ガ島撤退後に始まった日米陸海軍の死闘!「東経159度」を巡る、マッカーサーと日本軍の新たなる防衛戦

  • 更新日
  • 有効期限 2026.09.03

この記事が掲載されている雑誌は、こちらからお読みいただけます。
記事の有効期限以降は本誌は非公開となります。ご了承ください。

 

 

2024-07-05 発売号 (2024年8月号)

 

 

ソロモンで起こった戦争について、歴史群像では特集。
何が起こったのか、気になる内容をピックアップしてみました。

 

 

「日本軍ガ島撤退後」の日米陸海軍の死闘。
戦線後退を余儀なくされたガ島失陥後の日本軍と、陸海軍による二軸攻撃で波に乗るアメリカ軍。
日本軍は時にアメリカ軍に打撃を与え、巧妙に転戦を成功させるも、回り始めた後退の歯車は止まらない…

 

 

ガ島撤退後も続く日本軍の困難

 

 

昭和十八年(一九四三)二月、半年間にわたり続いたガダルカナル島攻防戦は日本軍の撤退で終結しました。

 

これは開戦以来、日本軍の占領地拡張基調であった戦局が、初めて防勢に転じた瞬間であったのです。

 

この戦略的な環境の変化を受けて、日本軍としては早急に新たな防衛線を設定する必要に迫られました。

 

この時期の陸海軍の動静を見ると、陸軍はソロモン諸島およびラバウルがあるニューブリテン島は三個師団を基幹とする百武晴吉(ひゃくたけはるきち)中将の第十七軍が、ニューギニア島は安達二十三(あだちはたぞう)中将の第十八軍がそれぞれ管轄し、ともにラバウルに司令部がある第八方面軍(今村均大将)隷下に編入されていました。

 

また海軍は、草鹿任一(くさかじんいち)中将が中部・北部ソロモンとニューギニア東部を所管する南東方面艦隊司令長官を務め、その隷下に巡洋艦と水雷戦隊から成る第八艦隊と、基地航空隊から成る第十一航空艦隊が置かれていました。

 

日本軍のガ島撤退に伴い、戦いの舞台は東経一五九度線の西に移ったのです。

 

この経度は連合国の作戦において重要な意味を持っていました。
ミッドウェイでの勝利に続く一九四二年夏に対日反攻計画を具体化していく中で、七月に設置されたばかりの統合参謀本部内では陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル大将が海軍作戦部長のアーネスト・キング大将と作戦の指揮権を巡って争う状況となっていました。

 

そして対日戦の指揮権については、八月一日にそれまでの東経一六〇度から一度西に譲った東経一五九度以東を海軍のニミッツ大将、以西は陸軍のマッカーサー大将が管轄すると決定した上で、「ウォッチタワー」作戦――ガ島進攻が実施されたのです。

 

東経一五九度線はガ島の西方沖にあるラッセル諸島までをほぼ収めていますが、その西側の海域からはマッカーサーの責任となります。

 

つまりガ島撤退後に日本海軍が新たに防衛線を設定したニュージョージア島以西の中部および北部ソロモン諸島、そこに派遣した艦艇や海軍航空部隊は、マッカーサーの戦略的権限下に置かれてしまう可能性が生じたのです

「カートホイール」作戦の策定

 

 

日本軍のガ島撤退後、一九四三年三月の時点では、ニミッツ、マッカーサーとともに、一九四二年七月に策定された統合参謀本部の三段階の作戦計画に従って行動していました。

 

その第一段階は「サンタクルーズ諸島、ツラギ、その周辺島嶼の攻略」とされたが、これは日本軍のガ島撤退によって完了しました。

 

しかし第二段階「ソロモン諸島残部、ラエ、サラモア、ニューギニア島北西部拠点の攻略」と、第三段階「ラバウル、ニューブリテン島、ニューアイルランド島の要地攻略」は、見通しが立っていませんでした。

 

まだまだ、続きます。ぜひ、本誌でご覧ください。


 

本誌では他にも、鎌倉幕府の滅亡などを紹介されています。

 

毎号届く!新規登録で500円OFF!

今なら新規登録 またはレビュー投稿で500円OFFに!
定期購読なら買い忘れなし。
ぜひ、この機会にご利用ください。

お申し込みはこちらから

 

この記事が掲載されている雑誌は、こちらからお読みいただけます。
記事の有効期限以降は本誌は非公開となります。ご了承ください。