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1982年に現役生活を終えてから、星野仙一物語・第二章が幕を開けました。
中日で2度にわたって監督を務め、どちらもリーグ優勝へ導くと、
その後ドラゴンズの枠を超えて『球界の星野仙一』として絶大なる存在感を誇りました。
ベースボールマガジンでは、中日スポーツのドラゴンズ担当として現役時代から星野仙一氏を取材し、
のちに中日球団代表補佐も務めた児玉光雄氏が『監督、星野仙一』を綴っています。
評論家1年目の覚醒
「俺は井の中の蛙だった」
文:児玉光雄
ある作家が星野仙一を“野球の名優”と表現したことがある。
名優は状況を読み、人の心を読み、演じていく。
星野はそれができる人物だというのだ。
つまり、どうやったら、自分を輝かせることができるか。
置かれた人生の状況によって、歩む道の選択を間違わない臭覚を持ち合わせているというのである。
現役を引退したとき、星野の選択した道は中央へ進出することだった。
プロ野球選手の場合、ともすれば野球の世界との離別を怖がる。
現役引退→コーチといった安定した道を選びがちになる。
当時、名古屋が育てた星野の引退に、地元の放送局が解説者の争奪戦を展開した。
ドラゴンズの親会社は中日新聞社で、関連していた中部日本放送(現CBCテレビ)と東海テレビが放送権を分け合っていた。
両局は1億円近い高待遇で受け入れる争奪戦を繰り広げた。
だが、星野が選択したのは東京のNHKの解説者と親会社が発行する
東京中日スポーツのライバル社である日刊スポーツ、
そして文芸春秋が発行している『Number』の評論家だった。
星野が並の人物ではなかったのはその深謀遠慮の行動である。
中日ドラゴンズのオーナーだった中日新聞社の加藤巳一郎社長を
「旅に出させてください。勉強して帰ってきます」と説き伏せると、地元放送局にも礼を尽くして回った。
CBCテレビと東海テレビには、星野シンパのアナウンサーや職員がいた。
NHKを選択すれば、彼らの立場が弱くならないよう、両局の上層部を訪ね、頭を下げまくったのである。
地元両局のどちらを選べば外された側の立場が悪くなる。
NHKを選択したのはそんな配慮もあったのかもしれない。
どこで覚えたか、星野にはこういった研ぎ覚まされた感覚があった。
のちに、星野はこう語っている。
「金銭的にはNHKの契約は安かったよ。でもな、全国に顔を売ってくれるのはNHKだよ。お金はいくらでも返ってくる」
確かに、NHKで全国に知られた星野にはその後、次から次へと講演の依頼が舞い込んだ。
歩む道を間違えない星野だが、吸収力も類いまれだった。
評論家1年目の2月のことだ。
私のもとに1本の電話がかかってきた。
星野からだった。
藤田巨人のグアムキャンプ取材から帰国したばかりの成田空港から公衆電話でかけてきたらしい。
「おい、お前の言っていたことは本当だったな。俺は井の中の蛙だったな。俺は井の中の蛙だったってことが痛いほど分かったよ。甘かったよ。あのとき、怒って申し訳なかったな」
実はドラゴンズの串間キャンプに取材に行ったとき、あまりの練習の甘さに、星野にこう指摘したことがあった。
「ここの練習は遊びみたいですね。阪急ブレーブスや広島カープの練習に比べたら、大人と子どもぐらいの違いがあります。巨人だってこんなもんじゃないですよ」
すると星野は「たまに来ただけで比較するな」と怒った。
当時の中日のレギュラー選手と言えば、午前中に軽く動くと、午後は麻雀やゴルフのミニコースで遊んでいた。
グアムから帰国したその夜、
麻布にあった星野の東京住まいのマンションに星野と親しかった先輩記者と一緒に呼び出された私は、
星野から延々と反省を聞かされるのである。
「グラウンドでしっかりした練習してホテルに返ってきても、西本(聖)たちが浜辺を走っているんだよ。俺たちが勝てなかった理由が痛いほど分かったよ。恥ずかしかったわ」
何かを発見したような星野の興奮状態は深夜まで続いた。
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