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「医療+政治+経済」を網羅する情報を発信する「集中/MedicalConfidential 」より、連載
『私と医療』から現役弁護士・齊木 敏文氏が語るインタビューをピックアップしてみました。
第42回 『私と医療』
ゲスト 齊木 敏文氏
(一社)日本医療介護事業連合会 副理事長
東京公証人会 前会長、弁護士
学習塾の無い町で育った子供時代
私が生まれたのは、北海道の北東部に位置する遠軽町です。
冬の寒い日には気温がマイナス30℃にもなる地域で、銭湯から帰って来ると、帽子からはみ出た髪に氷柱が出来ている事も有る程でした。
そんな厳しい寒さに、知らず知らず忍耐力を鍛えられた様に思います。
家には父が揃えた文学全集が並んでおり、私も弟も、その向学心に大いに影響を受けて育ちました。そのせいか、私は野山を駆け巡る一方で、家で本を読むのも好きな子供でした。
弁護士や医師の様に、資格を活かした仕事をしたいと思い始めたのも、この頃です。
只、遠軽町に学習塾は無く、習い事と言えば町唯一の書道教室に通うくらいのものでした。
中学3年生の時、父の転勤で札幌に移り、そこで初めて受けた模擬テストで、初めて偏差値というものを知りました。
思えば私は、塾や予備校に一度も通う事無く、大学入試も司法試験も、全ての試験を独学で受けてきました。
しかし、当時の田舎では、それがごく当たり前の事だった様に思います。
級友との切磋琢磨を支えに司法試験に合格
高校は札幌西高校に進学しました。
同じ学年には女優の田中裕子さんがいましたが、残念ながら話した事は有りません。
裁判官への道を意識したのは、裁判官を父親に持つ同級生から「裁判官に向いていると思う」と言われた事が切っ掛けでした。
もう1つの出会いは、高校3年生の時に訪れました。
父の急な転勤で、私と弟は下宿しながら通学する事になったのですが、その家の御主人が、嘗て司法試験を志した裁判所書記官だったのです。
御主人は私たち兄弟に裁判所の仕事を語り、「司法試験を目指し、裁判官になってはどうか」と勧めてくれました。
裁判官が具体的な目標に変わったのは、この頃からです。
そして1974年、北海道大学文類(当時)に進みました。
教養課程での1年6ヵ月の成績で配属学部が決まる為、司法試験を見据えていた私は授業に真面目に取り組み、法学部に首席で入りました。
当時の司法試験は3万人近くが受験し、合格者は500人弱という狭き門でしたが、切磋琢磨した甲斐有って、80年に合格しました。
裁判官、訟務検事として医療訴訟に関わる
医療訴訟との関わりが始まったのは、83年に札幌地方裁判事補となってからです。
裁判官時代で最も印象深いのは、東京地裁判事補として未熟児網膜症事件の集団訴訟の判決を担当した事です。
まだまだインタビューは続きます。ぜひ、本誌でご覧ください。
本誌では他にも、「仁」の心を、病院運営の力に変えるなどを紹介されています。
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