麓の九度山に配流。

蟄居中に「(使いの者に持たせた)この壺に焼酎をお詰めください。
こぼれぬよう壺の口をしっかり目張りしてください」などと「左京殿」という京都在住の知人に書いた手紙が残っています。

10年以上にも及んだ蟄居生活、 焼酎が一番の慰めであったのでしょうか


 

本誌ではさらに、真田信之をはじめとした戦国武将の酒豪伝説がご覧いただけます。

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