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『絶対音感』『星新一』など傑作ノンフィクションを書いてきた最相葉月さんの最新刊『母の最終講義』。
この随筆集の中でも、とりわけ印象的なのが両親の介護についての文章です。
苦労を率直に語り、病について徹底的に学び、そして再び父と母と向き合う。
そこから見えてきた介護をする側の境地とは。
サンデー毎日で掲載されているインタビューをピックアップします。
介護は両親から私への最後の教育だった
『母の最終講義』は作家デビュー30周年を記念して刊行されたエッセー集です。
ご自身の半生が滲み出るような随筆47本の中でも、本のタイトルにある通り、
30年間にわたるご両親の介護についての話も多く収録されています。
「母が脳出血を起こしたのは54歳のときで、私は20代後半でした。母はその後遺症により、若年性認知症を発症したのです。
リハビリの結果、家の中では伝い歩きはできていましたが、火は扱えなかったので、料理と掃除は介護のヘルパーさんにお願いすることになりました。それで私も時々、神戸の実家に帰る日々を送るようになりました」
もともとお母様との関係性はどのような感じでしたか。
「母は早稲田大を卒業して雑誌の編集者として働くなど、非常に知的な人でした。読書家であったから、何を聞いても答えてくれるウォーキングディクショナリーのような感じでしたね。
ただ今でいう発達障害というか、何でもハッキリものを言うところがあって、あまり母性は感じなかった。でも病気をしてからはまったく人格が変わってしまって、おっとりした穏やかな人になりました」
そうしているうちに次はお父さまが、がんを発症された、と。
「はい。舌がんと中咽頭がんです。映画の助監督や新聞販売の仕事をしていましたから多忙ですし、お酒もたばこもやる不摂生な暮らしぶりだったのである意味、自業自得のようなところもありました。
人間が食事をするときには物を噛み、柔らかくして、それを舌で運び、飲み込むという一連の動作が必要です。でも術後はそれができなかった。流動食どころか、液状のものを筒に入れて流し込んで、エネルギーを取るという感じでした。
口だけでなく鼻も機能しないので、匂いも感じられない。さらに永久気管孔を空けたので、声も出なくて。喉で話す方法というのがあって練習しましたが、舌もないからウーッという振動音は鳴っても、それが言葉にならない。結局挫折して、意思疎通は筆談か携帯メールになりました」
その間も、最相さんは東京と神戸を行き来して介護されたのでしょうか。
「母がすでにもう病気でしたから、父は私に実家に帰ってきてほしかったと思います。でも、そこは踏みとどまりましたね。フリーランスですから仕事を辞めたり減らしたりすると、また戻るのが大変ですし。とにかく仕事は続けて、ヘルパーさんや町の宅配業者など定期的に家に訪れる人の手も借りながら、お金で解決できることがあればそうしようと、割り切りました。
言葉も話せないので、どうしても活動範囲が狭まってしまう父の精神の鬱屈が家の中に漂っていましたから、『ああ、もう限界』と酸素不足に陥り、苦しくなると東京に戻ってきて。人に会ったり、原稿を書いたりして、心をまた立て直す感じでした」
本誌では最相葉月さんのインタビューの続きをお読みいただけます。
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