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2024-01-04 発売号 (2024年2月号)
栃木・作新学院高時代から圧倒的な投球を見せ、全国にその名を轟かせました。
法大では東京六大学史上2位の47勝をマークします。
高校、大学と2度のドラフト指名拒否を経て、1978年秋には「空白の一日」に巨人と“契約”。
紆余曲折を経て念願の巨人入りを果たしましたが、以降は逆風にさらされることも多々ありました。
あの日から45年が経過した今、「怪物」は何を明かすのか。
今号のベースボールマガジンではインタビューを通じて、江川卓の半生を辿ります。
自宅の電話は鳴りっぱなし
「母は髪の毛が真っ白に…。」
ーーまずは1978年秋、「江川騒動」からお聞きします。11月21日に巨人と“契約”する「空白の一日」があり、そこから激動の日々を過ごすわけですが、今振り返ってみて、江川さんにとってどんな時間だったのでしょうか。
江川 まさにその通りで、全てが急だったので。私は1年間、アメリカ(南カリフォルニア大学)に行っていました。
そして日本に帰ることになって、そこからいろんなことが大きくなっていって…。そう考えると、すごく慌ただしかった。45年も経っているので記憶も曖昧なんですけど、、
ーー本当に新聞紙上でも連日報道され、江川さんが行くところ、行くところに報道陣がついて回るという…やはり精神的にきついものはありましたか。
江川 そうですね。当時は入団する前、結婚もしていなかったので、栃木の実家で過ごしていました。自宅の前には各社1人ずつ新聞記者の方がいらっしゃったでしょうか。
毎日ずっと張り付いていらしたので、途中からはその方たちも庭にお迎えしてお昼を食べていただくことがあったんです。外で寒いし大変だから、1時間ぐらいお互いに“休憩”しましょうと。新聞社も方々とはあまりいい関係じゃないと思われていましたけど、実はそういうわけでもなかったんです。
ーー常にピリピリした関係で戦っていたわけではないと。
江川 はい。でも、世の中に発信されるニュースとしてはたぶん、そういう風になっていると思います。
テレビの視聴者や雑誌の読者の方などが想像していたのは、毎日切羽詰まっているような感じだと思うんです。ただ、私自身はその頃、新聞とか雑誌は一切読んでいませんでした。
ーー報道を目にも耳にも入れなかったのは、やはり精神衛生上ということでしょうか。ご自身が意図しないことを書かれたりすると心を乱されるとか、そういった意味で…。
江川 そうですね。特に入団して3年くらいは、ほとんど見ないようにしていたので。だから、どいうふうに報道されていたのかも知らないんです。
特に入団前は家からもなかなか出なかったものですから、周りからいろいろ聞くこともできなかったというのが実際のところです。
ーー具体的な当時の状況は?
江川 もう朝の6時ぐらいから電話が鳴りっぱなしで、夜中の3時までずっと鳴っていました。それを母親が全部対応していたんです。
僕は(直接批判を受けるのが)「もう嫌だ」と出なかったので。母は、黒かった髪の毛が真っ白になって…。
本誌ではさらに、インタビュー記事の続き(プロ開始時~引退まで)がご覧いただけます。
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