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2024年(令和6年)1月1日、午後4時10分。
最大震度7の地震が発生した能登半島では、
被害が大きかった石川県輪島市や珠洲市、穴水町などへ県内のほか地域から
石川県消防広域応援部隊(以下『石川県隊』という)が駆けつけ、絶え間なく活動しました。
その規模は約2ヶ月間で第1~20次隊で述べ342隊、派遣人数は千人超に及びます。
石川県隊は、基本計画に定める「いとまなき場合の応援」を適用。
被災の激しい奥能登地域の消防を支援するため、1次隊として8消防本部から構成された34隊、114人を派遣しました。
2月末までに27人を救出し266人を搬送。
県外から派遣された緊急消防援助隊等を誘導する役割を担いました。
Jレスキューは、その代表本部となる金沢市消防局に、発災直後の石川県隊の活動について取材しています。
輪島に帰省中の職員が被災者になる
地震発生時、金沢市消防局駅西消防署の干場隆晴消防司令補は帰省先の輪島市内にいました。
輪島市の中心部から最大震度7を記録した門前町に向かう途中の山肌の集落。
家族とともに居間でテーブルを囲んでいたとき、大きな揺れが襲いました。
「みんなでくっついて、でもいろいろなモノが倒れてきて、『人ってこんなんで死ぬんかな』という考えが頭をよぎった。でも子どもたちもいるから、『もう神様お願い』と祈るような感じで必死に耐えた。なんとか揺れが収まって、声をかけたらみんな大丈夫だというのでホッとして……」
家族は全員無事だったものの、家は全壊でした。
かろうじて人ひとりが出られるだけのスペースを見つけて抜け出しました。
辺りを見渡すと、周囲の家はみな倒壊。
潰れた家の中に残された人も多く、近隣の人々と協力して救出活動を続けました。
救出活動がひと段落してからは、農業ハウスを臨時の“避難所”に設えて、
同じ市内の20~30人ほどとともに非難生活を送りました。
翌2日の朝には電気が来なくなり、備蓄していた水も4日には尽きました。
雪を溶かして飲み水を確保しなければなりませんでした。
干場司令補が金沢市内に戻ることができたのは、1月4日の夜。
そこからは、立場を被災者から消防職員に変えて、被災地の救助活動に従事することになります。
被災者でもあり、救助者でもある。
それが能登半島地震における金沢市消防局の置かれた立場でした。
タイムリミットが迫る72時間ギリギリの救助活動
ルートの検索と被害状況の把握が主だった第一次隊に続き、第二次隊以降は奥能登全域で救助活動を開始しました。
その中で金沢市消防国は特に穴水町内を中心に活動を従事しました。
現在は金沢市消防局警防課で働く喜多信博消防司令長は第2次隊の指揮隊を率いて穴水町内で活動しています。
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