ザ・サーファーズ・ジャーナル日本版 発売日・バックナンバー

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<フィーチャーストーリー>
■今号のオリジナルコンテンツは、関西のサーフィン黎明期を牽引したプロサーファー&タレントの祝春樹(ヘンリー祝)のストーリーだ。


OSAKA TAKE OFF
関西サーフィンの黎明期を牽引したプロサーファー&タレント、祝“ヘンリー”春樹の半生。
文:森下茂男
ある日、ミナミで遊んでいたヘンリーは湘南帰りのひとりのサーファーと知りあう。「ミナミで遊んでいたグループの中に、谷岡安兵衛というやつがいて、彼の家に遊びにいったときに、彼がバーベリアンズの大阪支部のキャプテンをやっているのを知ったんだ。彼が“磯ノ浦でサーフィンしてきた”と言って、ETのサーフボードを見せてくれた。それで、すぐにジェリーに電話して、“バーベリアンに入ろうぜ”って誘ったんだ」

■Lucky Eyes
「ラッキー・アイズ」

1960年代のハワイのサーフシーンを撮影したデビッド・ダーリングの貴重な写真のかずかずと、当時のハワイを知るドゥルー・カンピオンによるダーリングのバイオグラフィー。革命を迎えた1960年代のハワイに居合わせて時代を切り取ってきたフォトグラファー、デビッド・ダーリング。
文:ドリュー・カンピオン

■THE STRANGE ART OF COMPOSURE
「静けさという奇妙な芸術」
そして、ロングボーディングを中心に、長年秀逸なショットを残しているクリス・クロプフのポートフォリオ。
文:ドッジ・ウェイラ


■SOUNDINGS: The Two-Board Quiver
「サウンディングス:それぞれの意見」
トップシェーパーに訊く極めつけの「2本の選択」。
文:スティーブ・シアラー


■Nu Rythmo
「裸のリズム」
今号のトリップは、昨年CTにも参戦していた南アフリカのマイケル・フェブラリーが、西アフリカの美しいポイント・ブレイクと音楽をサーチする珠玉の紀行記。
文:サム・スミス


■Portfolio: STEVE BACCON
ポートフォリオ:スティーヴ・バッコン
文:デレク・ライリー


ほかにも、ここ最近、スキムボードによるサーフィンにご執心なトム・カレンへの「Interview」や、本誌編集ジョージ・カックルによるYTS代表取締役社長・孫泰正へのインタビュー「People」など、今号の『ザ・サーファーズ・ジャーナル9.2号』も話題満載です。
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<フィーチャーストーリー>
Bounty
「長逗留・四国の旅」
文・写真:李リョウ
今号のオリジナルコンテンツは、李リョウによる四国のストーリーだ。2年前の初夏、李は小波がつづく湘南をあとに愛車の軽を駆って陸路で四国に向かった。李にとってこの旅は気ままなひとり旅で、取材といった仕事縛りがあるわけではなかったが、以前、田中宗豊から聞かされていたイチョウの厚板でサーフボードをつくるという話が頭の片隅にあった。

AKA STONER’S
「通称、ストーナーズ」
文:スコット・ヒューレット 資料写真:ロン・ストーナー、レオ・ヘツェル
通称、ストーナーズという、サーフィン史上、初めてシークレットと呼ばれたメキシコのサーフポイントの発見の経緯だ。そして、そこがなぜストーナーズト呼ばれたのか、本誌編集長のスコット・ヒューレットの文章によって明らかになった。

Chain of Custody
「カリフォルニア・ボードビルダーを結ぶ鎖」
文:ジェイク・ハワード 写真:ショーン・パーキン
ホビーの名シェイパーとして名を馳せたテリー・マーティンの子息ジョシュ・マーティン。
現代のカリフォルニアを生きるこの名工の工房探訪記。

Something About California Bugged Dennis Stock
「デニス・ストックを悩ませた、カリフォルニアのなにか」
文:ジョン・デュラント 写真:デニス・ストック/マグナムフォト
デニス・ストックは、1950~1960年代にかけて、映画スターやジャズミュージシャンたちの姿を多く撮影した『LIFE』誌の写真家として有名だ。白黒写真がほとんどで、彼独特の、親密で率直なそのスタイルで名を馳せた。ただ、彼の作品とそのプロセスには、さらに深いエピソードが存在していた。

Monsters Inc
「モンスターズ・インク」
文:ブライアン・チデスター
クリスチャン・フレッチャーのディカール・デザインで有名なロイ・ゴンザレスのアーティスティックな人生を振り返る

Portfolio: NATE LAWRENCE
ポートフォリオ:ネート・ローレンス
文:トラヴィス・フェレ
今号のポートフォリオは、元米『サーファー』誌のフォトグラファー、サンタクルーズとバリを中心に世界を股にかけて活躍する写真家ネート・ローレンスの特集。

ほかにも、そびえ立つアンデス山脈とパタゴニア氷原北部のあいだに位置する、太平洋でもっともストーミーな海岸線のひとつ、オフキ地峡の氷河の未開のポイントブレークをサーフした「The Andes and the Ice Field(アンデスと氷原)」や、あのインディーズ・トレーダー号で有名なマーティン・デイリーが開拓した新たな拠点のひとつ、マーシャル諸島の「CAPTAIN DALY‘S REDOUBT(キャプテン・デイリーの砦)」のストーリー、そしてジョージ・カックルによる日本サーフアカデミー高等部サーフトレーナー松本剛直と事務長池谷真一の「People」など、今号の『ザ・サーファーズ・ジャーナル9.1号』も話題満載です。
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TSJJ8.6(TSJ27.6) 
メディア用

       
<フィーチャーストーリー>
今号のオリジナルコンテンツは、抱井保徳による湘南のストーリーだ。抱井は1956年、千葉県沖津生まれで、中学1年のときに守谷海岸でサーフィンをはじめ、1975年に湘南に移り住み、以来40数年この地に住み湘南の海と波を見つづけてきた。そんな彼がシェープ工場へ自転車で通う道すがら、見てきた第二の故郷、湘南を綴った。


SHONAN, A BICYCLE KIND OF LIFE
「湘南 by 自転車」
ボヘミアンサーファーの湘南
文:抱井保徳
1972年。自分は千葉・鴨川のノンキー・サーフショップに保護されていて、ショップの仕入れと湘南のサーフィン事情視察のために、オーナーの野村久之、そしてショップ・アドバイザーの加藤友路の両氏に連れられ東京湾を渡り、そしてルート的に最初に出くわしたのは逗子海岸だった。
 もともとここは「太陽の季節」系ビーチカルチャー発祥の地なのだから、そのへんからもうじゅうぶんに湘南だった。もちろん波はフラット。湘南はまず波がない、と聞いていたとおりの海で、だからそんな波と疎遠な海岸線沿いに自分が暮らすようになるとは、その時点では思いもしなかった。


つづいてのストーリーは、オーストラリア東海岸の理想郷、アンゴーリだ。この地は白人が入植するはるか以前、何千年にもわたって先住民族ヤエグルのホームランドとして栄えた。エスチュアリー(三角江)や湖、そしてヘッドランドに恵まれた沿岸部に位置し、豊富な魚介類や薬草に支えられて、ボヘミアンサーファーたちはひときわ大きなコミュニティを築いたのだ。

Angourie In Their Hearts
「アンゴーリ」
初期のオージー・サーファーたちの理想郷
文:スティーブ・シアラー、写真:アル・マッキノン
「もしもアンゴーリが存在しなければ、それを創りだす必要があるだろう」18世紀フランスの啓蒙思想家、ヴォルテールの一節を拝借すれば、こうなる。そのあまりにもアイコニックな情景は、見る者の脳裏に焼き付くほどだ。見るというよりも、感じとるというべきだろう。みずからの記憶を呼び覚ますかのように。秋の日差しのなか、サンダー片手に新しいショートボードを削りだす、塵まみれのバディ・トレロア。手を休めて、ウィッツグの映画『モーニング・オブ・ジ・アース』のサントラを口ずさみながら、ポイント周辺をひと走りしていると、サーファーが無人のラインナップを見下ろしながら、独りぼっちで険しい小道を降りてくる。手塗りの看板を出して採った魚をその場で販売しているのは、海の恵みが豊かな証だ。スティーブ・クーニーは太陽に照らされた川面にフィッシングラインを投げ入れ、クリス・ブロックはサーフセッションの後、無人のヘッドランドにこしらえたツリーハウスで一息つく。背後から太陽の光を浴びてベイトフィッシュの群れが浮かび上がった波は、岬を巻いてごつごつした入り江に押し寄せてくる。

Jughead
「ジャグヘッド」
世界の注目を集めるオージー消防士に訊く、真のスラブハンターの心構え
文:ジェド・スミス
「おれはかつて、“ビッグウェーブ・サーファー”と崇められるやつらを羨ましく思ってた」そう語りはじめたのはジャステン“ジャグヘッド”アルポート。私たちは、物が溢れかえる彼のガレージを物色していた。「でも、あいつらは7フィートのボードなんて持ってないだろうな」
 ニューサウスウェールズ州セントラルコースト郊外の平凡な通りに面した平凡な家には、彼の狂気の沙汰を連想させる要素はみじんもない。だが、ガレージのなかは別世界。ここはカオスだ。史上最強のヘビーエストウェーブに身ひとつで挑んだ際に使われたサーフギアがあふれかえっている。彼はそのひとつひとつを私に説明してくれた。
 まずは天井に吊るされたビッグウェーブ用のパドルガン。つぎにガレージ中央で荷物の下に眠っているジェットスキー。「トウインはもう古い」との理由で、いまではほとんど使っていないという。散らばる短い板は4人の子供たちのもの。隅のトウボードは、彼がゴーストツリーで脚を5カ所同時骨折したときに乗っていたものとおなじデザイン。彼の饒舌は止まらない。

Not Up to Code
「基準不適合」
ウォルター・コーカーの紆余曲折の人生とサーフィン、そしてジャーナリズム
文:マイケル・アドノ
北フロリダのサマーヘブン川と大西洋に挟まれた細長い陸地。マングローブと牡蠣の殻に覆われた川辺が浮いたり沈んだりしている。ハンモックが吊り下がる樫の木とサバル椰子に視線を戻すと、この土地には十二分に価値があることがわかる。大西洋は石を投げれば届くほど近い。61歳のウォルター・コーカーはこの細長い陸地に佇んでいた。小型ボートがエンジン音を響かせながら接近してくる。私たちはそのボートが通り過ぎるのを見送った。大西洋に飲み込まれ沈んでしまった家屋のほうへそれは向かっていった。朽ち果てた造船所の廃墟が砂上にあり、だれかの所有地であったことを示している。

NOBLE ROT
「貴腐の香り」
熟成された写真のかずかず
文:ロブ・ギリー
葡萄という果実が成熟する段階において特別な現象が発生することがまれにある。それは貴腐葡萄と呼ばれ、糖度がひじょうに高いのが特徴だ。この希少な価値ある現象は、不規則な自然環境が誘因となって起こり、適切に醸造すればすばらしいデザートワインとなる。これはまったくの自然現象として発生するので、ワイン醸造家が意図的にコントロールすることは不可能だ。言い方を変えれば“神からの賜物”なのである。
 最近、それとおなじことが私の写真にも起こった。数千枚におよぶ古くなって無視してきたスライドフィルムをいくつか選んで眺めてみると、期待さえもしていなかったのに時間の経過によって進化熟成してきていることに気づいた。この原因を洞察してみると、自然の環境要因が私の写真技術を凌駕したことが結論として残った。つまり貴腐葡萄のような想定外の事象が、写真にも不可思議に起こったのだ。

GROUP SHOW
リック・アダムス、スティーブ・バッコン、スコット・バウアー、コーバン・キャンベル、トム・キャリー、アンドリュー・チゾム、マット・クラーク、ウッディ・グーチ、ニック・グリーン、ジェレマイア・クライン、レーザーウルフ、アル・マッキノン、ブライアン・ネヴィンス、ダミアン・プレノ、ダニエル・プーレン、コーリー・スコット

ほかにも、皮肉とユーモアのアーティスト、ポール・マクニールの生き様を描いたマシューB.ショーによるアートコーナー、「EARNEST IRREVERENCE(無礼な正直者)」や、ジョージ・カックルによるバットマンこと相澤一雄の「People」など、今号の『ザ・サーファーズ・ジャーナル8.6号』も話題満載です。
      
<フィーチャーストーリー>
今号のオリジナルコンテンツは、四国の宍喰を拠点に活動している青山弘一だ。京都の佃煮問屋の長男として生まれた青山は、幼少時代、なにひとつ不自由なく佃煮問屋の跡継ぎとして育てられてきた。小学校からはじめた水泳で頭角を現した青山は、中学・高校・そして同志社大学と水泳部に所属し、水泳選手として活躍し、全国でも10指に入る選手として成長した。そして大学1年のときに転機が訪れる。なにげなく見た雑誌の中で紹介した小さな記事、それがサーフィンだった。もともと泳ぎには自信があった青山は、当時としてはまったく新しいサーフィンというマリンスポーツに興味を持ち、サーフィンにのめり込んでいく。そして、サーフィンの目標をビッグウェーブでのライディングに絞り、2010年、青山が58歳のときにワイメアでエディ・サイズの波に乗り、撮影した近藤公朗いわく「リップがせり上がってくるゴージャスな波」でのライディング写真を残したが、その翌年、病魔が襲う。胃の全摘出手術を受けた青山は、リハビリをかねてSUPをスタートさせ、サーフィンの新たな魅力を知ることとなる。

One Life to Live
「青い壁、つづく道」
波(サーフィン)、流(人生)、月(潮時)を胸に歩みつづける青山弘一の半生。
文:李リョウ
青山弘一は昭和27年に京都市内で生まれた。彼の家は京都で佃煮の問屋を商っていて、大阪の中央市場で商売を広げるために弘一が生まれると千里ニュータウンの近くに移った。当時は大阪万博が開催される数年前で、関西は好景気に沸いていた。戦後に弘一の父親が立ち上げたその佃煮問屋は羽振りがよく、弘一はいわゆる「ぼん」としてなんの不自由もなく成長する。やがて小学校で水泳をはじめた弘一は中学・高校と水泳部で活躍。同志社大学に進学すると、そこでも水泳部に入部して日本記録を期待されるほどのスイマーとなった。そんなときに弘一は『オーシャンライフ』というヨットの専門誌にサーフィンの記事が載っているのを発見する。それは日本のサーフィンのことが書かれた小さな記事で、川井幹雄や井坂啓美の名をそこで知った。
「全日本選手権ももう開催されてました。サーフィンのことは『ハワイアン・アイ』というアメリカのTV番組で知ってました。でも外国でやっているスポーツだと思ってましたね」。スイマーだった青山は、趣味としてなにか面白いマリンスポーツをしたいと思っていたことから、このサーフィンに興味を覚えた。調べてみると堺にウイングクラフトというサーフショップがあることを知り、さっそくそこでサーフボードを購入する。


つづいてのストーリーは、イギリスのサーフ・フォトグラファー、アル・マッキノンによるアフリカ滞在記だ。ここ最近、西アフリカのサーフシーンが盛り上がってきているが、どういうわけか、偶然おなじ場所に、おなじ日にすごいメンバーが集合するという事態になった。5カ国から一握りのサーファーたちが、波以外なにもない場所に静かに集まった。それから48時間というもの、彼らはいままで経験したなかでいちばん長く深い、ロケットのようなバレルをサーフした。

Saharan Echoes
?「サハラのエコー」
東大西洋の暗号の解析。
写真&文:アル・マッキノン
ちょうどスウェルがヒットする前日に、ぼくたちはアフリカへ降り立った。カイル・シアーマンとぼくが最初に着き、その数時間後にグレッグ・ロングが到着した。グレッグがレンタカーを借り、車に乗り込んだ。さあ、長時間オフロード・ドライブの始まりだ。途中、ぼくたちはある車に追い越された。その車にスペイン人サーファーのナッツオ・ゴンザレスが乗っていたとグレッグが言う。最近、ナッツオがネットにアップした動画を思いだして、彼が乗った車のタイヤの跡を追うことにした。ナッツオたちもぜったいにスウェルを追いかけているはずだ。ぼくたちは、念願の波に着実に近づいていると確信した。


Brine Trust
「時間の記録と記憶」
栄光の1970年代初頭、オーストラリアの『Tracks』誌は、“セックス・ドラッグ&ロックロール”に象徴される反骨精神を全面に押しだした誌面で、当時のキッズの心をガッチリ掴んでいた。その編集者でサーフジャーナリストの権威、フィル・ジャラットの最新の回顧録『Life of Brine』を元に、本人のコメントを交えて当時を振り返る。
文:フィル・ジャラット
当時『Tracks(トラックス)』は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。発行部数は月単位で1,000部ずつ増加し、広告収入は毎号10%増しのうなぎ登り。まるで人々は列をなしてアルビー・ファルゾン(いまでは雑誌の単独オーナー)に金を投げつけているみたいなありさまだった。なかでも興味深い後援者は、旅行のベンチャー企業トラックス・トラベル・カンパニーを共同で立ちあげないかと打診してきたアメリカン・エクスプレス。当時、イージーライダー・トラベルのジャック・デ・リッサとレニー・エリスが中心となり、バリへのサーフィン・ツアーパッケージのマーケットが、急成長を遂げていたからだろう。アメックスはその成長を目の当たりにし、1959年にアメリカ合衆国50番目の州になったハワイとダブらせて、バリに注目していた。事業計画は、バリみたいなサーフリゾートをハワイにつくり、そこに『トラックス』の名を入れてサーファーからの信用を勝ち取ろうというもの。私は、そんなうまくいくわけないと思った。なぜなら当時、ノースショアのシリアスでチャレンジングな波に乗るためにハワイへ行く輩なんて、よっぽどのエリートサーファーか、DIYな輩だけだった。だがアルビーから、アメックスとの新しいパートナーシップを宣伝するために、ハワイへ飛んで記事をまとめる仕事をオファーされた瞬間、私はすぐに寝返った。


Indoronesia
「インドローンネシア」
メンタワイ諸島を上空から愛でる。
文、写真:ベン・ソワード
この特集ではメンタワイの有名なスポットを取りあげてみた。Bグレードのスポットも含まれている。私たちの何人かは(つまりジャーナルの購読者や編集スタッフのようなという意味)は神聖な気持ちでその曲線に触れたり、滑らかなフェースの肌ざわりに感嘆のため息をついた経験がおありだろう。この空からの写真は読者へ波の調査という意味だけでなく、海の青さと陸地に広がる緑の美しさの想像力を喚起してくれる。今日ではこれらの場所のほとんどは波が小さい日でも混雑しているし、いくつかの写真にはサーフィンの中級者やクルージング向けのソフトなサーフブレークもあるが、空から見れば大きなことではない。あの絶え間のない電動の羽音が撮った写真でありながら、その景色は平穏さをたたえ、湧きあがる喜びに満ちてしばし呆然となり、東インド諸島への旅情をかきたててくれる。


Into the Forge With RYAN THOMAS
「ライアン・トーマス読本」
サイケデリア、スラスタース、都市化現象、ディスプレースメント・ハル、無垢の自然、フィルマーのレンズキャプチャーからの変貌、それらすべてとさらにもっと。
文:リチャード・ケンビン
人間が生息する海、入江のような地帯は昔から自然によって造成されている。ライアン・トーマスは、ワーナーアベニューの北側で1971年に生まれた。家族は両親とふたりの弟、そしてのちには継母とともに暮らすことになる。その巣を飛び立ったのは1994年。「当時は…」と彼は昔を振り返った。「弟のチェットとサーフィンやスケートをした。末っ子のマットとはアートを楽しんだり音楽を聴いた。母も親父も継母もぼくたちのやることに対してひじょうに協力的だった」。彼がまだ未成年のころ、遊び場のボルサ・チカ・メサはまだ手つかずの休閑地で金網と鉄条網で周囲が仕切られて、ユーカリの茂みや木々のなかには人間が遺した数々の痕跡があった。それらは朽ち果てた世界大戦時の塹壕や大砲の台座、錆びついた農機具だった。さらに油田の掘削機械、秘密のBMXコース、木に吊り下げられたロープのブランコがあり、近所の子供たちはフェンスの穴からなかに入り込んだ。そしてこの場所を「バンカー」と呼んだ。子供のころから20代前半まで、トーマスはセンチメンタルな感性をこのバンカーで養った。そこは彼の孤独感を醸成する場となった。大きなバンカーの坂は茂みで覆われていたので、自然の小高い丘と思われていた。ライアンはほとんどの時間をその丘で過ごした。昼間は海を眺め、暗くなるとロングビーチの夜景を眺めた。広大な郊外から伝わってくる人々の喧騒が彼の周囲を取り囲んだ。その放棄された油田の跡地と戦争の遺物に囲まれた場所で彼は世界観を形成した。近代文明の重層的な狂気の世界に生きていることを彼はそこで悟った。また彼は自然界の癒す力も発見した。


Portfolio:
SETH DE ROULET
ポートフォリオ:セス・デ・ルーレ
「西海岸に惹かれて」
カリフォルニアと恋に落ちた元ニューヨーカー。
文:イーサン・スチュワート
セス・デ・ルーレにごまかしはない。でも、彼自身に直接聞けばいい。「ぼくをゴマすり野郎と呼ばれたことはない」とサンタバーバラをベースに活動しているその34歳のフォトグラファーは言う。「バカ正直だし、嘘つきじゃない。それがぼくさ」。理解力、無骨、驚くほどの愚直、デ・ルーレのそんな性格が災いしたのか、彼は15年前からコンセプション岬の影、つまりサンタバーバラではめだった存在だった。彼はニューヨーク市の東に8マイル行ったところにあるビーチタウン・ロングアイランドに生まれ育った。その後、サンタバーバラのサーファーの世界に飛び込んできた彼だが、じつはサーフィンに関しては完璧なクークだった。もちろんそれまでに体験したことはあったが、彼の言葉を借りれば「大嫌いだった」

ほかにも、ザンベジシャークに弟の命を奪われた南アフリカのサーファー、アボ・ンダマセのストーリー「The Power We Get From The Sea(海から授かったチカラ)」や、レジンを用いた画期的なアート作品で、サーフィン界にも名前が浸透しているピーター・アレクサンダーの「Resin Light And Space(レジンと光と空間)」など、今号の『ザ・サーファーズ・ジャーナル8.4号』も話題満載です。
<フィーチャーストーリー>
今号の日本版のオリジナルコンテンツは、1978年に故村瀬勝宏(以下エへ/1955-2007)とカメラマンの芝田満之がメキシコへ旅した道中記だ。1970年代後半、日本でも「知らない土地の知らない波に乗る」というディープなサーフトリップがはじまっていた。このサーフィン・カルチャーともいえるワイルドなサーフトリップはアメリカからはじまっていた。その醍醐味を1971年にメキシコなど中南米を旅したケビン・ニュートンは語っていた。「リスクと恩恵がつきまとった初期のサーフトリップは、カネより幸運に頼るしかなかった。正確な気象予報もサーフリゾートもない時代だ。でも、未知の波を求めて道なき道を行くそのフィーリングは、プライスレスのすばらしさだった。この時代のサーファーたちは噂だけを頼りにメキシコやヨーロッパ、そしてインドネシアへと旅立っていったんだから。後年、その無謀な行動は、その愚かさそっちのけで、栄光のサバイバル・ストーリーとして受け継がれていった」。エへと芝田もまた困難なメキシコの旅を通して、カルチャーショックにも触れ、バスの中ではウェットスーツを着たり、ローカルたちに石を投げられたり、サメの海に連れていかれるなどのさまざまなハプニングに満ちた体験をして、まわりのサーファーたちのヒーローになったのだが、それは、まさにその時代のサーファーという種族の文化そのものであったといえよう。

Tequila Sunrise, Tequila Sunset
「エへの旅立ち」
1978年、ふたりの日本人がメキシコのとある浜辺にたどり着いた。カリフォルニアのエンシニータスを出て1週間が経っていた。日本から直線距離でおよそ12,000km、そこはあの伝説ともなったペタカルコだった。
文:森下茂男
1978年10月、サーフィンカメラマンという職業を選んだばかりのサーフ・フリーク、芝田満之は、伊勢在住のサーフィン仲間で飲み友達の村瀬勝宏(以下、エへ)を誘って、カリフォルニアへと向かった。この旅に出る前、芝田にはある計画があった。「アメリカの『サーフィン』誌に「カモン、ルーキー」みたいなコーナーがあって、アーロン・チャングが撮影したブライアン・バークレーのすごい写真が載っていたんだ。キャプションにはメキシコって書いてあったけど、そこは当時注目のサープポイント、プエルト・エスコンディドだった。メキシコにもこんな波があるんだって、そのとき初めて知ったんだ。ぼくはそれまでああいう波が立つ場所はパイプラインしか知らなかったし、ジェリー・ロペスしか知らない時代に、アーロン・チャングがどでかいチューブに入っているブライアン・バークレーの写真を撮っているって、ぼくにとっては衝撃的なことだった。その写真がぼくの脳裏にすり込まれていて、そこへ行きたくてしょうがなかった」

つづいてのストーリーは、アート・ブルーワーみずから、お気に入りの写真からさらにふるいにかけた珠玉の写真の数々を掲載した「OFFERINGS(捧げ物)」だ。アート自身のキャプションと、当時、米『サーファー』誌でフォト・ラングラー(彼の補佐官)としてアートに仕えた新人編集員だったスティーブ・バリオッテイの文章で綴るフォトエッセイに仕上げている。
OFFERINGS
「捧げ物」
アート・ブルーワーの一期一会。
文:スティーブ・バリオッテイ
写真:アート・ブルーワー
あれは1992年だった。私たちはオークランドから1300海里の洋上にあるSSルーライン号の船尾にいて、ジョイントを吸っていた。不意に私はアート・ブルーワーを知ることがどんなに尊いものかという気持ちになった。もちろんアート・ブルーワーのことはすでに知っている。私が初めて米『サーファー』誌を手にした1975年の1冊にはすでにそのフォトクレジットがあった。ときどき掲載される彼の風景写真もスパイスが効き、雑誌の構成に有効な役割を果たしていた。

CLARE IN HIS BLOOD
「クレアの誓い」
トム・ロウ:ブリティッシュの島々が生んだワールドクラスのビッグウェーバー。
文:ダニエル・クローク
大西洋の端っこにコンパクトに凝縮したタマネギみたいな低気圧が回転し、そのビッグデーがはじまるまでの1週間は、どこもグッドウェーブに恵まれた。世界中でホットラインがうるさく鳴り響いていた。シェーン・ドリアンまでが飛行機に乗ってやってきていた。波を予測するとそのスケールとエネルギーは飛び抜けていて、まるで別の領域に足を踏み入れたかのようだった。そこは頂上から見るかぎりはビッグウェーブ・ポイントではなかった。緑の円形競技場というのがふさわしい。ここはトム・ロウが経験を積んだ場所。素人目に見ても、ここの波にはふたつの異なったテイクオフ・スポットがあるのがわかる。きみを北ヨーロッパの広い洞窟に投げ入れるアウトサイドのロール、そしてインサイドのレッジ(棚)はクレイジーなやつらが巨大なスラブ(厚板波)に挑戦する場所だ。

The Sikerei of the Islands
「島々のシケレイたち」
メンタワイ諸島を旅するひとりのサーファーが、シャーマンに出会い、彫り師に出会い、そして文化の衝突を目の当たりにした。
文、写真:マッティー・ハノン
替刃の針がぼくの胸に打ち込まれる。アマン・レポンはメンタワイのシャーマンで彫り師。素手で針をひたすら打ちつける。汚い爪だ。タンタンタンタンタン。針のついた木の棒を別の木の棒で叩く音が響き、激痛が胸を刺す。おなじリズムで永遠に彫りつづけてかれこれ10時間。意識がもうろうとし、半ば夢の中にいるような気分だった。彼の手が、ぼくの肌を引っ張るように広げる。ロングハウスの玄関に吊された頭蓋骨の奥から、幼い子供たちの笑い声が聞こえる。大量の虫が支配するこの鬱蒼としたジャングル。どす黒い雲が辺りを暗くし、雷が光ると雷鳴が轟いた。過酷な試練は、遂にぼくを追い詰めようとしていたのか、あるいはメンタワイの強烈な熱波にやられていたのだろう。空一面に広がる真っ黒な雲がぼくの身体を吸い上げる。熱帯の空の下、ぼくは戦っていた。やがて風が吹き、雨が降りはじめる。すると木陰のカエルが唄いだす。さらに1時間後、吹きやまぬその風は、ライフルズにも届いていることだろう。風が長周期スウェルとなり、1週間の旅を経てやってくる。ぼくはそこへ向かうボートの様子を思い浮かべた。きっと船内のサーファーたちは興奮度マックスにちがいない。このジャングルのロングハウスからは、ずいぶん遠い別の世界の出来事に感じる。

GOOD TROUBLE
「グッドトラブル」
デイブ・ラストビッチの果てしなき探求。
文:スティーブ・バリロッティ
写真:トッド・グレイザー
ラストビッチがずぶ濡れで屋根付きのベランダに戻ってくると、わたしたちは中断されていた会話を再開した。彼の足元は裸足で、上半身も裸、身にまとっているのは庭仕事用のショーツ一丁である。会話の内容は、メタガスコ社の資源探査に反対する地元民が推し進めた草の根運動についてだ。2014年、バイロンベイからおよそ40マイル南西の街リズモアで推し進められた炭層ガスの開発事業に対し、先住民アボリジニの人権活動家、農家、環境活動家、田舎暮らしの退職者、アーティストとダンサーと音楽家、くわえて変人のサーファー数人が珍しく一致団結したその抵抗運動は「ベントリー封鎖」として知られている。「サーファーを巻き込むことに成功すると、本格的なムーブメントに発展したって実感が湧いてくる。反対運動が盛りあがるにつれて、そんなジョークも飛び交うようになったんだ」ラストビッチは当時をふり返る。

Electric Blue Maybes
「エレクトリックブルーの波」
オアフ島の西海岸の報酬とリスク。
文:ボー・フレミスター
写真:レーザーウルフ&ジェレミア・クレイン
人が車に貼っている手がかりによって、オアフ島の西海岸にやってきことを気づかされる。ファリントン・ハイウェイを進むにつれ、ワイルドで手つかずの風景が広がっていく。乾いて灼けたリーワードコーストの大地、道端の質素な酒屋、バンパーステッカーのメッセージにも、変化を感じ取ることができる。ナナクリの手前で目にするステッカーは、「今日、あなたのケイキ(子供)を抱きしめた?」、「ポイは持った?」、「ドリー・パートン(カントリー歌手)のチケットのために働きます」なんて、いたって無害なものがほとんどだ。けれど、発電所を通り過ぎてワイアナエにむかうあたりから、「優等生はおれの犬が喰っちまったぜ」とか、「Watchufaka!(やんのか、この野郎!)」とか、「ノーハワイアン、ノーアロハ」(これは事実だと思うけれど)なんて感じに、急に物騒なメッセージが増えてくるのだ。


Portfolio: SA RIPS
ポートフォリオ:サ・リップス
「ポインタービルの西」
ホワイトシャークの望みはヘイデン・リチャーズとスイムアウトすること。
文:シーン・ドハーティー
ぼくたちはエリストンの郊外にあるブラックスの崖の上にいて、笑いで気を紛らしていた。東からやってくる旅のサーファーにとってブラックスは不気味な場所だ。本当は、ここはブラックフェラ(黒い連中)という地名。1849年にウォータールー湾で起こった大虐殺を皮肉って呼ばれるようになった。多くのアボリジニたちが白人の入植者たちによって崖から突き落とされたのだ。写真を撮れば波とサメと幽霊が写るような霊的にはヘビーな場所。今日の波はたった4フィートだが、三日月型をしたむき出しのリーフの上でそれはバレリングし、砕け散ると深い海に消えた。
Hawaii Set Me on the Road to the "Straight And Narrow"
「ふたつの故郷を持つ藤澤譲二の、ふたつの素顔」
15歳の少年がひとり、ハワイへ旅立った。
不登校で不良少年だった息子の行く末を案じた母親の決断だった。
それが、サーフィンとの運命の出合いとなった。
それから53年後、ハワイの海と潮風がその少年を本物の海の男へと磨き上げた。
文:森下茂男
東京オリンピックの翌年、1965年、藤澤譲二15歳のとき、ひとり、ハワイへ旅立った。理由は、藤澤が中学校を卒業できず、また遊び仲間の先輩やハーフの遊び人たちに可愛がられ、ヤクザのお兄さんから“うちの組に入らないか”とリクルートされるほど、本物のワルの世界に足を踏み入れようとする息子に母親が危険を察知したからだった。


Mixed Results
「混沌としたリザルト」
IPSからWSLまでプロフェッショナル・サーフィンが歩いてきた染みだらけの足跡。
文:ブラッド・メレキアン
イラスト:ニシャント・チョクシ
リアルなサーフィンのファンにとってのプロ・サーフィンの最大の魅力は、サーフィンそのものなのだ。水の壁を滑る数秒間のあの魔法。これからのプロフェッショナル・サーフィンが、あの魔法の魅力を生みだせるかどうかはまだわからない。なんせ現在までの40年間、IPS、ASP、そしてWSLは、不完全な結果しか残せなかったのだから…。

THE CORAL CROWN OF INDIA
「珊瑚礁の王冠」
南インド、ラキシャドウィープ諸島の旅。
文:ベン・ウェイランド
写真:クリス・バーカード
南インドの港町コチのラッシュアワーはカオスだ。数千のリキシャ・ドライバー、乗客でごった返すバス、オートバイにまたがる人々が蒸し暑い幹線道路になだれ込んでくる。それだけでなく道路には噴火口のような穴や道を渡る牛が待ち受けていて、彼らの行く手を阻み、渋滞に拍車をかける。悲鳴をあげるブレーキ、オーバーヒートしたバスは蒸気を吹き上げ、ありとあらゆる警笛音がこの大通りに鳴り響いていた。

HOUSE OF SAND & MUD
「砂と泥の家」
カリフォルニア最古の住宅と、そこに根づくサーフカルチャー。
文:キンボール・テイラー 写真:アート・ブルーワー
1846年までにこの邸宅は、ランチョ・ボカ・デ・ラ・プラヤ(ビーチへの入り口)という補助金を得て6,607エーカー(東京ドーム約572個分)の土地を取得した。ヴァン・スウェー直系の祖先、ホアン“エル・リコ”アビラが、初代の土地取得者ドン・エミッグディオ・ヴェジャールから1860年に購入したものだ。このアドーベ(レンガ住宅)は、世代を経てヴァン・スウェーの祖母、セシリア・ヨルバに受け継がれた。今日、この家ではヴァン・スウェーがふたりの娘を育てている。「ここはファミリーハウスなのよ」彼の母ジェニファーが言った。「いつの時代もファミリーハウスでありつづけてきたの」

A Hippie in our Midst
「紛れ込んだヒッピー」
コミューン育ちのルーツと肉体感覚に導かれ、アルリック・ユイルはサーフボードを削り、彫像をつくりあげる。
文:ボルトン・コルバーン
カリフォルニア州コスタ・メサ。立ち並ぶ、変哲もない1950年代の工場用建物の中に、アーティストたちの借りる安いスタジオが点在している。フルタイム・サーファーでアーティストのクリス・グワルトニー、ウルフガング・ブロック、ケビン・アンセルの3人も、3ブロック内にそれぞれスタジオを借りている。コーストライン・コミュニティ・カレッジや、RVCAの本社は徒歩圏内だし、Harleyの本社も800m先にある。コーストライン・コミュニティ・カレッジに向かう道すがら、波チェック。2階の広いバルコニーに上がれば、ニューポートの桟橋やサウス・ハンティントンビーチを見渡す8kmのパノラマビューが広がっている。ここはいわば緩衝地帯だ。働く場所であり、忘れられた平穏の地。その一画に、アルリック・ユイルが暮らしている

The Confirmation of Danny Kwock
「ダニー・クオックの堅信礼」
一介のローカルサーファーから業界のビッグネームへと、華々しい転身を遂げた男が迎えたアンチクライマックス。
文:ジョー・ドネリー
ダニー・クオックは髪の毛が長い。それこそヒッピーのような長髪だ。『ザ・エイティーズ・アット・エコービーチ』を読んだ者、あるいは1980年代のニューポートビーチに居合わせた年長者なら、それを意外と感じるかもしれない。クオックをはじめ、プレストン・マレー、ジェフ・パーカー、ピーター・シュロフとその仲間たちは、遊び心が欠如していた当時のサーフカルチャーを根底からひっくり返し、そこにパンクロックの様式を持ち込んだ張本人たちだからだ。

Portfolio: ELLI THOR MAGNUSSON
ポートフォリオ:エリー・ソー・マグナッセン
「ノルディック・サガ 〜 北欧物語」
アイスランド人フォトグラファーと巡る、スノーストーム、活火山、そして北極サーフ・ハンティング。
文:エリン・スペンス
私がエリー・ソー・マグナッセンに出会ったのは、いまから約5年前。彼のホームタウン、アイスランドのレイキャビクでのこと。取材で訪れた私たちにとって、彼は当初、謎の男だった。彼はサーファーだ。それはすばらしい。アイスランドでは、稀少な存在だから。語り口はのんびりしているが、アイスランド人のライターも手配できるし、神話などにも詳しく、国の道路整備政策は、火山地帯の墳丘に住むといわれるノーム(地の精)と妖精を考慮して計画されたなんて豆知識を教えてくれた。

<フィーチャーストーリー>
今号の日本版のオリジナルコンテンツは、1978年に製作された8mmのサーフムービー『Stone Break』が40年の時を経て、リメイクされたが、その当時の製作秘話やレメイクにいたるまでのさまざまなストーリーを映像プロデューサーでもある本誌マネージング・エディターの井澤聡朗が綴る。


Return to Stone Break
「川井兄弟の大いなる冒険」
幻の8mmフィルム『STONE BREAK』の記憶をたどって
文:井澤聡朗
映画『STONE BREAK』は、川井幹雄が弟・康博の協力のもと1978年に発表したオリジナル・サーフムービーだ。時は1970年代。そこには日本のサーフィンが飛躍的に成長した熱い時代の、躍動感あふれるサーファーたちの姿が記録されていた。


つづいてのストーリーは、1970年代も終わりにさしかかるころ、音楽や雑誌などで新しいムーブメントが起こった。それはパンクという名のサブカルチャーの登場だ。その新しいカルチャーは音楽や雑誌だけにとどまらず、サーフィンにも影響をおよぼしはじめる。本誌アメリカのエディター、スコット・ヒューレットが筆を執る。
Rocket to Rockaway
「ロケット・トゥ・ロッカウェイ」
ラモーンズ、パンク・ロッカーたちが登場したころ
文:スコット・ヒューレット
1978年、ニューヨークに誕生していた新しい音楽、パンク!その新ジャンルを最初に命名してスタートした雑誌『パンクマガジン』は、その意味するところを伝えようと華々しい特集号を出して、人々をあっと言わせた。「まるでコミックブックのような体裁だったもの」と魅せられたアートギャラリーのオーナーは言う。「CBGB'sやマックシズ・カンサスシティのクラブシーンを熱くしていたスターたちが、映画の登場人物のようにずらりと勢揃いして紹介されていたんだ。とっても滑稽で、それでいてどこか大まじめ、ぼくにはグッときたよ」


文章も写真も一流をめざすザ・サーファーズ・ジャーナルらしい特集がクリストファー・ビックフォードのソウルプロジェクト「サンドバーの伝説」だ。彼こそは『ナショナル・ジオグラフィック』誌にもストーリーを発表しているフォトグラファー&ライターなのだ。ノースカロライナ州東端にある砂州、アウターバンクスの圧巻の写真と文章を楽しんでください。
LEGENDS OF THE SANDBAR
「サンドバーの伝説」
アウターバンクスへの讃歌。
文・写真:クリフォード・ビックフォード
アウターバンクス(OBX)の裏側へようこそ — 働きすぎの人々へ、澄み切った水とまばゆい夕焼け、夏のパラダイスとして売りこまれる長さ100マイルの砂丘の景観も、今は、たちこめる雲、吹きつける風、空中を飛ぶ砂で、まるで地獄のような別世界だ。嵐はどれくらいつづくのだろう。1時間?1日?3日?いや7日…。空には暗い積雲が重たくのしかかり、海からの激しい風はすべてのものを冷たく湿らせていく。人々は家の中にひきこもり、次の好天が訪れるまで、冬眠に入るのだ。


Cutting Edges
「カッティングエッジ:最先端」
メンタワイという宇宙での試み
文:マット・ジョージ、撮影:エバートン・ルイス
ある日、フォトグラファーのエバートン・ルイスとクレイグ・アンダーソン、アレックス・ノスト、そしてオジー・ライトは、停泊中のスターコートの船尾に座っていた。彼らはあるアイデアをふくらませて、メンタワイの体験を写真にしようとしていた。彼らがいるサーフポイント・サンダーから、チャンネルのむこうにラグズ・ライトのリーフが見えた。そこでは神さまが栓を引き抜いたかのように潮が引きつづけていた。ラグズでのサーフは満潮でも危険な賭けだ。だがエバートンは干潮時にラグズ・ライトの水がクリスタルのように輝くことを知っていた。
 魚がどんなふうにサーフィンを見ているかというオジーのコンセプトに、エバートンがアンダーウォーターだけの撮影に限定してやってみようと言いだした。さらにこの試みをもっとおもしろいものにしようと、エバートンはそれぞれに個性の異なるサーフボードを選ばせた。ひとりはシングルフィン、ひとりはフィッシュ、そしてもうひとりはスラスター。1時間が経ってサーフされたのは全部で6本の波だった。その後、サーフするにはちょっと無謀なコンデションとなり、全員がボートに戻った。


David Nuuhiwa
「デビッド・ヌヒワの伝説」
文:レオ・ハッツェル
デビッドは、10代のころに島(ハワイ)からやってくると、ハンティントンあたりでサーフした。あのころ、ピアには腕自慢のサーファーたちが大勢ひしめいていた。ハービー、バクスター、フューリーたち。でも、デビッドが出現すると同時に、すべてが変わってしまった。彼は優雅だった。それはまるでスパイダーマンのようで、まるでボードの上でバレーを踊っているようだった。


Portforio: JOHN RESPONDEK
ポートフォリオ:ジョン・レスポンデック
「ハッピーフェース」
文:ヴォーガン・ブレーキー
一生懸命働き、それ以上に遊ぶオーストラリアのサーフ・フォトグラファー、ジョン・レスポンデックは、今もっとも幸せな写真家かもしれない。ほかのフォトグラファーが彼の横に陣取るとき以外は。

ほかにも、ディーン・ラトゥーレットの文章による「Gringo X 南米チリのアタカマに流れ着いた名もなき放浪者」や、クリスチャン・ビーミッシュによる現代のツインフィン事情「Soundings: Acute Angles それぞれの意見:鋭角」など、今号のザ・サーファーズ・ジャーナルも話題満載です。
<フィーチャーストーリー>
今号の日本版のオリジナルコンテンツは、日本版で初めてのアートコーナーだ。アーティストはガラス・アーティスト、ヨーナス・ガラスビジョンの賀来ヨーナスだ。

Jonas’s Glass Vision
「ヨーナスのガラスビジョン」
ここへ帰ってくるために、彼は旅に出た。
文:谷岡正浩

なにも持っていないことは、なんでも持っていることだ。日本人にして、スウェーデン人でもあるヨーナスは、幼少のころより育った鎌倉・七里ヶ浜に工房を構えているガラス・アーティストだ。どこにいても、自分がどこにもいないような気がする、そんな感情を奥底に抱えたままで彼がたどる、七里ヶ浜からアメリカ、沖縄、そしてスウェーデンを巡って、ようやく〝ここ〟に帰ってくるまでの長い旅の物語。

つづいてのストーリーは、東京オリンピックを来年に控え、なにかと話題になっているのが、ケリー・スレーターが開発したウェーブプールだ。現在はケリー・スレーター・ウェーブ・カンパニーはWSLの傘下に入り、近い将来、ウェーブプールでの大会も開催されるのだろう。


「プレジャー・ユニット」
サーフィンと競技スポーツとのあいだに、境界線を定めることはできるのだろうか。ウェーブプールの最前線を探る。
文:ブラッド・メレキアン


ウェーブプールの出現を嘆くサーファーは、サーフィンが確立された当初から存在する。海洋環境をプールで再現する試みはいまからおよそ100年前、1920年代のイギリスに端を発し、1966年には日本で“サーファトリウム”という粋な名前のウェーブプールも登場。それ以降、サーフィン史に新たなビジョンが示された。それまではサーファーが海でしか得ることのできなかったストークを、世界各地の都市で人工波が完備されたプールでも提供していくという、民主的ビジョンである。
 この構想がもたらすメリットは多岐にわたり、効果もはっきりしている。当初から指摘されてきたとおり、再現可能な波をコントロール下に置くことで、従来は有限とされてきたリソースを際限なく提供できるようになるからだ。技術が普及すれば、ローカリズムにともなう問題を減らすことにもつながり、ビジネスの成否を比較的小さな市場に委ねてきたサーフ業界を支える役割も果たすだろう。際限のない白紙のキャンバスを与えられたサーファーは、新しいマニューバを試し、多様なテクニックを生みだせるため、波を乗りこなす行為自体の質も向上するはずだ。


ハワイで唯一、もしかしたら世界で唯一のボディーサーフィン専用のサーフポイントがケワロ・チャンネルのエヴァサイドにあるポイント・パニックだ。バレルからウォール、チャンネルで繰り広げられる夢の波。ここはボディーサーファーたちだけの遊び場だ。単なる暗黙の了解ではない。ここの独占権は法律で守られているのだ。


The Panic Response
「パニック・ローカルからの返答」
ボディーサーフィンの聖地、それを支えるオアフ・ローカルたちの紆余曲折。
文:ボー・フレミスター


カイザー・ボウルズやVランドを連想させるここの波は、マシーンが繰りだすようなボウリーなライトハンダーと、まあまあのレフトがメインだ。カカアコ・ウォーターフロント・パークの最東端から割れはじめ、ケワロズ・レフトのチャンネルまで繋がる。「ポイント・パニック」の名前の由来は諸説あるが、よく言われるのは、ボディーサーフィン専用になる前のリーシュレス時代、あるサーファーがワイプアウトし、波に吸い上げられパニックに陥ったことからきているというものだ。ほかにも昔の話だが、海側の角に位置していたユナイテッド・フィッシング・エージェンシーの競り市場が原因でサメが集まってしまい、それを見て皆パニックになった、という説もある。競りに集まる漁船が魚の頭などを捨て、ビルジポンプ(船底に溜められた汚水)を放出し血だらけにしたおかげで、多くのサメが集まってきたというのだ。

Better Surfing Through Chemistry
「よりよいサーフィン人生への化学反応」
サーフワックスを開発したサーフリサーチ社の隆盛、そして終焉。
文:スティーブ・バリロッティ

イーストコーストの新米サーファーたちは、サーフボードだけでなくサーフグッズにも飢えていた。サーフラックやワックス、ディケール、Tシャツ、そしてジュエリーなどなんでも欲しがった。ジャンセン社がつくった腰が抜けるほどダサいトランクスとウィンドブレーカーのセットさえも、コーキー・キャロルとリッキー・グリックを広告に使ったおかげであっという間に売り切れた。その光景を見たマイクたち3人は、競合のないサーフアクセサリーを開発し、どこからも束縛を受けずにサーフィン市場で販売することに、大きなビジネスチャンスがあると考えるようになった。

Rumblin‘
「ランブリン」
ペインター、ボードビルダー、修理工、ブルーズ・シンガー…。1+1を3以上にする男、ブライアン・ベント
文:カイル・デナシオ


サウススウェルが届くサンフアン・カピストラーノの暑い午後、ブライアン・ベントは1956年製のフォードをガレージから出した。このガレージは通常‘30年代から’50年代の改造車、ホットロッドで代わる代わる占領されているのだが、スペインのバスク地方から訪ねてくる友人のシェーパー、キム・フランシスのために作業場を空けているところだ。キムは、ここで‘50年代スタイルのロングボードをシェープする予定だ。ベントの家も’50年代スタイルの3ベッドルームだが、妻のリヴカが渋々承諾したので、マスターベッドルームはアトリエとして使っている。

短管でマフラーなしのビンテージ・ホットロッドを製造するベントが、‘50年代にずいぶんのめり込んでいることはだれもが知っているが、それは彼のアートやサーフボードについてもおなじことが言える。現在52歳のベントに、この時代の経験がまったくないことを考えると、彼の車や服装、アート作品が’50年代にインスパイアされているというのはある意味不思議なことだ。


Portfolio: Group Show
「グループ作品展」
Matt Clark、Woody Gooch、João Leopoldo、Morgan Maassen、Al Mackinnon、Russell Ord、Marcus Paladino、Daniel Pullen、Seth de Roulet、Cory Scott、Andrew Shield、Jimmy Wilson、Kanoa Zimmerman


ほかにも、ベン・ソアードの写真による「The Distant Islands 魅力の旅先、ツアモツ諸島」や、デレク・ライリーによるイスラエル紀行「Next Year, Tel Aviv!  イスラエルのサーフィンの今」など、今号のザ・サーファーズ・ジャーナルも話題満載です。
<フィーチャーストーリー>
今号の日本版のオリジナルコンテンツは、1990年代に突如、世界同時多発的に起こったロングボード・ブームを筆者李リョウがカメラマンの目線で当時の熱狂ぶりをふり返った。


NEO LONGBOARD DAYS
「ポテトテップス狂騒曲」
ロングボード・リバイバルからまもなく30年、近代サーフィン史のマイルストーンとなった異例のブームを振り返る。
文:李リョウ
30年近く過ぎた現在、俯瞰でその1990年代を振り返ってみると、このブームはサーフィン史のうえでも異例の出来事だったと総括できる。SNSもiPhoneもまだ普及していない時代に世界で同時にこのブームはブレークした。これは1960年代にアメリカの西海岸で起こった『ギジェット』のブームと比肩できる。このギジェットとロングボード・リバイバルの共通点は、サーファーの世界だけの流行りごとだけに止まらず一般の人々にまで影響を及ぼして、大きなブームとなった点にある。


つづいてのストーリーは、非対称サーフボードのいち考察だ。人体の構造とライディング時のメカニズムの差異に着目した著者は非対称サーフボードこそが理にかなっていると結論づけた。

IN UNEQUAL MEASURE
「非対称サーフボードの明日」
人の目を欺くかのような不自然な湾曲かもしれないが、非対称サーフボードは究極のバランスを求めた自然な結末だ。
文:スチュワート・ネットル
「非対称サーフボードの発想は人体の構造に由来している。人体は左右対称である。つまり1本の対称軸で成り立っている。それは頭から股間を貫いた対称軸が中心となって左側と右側に分けられる。一般的なサーフボードも左右対称であり、ストリンガーが軸となる。
 だが問題は、身体とボードの軸は、けっして並列ではないということだ。ライディング時の両足(スタンス)は、ボードの軸の上に90度の状態で立つために、それぞれ左右に不均衡を生じさせる。この状態でサーフボードをコントロールするとなると、まったく異なるふたつのメカニズムで身体を制御する必要がある。それらはつま先荷重と踵荷重である。この違いを体験するには平らな地面にライディング・スタンスで立ち、つま先側と踵側に荷重してみればすぐに理解できる。
 つま先と踵のターンには大きな差異が存在するが、広いフェースでの大きなターンの際、ターンの違いを補完し動きを調和させるために、要所となる足首から膝、そして腰に関していえば、どちらのターンにおいてもほとんど違いはないと思ってよい。しかしながら短い弧を描くターンに関しては、人体の構造上の短所が明らかになる。



ブルース・ブラウンといえば昨年末に亡くなったサーフ・ムービー界の巨匠であり、大ヒットを記録した映画『エンドレスサマー』の生みの親である。その映画製作50周年を記念して、あのスミソニアン博物館にフィルムが永久所蔵されたことでも話題になった。

Bruce's Beauties
「ブルースズ・ビューティズ」
史上もっとも人気を博したサーフィン映画の50周年を迎え、これまでアーカイブされていた監督撮り下ろしの秘蔵のスチール写真が公開された。このブルース・ブラウンのコレクションを観に、多くの者が殺到したという。それにともない限定リリースされた『The Endless Summer』のボックスセットが話題を呼んだ。マイクとロバートが日付変更線を越えるときに流れる、ザ・サンダルズと共演するワリー・ジョリスの魂のメロディカは相変わらずたまらない。

THE CALVES OF COPPER RIVER
「カッパーリバーの挑戦」
ギャレット・マクナマラが仲間と敢行した、サーフィン界でもっとも大胆不敵なプロジェクト。およそ10年前、その場に居合わせた本稿の著者キンボール・テイラーは、当時の濃密な体験を今も鮮明に覚えている。
文:キンボール・テイラー
都市が水面から垂直に屹立している様子を想像してほしい。半月状に広がるウォーターフロントは幅が1マイル、その高さは30階建ての高層ビルに匹敵する。スーパーマンの生まれ故郷、クリプトン星の建物みたいに氷晶で形成された構造物は、白または深みのある半透明のブルーに染まり、水辺に連なるタワーの奥には、密集したメトロポリスが白いルーフに覆われて高く突き出している。
 氷塊はゆっくりと時間をかけて静かに流動しつづけ、やがて水際に達すると、すさまじい勢いで崩れ落ちていく。ベルトコンベアに運ばれて破壊へと突き進むのだ。ときにはアイス・シティーの街区まるごと消滅することもある。
 そんなとき、ごくまれに水面のどこかでゴーストのように美しい波が出現する。氷河の末端部から数百ヤード離れていた私たちの耳にも、近くで雷鳴か大砲を放ったときのような轟音が飛び込んできた。アラスカ州カッパーリバーに到着した初日、かつてビラボンXXLグローバル・ビッグウェーブ・アワードの勝者となったギャレット・マクナマラは、私を見据えたままこう言った。「あれを見たら、ブッ飛んじまうよ」


FAVORS OF FORTUNE
「ロンボク島、デザートポイントの秘密」
文:スティーブ・バリロッティ
1983年、ロナルド・レーガンはGPSテクノロジーを文明社会の発展に活かすことを公約していたが、衛星ナビのマトリックスには、まだ広範な地域が暗いままに残っていた。だがバリ島の東22マイルのロンボク島はその範囲ではなかった。ジャワ海と西オーストラリアを深い海溝でへだてるロンボク海峡は、アメリカ、ソ連、どちらの陣営にとっても戦略的に重要な場所だったのだ。低空の軌道を回る人工衛星がとらえたハイレゾ画像は、視る者によってまったく違う意味を持っていた。動物保護の意識を持つ地球生物学者なら、海峡の真ん中に走る"海のベルリンの壁"、あの有名なウォレス線が、アジアの鳥や生物種とニューギニア、オーストラリアの種を分けていることに即座に気づいただろう。ロンボクを探査するKGB職員なら、ヌサ・ペニダとセコトン半島の端のあいだのわずか12マイルの狭い海溝が3,000フィートの深さがあり、核サブステルス機じゅうぶんに通過可能なことを見て取っただろう。だが、NOAA(国立海洋大気庁)とつながりを持つサーファーだったら、セコトン半島のいくつかのポイントに、スピードのあるラドン船でわずか1時間たらずでたどり着けることに注目しただろう。


Portfolio: Ryan Miller
The Straight Story
「真実」
ライアン・ミラー:技術、道具、そして努力がWSLへの道をひらく。
<フィーチャーストーリー>
最初のフィーチャーストーリーは、日本版のオリジナルコンテンツ、国産下町ボードビルダーであり、日本サーフボード産業の揺籃期における日米のサーフボードビルダーたちの橋渡し的な存在でもあったテッド・サーフボードを立ちあげた阿出川“テッド”輝雄の物語である。

INNER CITY, OUTER SEA
「アメリカの空気を嗅いだ男、テッド阿出川とテッド・サーフボード」
文:森下茂男
のちにテッド・サーフボードを立ちあげることになる阿出川“テッド”輝雄は、日本大学芸術学部(以下、日芸)放送学科3年のとき(マイク真木は放送学科の1年後輩に当たる)に渡米する。彼が21歳、1964年の春、新しいものを自分の目で見たいという思いから、知り合いを頼ってカリフォルニアのサンタモニカに向かう。


つづいての物語は、テッド阿出川がアメリカから輸入した1台のプレーナー、スキル100はテッド阿出川をはじめ数多くの日本のシェーパーたちに引き継がれ、技術とともに日本のサーフボードインダストリー史を支えたのだった。

THE PLANER THAT COULD
 「スキル100物語 since1967」
日本のサーフボードインダストリー史を支えた1台のプレーナー。
文:星静雄
「東宝商会を通じ、機械輸入商からこのスキル社のプレーナーを輸入したのは、1967年の夏の終わりだったかなあ」
 阿出川は、その前々年はハモサに住み、シェーパーだったハワイのハロルド•イギーがすでに使っていたスキルに魅了され、その必要性を感じていた。さっそくオーダーすると、このスキルは意外にすんなり入手できたという。ともすれば正規輸入第1号であってもおかしくはないし、その後約30年間つづくクラーク・アンド・スキル時代以前から、このスキルが日本に存在していたと思うと、それはとても夢のある話ではないか。


アメリカのサーフシーンを支えた米『サーファー』誌と米『サーフィン』誌。そのひとつ『サーフィン』誌が廃刊になった。元『サーフィン』誌の編集長、ニック・キャロルがその思い出を語る。

Let’ Do It!
「レッツ・ドゥー・イット!」
米『サーフィン』誌の元エディター、ニック・キャロルの回想録。
文:ニック・キャロル
最後は静かに訪れた。いっきにバタンとではなく、名残惜しそうに。皮肉なことに、廃刊のニュースはソーシャルメディアを通じて表面化した。定期購読の更新時に、自動音声応答サービスで最終号が出荷済みと知った読者が投稿したのだ。
 しかし当の出版元は、投稿が引き金となってフェイスブックに猛烈な勢いでコメントが殺到するまで口を固く閉ざし、53年もつづいたサーフメディアは無言のまま幕を下ろした。
 医師だったら、死亡診断書になんと記すだろうか。大衆はインターネット隆盛のせいにしたり、サーフ産業衰退の兆しと受けとめたが、そのどれもが近因にすぎない。根本の原因はプリント・メディアの終焉ではなく、読者層の変遷につぐ変遷にほかならない。『サーフィン』誌が創刊された1964年以降、何百ものサーフィン雑誌がアメリカだけでなく世界中に誕生し、そのいくつかは今なお強い影響力をもっている。創刊当時、アメリカ沿岸部に住む人々の3割近くが21歳以下(それはオーストラリアにも当てはまる)だったのに対し、現在は55歳以上の人口がおなじ割合を占めている。若いエネルギーが口火を切り、牽引してきたモダンサーフィンのムーブメントは鳴りをひそめ、若手サーファーの人口は、いまや全体のほんの一部にすぎない。


GET CLIP
「ゲット・クリップ」
社会を生き抜くためのセルフ・ディスカバリー(自己啓発)について。
文:ジェイミー・ブリシック
「映画『セルフ・ディスカバリー』が2017年現在のサーフ・ムービーのあるべき姿の一部を捉えているのかもしれない」。そう力説するリチャード・ケンビン。「1970年代にぼくらが観て育った当時のムービーは、サーフィンと音楽、それがすべてだった。勝手にジミヘンやストーンズの音楽を使っていた。すばらしい時代じゃないか。サーフィンと音楽の融合は、ぼくにとって衝撃だった。アートを追求する職人気質のクリスとすべてのスタッフに大いなる敬意を表したい」


CALL ME AT THE CRACK OF NOON
「午後になったら電話して」
アーティスト、ファム・ファタール(フランス語で魔性の女)、女神 ―
ノースショアの歴史を語るうえで欠かせない女性。
1970年代のサーフ・フォトグラファー、シャーリー・ロジャーズの物語。
文:ボー・フレミスター
写真:シャーリー・ロジャーズ
1970年代の写真の中に、あるひとつの偶像的なイメージがある。褐色の肌をした水着姿の女性がノースショアのビーチで撮影している姿を捉えた写真がそうだ。いや、ひとつと言ったが、ハリウッド・スタイルの立派な三脚を砂浜に立てて、巨大なロングレンズを覗き込むこの女性の写真は、じっさいは山ほど残されている。若くて健康的でエキゾチックな写真の中の彼女は、腰に手を置き額に汗をかきながら、全身で被写体を挑発している。「さあ坊や、私を楽しませて」と。
 天国まで届いて、神さまも赤面させてしまいそうな美脚。声をかけるのに相当な勇気をふりしぼらないと近づけない、そんな女性。手のひらにひょいと乗せられて、拳で粉々に握りつぶされ、エッセンスを海に投げ捨てられてもおかしくない。しかも、そんな仕打ちを受けても、よりよい存在に生まれ変われそうだと思ってしまうような、そんな女性だ。


PORTFOLIO: ED SLOANE
FOR NOW
「現在進行形」
オーストラリアのビクトリアから飛びだした天然色。
TSJJ7.4(TSJ26.4) 
              

<フィーチャーストーリー>
まず最初のフィーチャーストーリーは、日本版のオリジナルコンテンツ、ロックホッパーズ・ウェットスーツを立ちあげた寺岡道廣と桜井喜夫、そして成尾均の3人の男たちの、サーフィンと海、下町の人情で結ばれた滑稽で奇想天外な物語である。

Three Amigos
「みっちゃんとイワトビペンギン夏ものがたり」
文:江本リク
生涯を通して人は、砂の数ほどの人々とすれちがい、会話を交わし、アリのように触覚を突き合わせて、互いにコミュニケーションをとりあっている。そうした無数にして無限大の人々との係わりのなかでも、強烈なバイブレーションに引かれ合い、触れ合うことで、共感を覚え、知人から友人へ、親友から仲間へ、そしてファミリーリレーションへと発展するケースも稀ではない。サーフィン、海、そして都会を舞台にした下町人情で結ばれた3人の男たちの、滑稽にしてハチャメチャで、アンダーグラウンドな昭和の夏物語がはじまろうとしている…

この号でもっともこころを揺さぶられたストーリーがチリの海岸線をガールフレンドと馬たちと旅をしながら、のんびりとサーフィンを楽しむひとりのサーファーの物語だ。
Pack and Saddle
 「パック・アンド・サドル」
馬たちと旅したチリの海岸線。
文:マティ・ハノン
100ヘクタールもある新しい住処に馬たちがなじむのを見届けて、数日後にはぼくらが旅立つときがきた。「クーーダクダクダクダ!」ぼくのいつもの呼び声に、4頭の馬は頭を上げ、300ヤード先から一斉にこちらに向かって駆けてきた。ぼくは4本の人参を持っていて、それで少しだけ明るい気分になれた。サルバドールは別れを理解していたみたいで、鼻をぼくの肩に押し付けてきた。これまで100万回もしてきたように、ぼくは両手いっぱいのハグをした。彼の力強い大きな心臓の音が耳の奥に響いた。
「寂しくなるよ」胸がいっぱいだった。ぼくはこれで馬を持たないホースマンになったのだ。そのおなじ日、ヘザーからカナダに帰国することを伝えられた。彼女は最近、前ほど笑っていなかった。山を越えながら、何度か喧嘩もした。
「わかってね」とヘザーは言った。「うん、それがきみの望むことなら」とぼくは答えた。
極寒のパタゴニアに、彼女なしで行くことになるのだ。ふと、あの崖から落ちる滝の近くで割れていた波のことを思いだした。
どんなときも楽観主義であるヘザーが言った。「マティ、馬たちはすごく嬉しそうね。この場所、本当にすばらしいもの。美しい谷には美味しい草がたくさんあって、豪快な川が流れていて、立派な火山が見守っていて。こんなすてきな森もあるし」
「うん、すごくきれいだね」景色を見ようとヘザーに背中を向けながら、そっとそう答えた。でも、それは嘘だった。目の前の視界がぼやけて、ぼくにはなにも見えなかったのだから。

もうひとつ、今号で心を打たれたストーリーがある。相変わらず戦争に明け暮れるアフリカ大陸、そこで活躍する戦争カメラマンがいる。ニック・ボスマ、彼はまたサーフィンを撮るサーフ・フォトグラファーでもある。

War and Waves
「戦争と波」
洞窟の奥へと匍匐前進する、戦場フォトジャーナリスト、ニック・ボスマ。
文:ウィル・ベンディックス
写真:ニック・ボスマ
アフリカ大陸で20年以上の経験をもつベテラン戦場カメラマンのボスマは、2003年に終結した悲惨なリベリア内戦の爪痕をフィルムに収める任務を請け負っていた。行動をともにした司令官アイジャモンは軍首脳という触れ込みだったが、精神の錯乱した愚か者といえなくもない。当時リベリアを覆っていた狂気のさなか、それを見分けるのは容易ではなかった。首都モンロビア郊外では、政府転覆をもくろむ武装勢力と指揮官チャールズ・テイラー率いる軍隊との衝突が絶えず、ボスマはそんななか戦闘現場に出向いた。護衛についてくれたのは司令官たったひとり。悪名高いテイラー軍の兵士らは、誘拐した子供の一団にAK-47を持たせ、ヤシ酒と“ブラウン・ブラウン”(コカインと火薬を混ぜ合わせたもの)を与えて戦場に送り込んだ。テイラー軍のなかには、略奪したかつらやウェディングドレスを身につける兵士もいた。それが弾除けになると信じていたからだ。敵対する反政府軍にも女装や民間人の装いで戦う兵士が後を絶たず、敵味方を区別するのは実質的に不可能だった。

The Caretaker of Intangible Ingredients
「世話役」
生粋のサンディエガン、ハリー・スキップ・フライのパーソナル・クイバー。
文:クリス・アーレン
「サーフボードがいいんじゃなくて、ライダーが上手なんだよ」。それはサーフィンの世界に長年語り継がれた常套句。しかしスキップ・フライの場合、それは例外で、ライダーとボードを切り離して語ることはできない。これまでに開発されたフライのクイバーについて語りながら、ライダーでもあるその男について語ってみよう。

そのほか、The Big Boogie「ビッグ・ブギー」“害虫”やら“クズ”などと揶揄されながらも、そんなのどこ吹く風。今も進化しつづけ、バレルをチャージしつづけるボディーボーダーたちのストーリーや、毎号息を飲む写真が満載のポートフォリオは、TSJによるフォトグラフィー・アーカイブ選集Play the Hits: Recent Photography from TSJ’s Working Archive「プレイ・ザ・ヒット」など、今号も話題のストーリーが満載です。
2,090円
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West Coast Groovy
「小林昭のウエストコースト・フォトグラフィー」
文:森下茂男
写真:小林昭
1969年アメリカ西海岸ロサンゼルスのマリブ一角に拠点を構えた写真家・小林昭は、当時、アメリカで起こりつつあったニューウェーブのうねりをカメラで捉えた。そのうねりとは、アメリカの若者たちがつくりだした新たな文化だった。それは、音楽、文学、そしてアートからサーフィンにいたるまで、アメリカ西海岸の変わりゆく時代を小林はモノクロームのフィルムに記録した。

A Friend Of Friend
「バルって誰?」
文:ボブ・ビードル
写真提供:バル・バレンタイン・コレクション・トラスト
バルって誰?そんな反応が返ってきても不思議ではない。50年ほど前、オアフ島ノースショアに住み着いたローカルでなければ、その名前にはピンとこないだろう。加えてレスリングの解説とフォトグラファーを生業としていたバルが、1950年代後半にハワイへ移り住んだこと。親しいレスラー仲間のタリー・ホー・ブレアーズ卿を通じてサーフィンと出会ってからサンセットビーチに居を構えたこと。サンセットのインサイドで割れる浅いリーフブレークに彼の名前が付けられたことなども、あまり知られていない。

Dream On
「ドリーム・オン」
グレン・チェイスのコスミック・シャングリラ
文:リチャード・ケンビン
写真:ジェフ・ディバイン
グレンの人格形成に大きな影響を与えたのはラ・ホヤのグラニーの家だった。グラニーはジェフ・ディバインの祖母だった人物だ。ディバインとグレンは親友になった。グレンはグラニーの所有するコテージに泊まる代わりに、彼女の面倒を見て庭の世話をした。ディバインの写真はすでに米『サーファー』誌に掲載されており、まもなく正式なスタッフ・フォトグラファーとなった。1970年代が幕を開け、『サーファー』誌は黄金時代を迎えていた。隔月の発行で、時代を超えたすばらしい写真が、良質なレイアウト、フォント、グラフィックデザインとともに掲載されていた。繊細で抑制の効いたうつくしい誌面は、当時のスタイル、想像力、そして理想主義的な流れを反映していた。『サーファー』誌でのディバインの仕事とともに、グレンのアートとサーフィンはサンクレメンテのサーフィンメディアへと浸透しはじめていた。グレン・チェイス、魔法使い志望、バレルローラー、旅人、アーティスト、そして宇宙的に革新的なこの男は、仕事を探していた。

Riders of the Storm
「ライダーズ・オブ・ザ・ストーム」
世界でもっとも売れたサーフボードを検証する。
文:ブレッド・メレキアン
ウェーブストームはもちろん、ある意味においていわゆるサーフボードだ。8フィートの長さでボトムはハード、デッキはソフトなフォームだ。コストコのような大型の量販店で購入できる。さらにホームデポのような店ならばゴミ箱のような空き箱に大量に突っ込まれた状態で販売されている。ウェーブストームの価格は99ドル。しかも壊してしまったらコストコでは新品と交換してくれる。
 多くの人がこれを購入している。残念ながら正確な統計はないが、ウェーブストームを取り扱う会社でカリフォルニアのアーバインを拠点とするAGITによれば、2016年にコストコだけでも100,000本以上のウェーブストームを販売したという。このデータだけでも世界でいちばん売れたサーフボードと断言できる。既存のサーフボードよりも5倍近くは売っているということだ。

そのほか、The Plural Island「奥深き島」多彩な海岸線をもつバルバドスのサーフポイントの紹介や、ブリティッシュコロンビアの写真で構成するBuilders Of The North
「北の開拓者たち」や、フロリダ出身のロングボーダー、ジャスティン・キントールのNormcore「究極の普通人」や、ミレニアム・シューター、ダンカン・マクファーレンのPortfolio: A Duncan Macfarlane「ポートフォリオ:ダンカン・マクファーレン」などなど、今号も話題のストーリーが満載です。
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Chasing The Elusive Dream
「1969年、海外に目を向けた4人のサムライ」
文:森下茂男
日本のサーフィン黎明期におけるサーファーたちの時代マインドには、“誰が一番乗りか?”という先陣争いがあった。それは、いつサーフィンしたのかにはじまり、誰が最初にこの波(ポイント)をサーフしたのか、また、誰が最初にサーフボードをつくったのかといった「一番乗り」競争があり、そして誰がいちばん初めに海外の国際大会に出場するのかといった一番乗りレースもそのひとつだった。


Starting From Scratch
「日本サーフィン連盟設立前夜」
文:森下茂男
東京オリンピックの正式種目決定を受けて、悲願だった日本体育協会加盟など、にわかに慌ただしくなった日本サーフィン連盟周辺だが、日本のサーフィン黎明期にその礎の、さらに礎を築いた男たちがいた。

Going Lala
「ゴーイング・ララ」
じつは奥深いパフォーマンス・サーフィンの歴史。
文:デイブ・パーメンター
崩れる前の波のフェースを横に滑りはじめたのは、いつごろなのか。材料が限られ、デザインが未発達だったとしても、だれかが偶然、もしくはトライ&エラーの末、斜めに滑ることを発見した可能性は排除できないだろう。ポリネシア・トライアングルの底辺あたりでは短いベリーボード風の乗り物が使われていたが、サーファーたちがそれに乗ってララに興じていたことも、じゅうぶん考えられる。どれも推測の域を出ないものの、ひとつだけ確かなのは、サーフィンが今日の姿にたどり着いたのは、ポリネシアの海洋民族がハワイ諸島に定住した後ということである。


SOUNDINGS
「ロッカー:波にフィットするということ」
クリスチャン・ビーミッシュによるシェーパーたちへのインタビュー
文:クリスチャン・ビーミッシュ
はたしてシェーパーは、サーファーが喜ぶマジックなカーブを見つけられるのだろうか? たとえば1990年代に時代を席巻したケリー・スレーターのショートボード。そのミニマリズムはきわめて実験的な試みだった。一般サーファーのだれもが、その「妖精の靴」を手に入れて、彼のようにスピードとフローを体感したいと思ったが、多くは徒労に終わった。だが、その軽く薄いサーフボードの10年が、大きな沈滞だけを招いたわけでもない。マット・ケックルが指摘するとおり、1990年代に開発されたフリップチップ集積回路は、パワー・フロー・サーフィンとエアリアルという新境地の実現に向けた橋渡しにはなっただろう。>

そのほか、The Chocolate Islands「チョコレート・アイランズ」サントメのルーツに触れる旅や、疾風のように駈け抜けたニューヨークのサーフレジェンド、リック・ラスムーセンの人生を描いたUnsafe At Any Speed「危険がいっぱい!」や、イギリス在住フォトグラファーのファイル、Portfolio: Al Mackinnon「ポートフォリオ:アル・マッキノン」などなど、今号も話題のストーリーが満載です。
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<フィーチャーストーリー>
日本版TSJJ7.1号では3人の女性をピックアップした。オリジナルコンテンツではそのひとり、岡崎友子を取り上げた。岡崎友子は‘80年代、プロのウインドサーファーとしてマウイ島をベースに活動をつづけ、そののちスノーボーダーとしてもアラスカや北海道などのパウダースノーに目をむけ、さらにカイトサーフィン、サップ、そして最近ではフォイルサーフィンにトライするなど、世界のエッジな領域で活躍する鎌倉生まれのスーパーウーマンだ。

MIMULUS
「ミムラス」
岡崎友子の、小さな身体に詰まった大きな想い。
文:山根佐枝
小川の水辺に咲くミムラスという黄色い花がある。腰くらいの高さの茎に3cmほどの花をつけ、群生する。雨が降り、水かさが増すと根こそぎ流されてしまうこの花は、それでもあえてその場所を好んで育つ。流され枯れてしまうかと思いきや、流れ着いた先でまた根を張り、花を咲かせる強さがある。「恐れを克服し、一歩を踏み出す勇気を思い出させてくれる」。ナチュラル・ヒーリングのレメディのひとつであるこの花のメッセージを伝えたとき、岡崎友子は目を細め、自らの内側に向かって静かに頷いたようだった。

つづいて紹介する特集は、男勝りのサーフィンで一世を風靡した女子プロサーファー、リサ・アンダーセン。20年前、「リサ・アンダーセンはきみより波乗りがうまい」というキャッチフレーズでUS『サーファー』誌の表紙を飾ったスーパーウーマンの内面にチャッズ・スミスがアプローチする。
A Graceful and Perfumed Rage
「優雅で芳香な怒り」
10代の家出少女、パフォーマンスの先駆者、生涯サーフィン中毒、トレードマークの激しい気性で突進してきたリサ・アンダーセンのポジション。
文:チャズ・スミス
「電話帳でタクシーの番号を探して、ここからオーランドまで片道いくら?って訊いたのを覚えてる」。エビのセビーチェには手をつけないままリサ・アンダーセンは話していた。「ここから」というのはデイトナビーチ、詳しくはオーモンドビーチのことだ。カーペットバガーとして移住した北軍最後の将校が住んでいたフロリダ終端の街として知る者はいても、サーフィンにかんしてはまったく無名の街だ。繊細なコーンチップとともに赤みがかったソースが美味しそうなセビーチェはずっとそこにある。彼女はアル中の父と、その父に怯えていた母の家を飛びだし、鑑別所で16歳という多感な時期を2年間過ごした当時を思い出していた。

Neptune Alley
「ネプチューン・アレー」
ジョン・フォスターのラ・ホヤ・フォトグラフィー。
文:リチャード・ケンビン
どのサーフタウンにも、1970年代に台頭し、その時代を彩ってきた集団が存在する。カリフォルニア州ラ・ホヤにおいては、ジョン・フォスターとその仲間たちがそうだ。詳細を抜きにすればそんな場所はどこにでもあり、写真を通して当時を振り返ると、ツァイトガイスト(時代精神)に満ちあふれ、人を引き寄せる圧倒的な魅力をもつ固有の風土が浮かびあがる。街路やガレージ、宿泊施設、浜辺、サーフポイント、スケーターのたまり場、サーフショップ、駐車場、繁華街、酒場。記憶がときを経て濾過されるにつれ、その街との結びつきは深まっていく。そしてフォスターの写真は、時代ごとにそこへフィットする面々も異なるという事実を裏付けている。ユーモアと深い造詣、それに被写体への洗練されたリスペクトを込めて。彼はもっとも大切な友人、その友人らが乗った波、そして愛着の深いラ・ホヤをフィルムに収めてきた。

THE MATURATION OF CLOUD NINE
「クラウドナインの末路」
フィリピンの気まぐれな波は観光開発によって終焉を迎えるのだろうか?
文:マイク・チャンチウリ
かつてマイク・ボイヤムは、この長い海辺にある伝説の波へと静かに分け入った。冒険家からコカインの密売人に成り下がったことで名を知られたこの男は、悪い連中に報奨金をかけられ逃走していた。彼の人生はその時点で、すでに兄弟にGランドの場所を地図上にピンで示していたし、ドラッグの取引などで服役も経験していた。彼が追求していたものは3つあった。隠遁生活、霊的修行、そしてサーフィンだった。彼の日誌によると、形而上学的領域が彼を凌駕し、43日間の断食によって急速に痩せ細った。
 もし断食がボイヤムを死に至らしめなければ、彼はいまでもこの地に潜んでいたかもしれない。今日では、多くのツーリストがボイヤムのレガシーを踏みつけてボードウォークを歩いている。もしくは椰子のビーチフロントでオーガニックジュースやエスプレッソで喉を潤している。きっとボイヤムも、墓の下で笑っているはずさ。

Portfolio: Corey Wilson
ポートフォリオ:コーリー・ウィルソン
CASE STUDY
カリフォリニア出身のトップシューターによる15枚の近作。
コーリー・ウィルソンは、US『サーフィン』誌のスタッフやリップカールをベースに仕事をしているフォトグラファーだ。ここに並べられた彼のすばらしい作品のご堪能ください。

そのほか、サーフアートのパイオニア、マイケル・ドーマーの作品集を取り上げたアート・コーナー、「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」や、1970年代、プロサーファーとした活躍したパワーサーファー、ジョナサン・パールマンの半生、「荒海の格付け」。そして、サーフィンを通してメキシコの小さな村人たちの古い考え方と戦う女性教師、マイラ・グアダルーペ・アグイラ・ビラヴィセンチオのストーリー、「ラ・マエストラ」など、今号も話題のストーリーが満載です。
1,935円
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<フィーチャーストーリー>
2020年の東京オリンピックではサーフィンが新たな競技種目に加えられることとなったが、はたしてサーフィンというスポーツはオリンピックの場で競技として成立するのだろうか?今回の日本版のオリジナルコンテンツは、辛口の論評で知られる『F+』の編集長、つのだゆきが、サーフィンコンテストとサーフィンのもつ特殊性、文化について論じた。

Doing Your Best Isn't Enough
「サーフィンって、なんだろう?」
スタイルを問わない、10点満点の矛盾。
文:つのだゆき
かれこれ25年近く、WSL(World Surf League)のワールドツアーばかり見てきた。国内プロツアー・フルフォローの時代を加えれば、30年以上になる。人生の半分以上の時間を、サーフィンコンテストを見て記事を書く、あるいはその写真を撮る、という仕事をしてきた。わたしにとってのサーフィンはイコール・コンテストであって、ルールにのっとった競技であり、スポーツである…であるはずだと思っていたし、そう思うことがほとんどだが、近年WSL体制になって、サーフィンが、というよりワールドツアーがどんどんメジャー化をめざし、賞金額を上げ、選手のステータスを上げ、メディアをコントロールし、サーファー同士の、おなじサーフィン業界の仲間的なれ合い要素をどんどん省き、純粋に興行目的のプロスポーツとしての道を歩みはじめると、否定はまったくしないけど、払拭しがたい違和感が付きまとうようになった。サーファーって、そんなご大層なもの? みたいな。

つづいて紹介する特集は、文化評論家でライターのルイス・ハイドは、与える経済の価値について、著書の『The Gift』で、物を無償で貸し借りすることでコミュニティが形成されるという。「商品を売るのではなく、なにかをプレゼントすることでそれに関わる人々のあいだになんらかの関わりが生まれる。あるグループのなかで物が循環すると、繋がりが繋がりをよび、相互の関係が広がっていく」。著者のカイル・デヌッチオは、それをサーファーたちのサーフボードの貸し借りとサーフ・コミュニティに置き換えて、話を展開させる。
The Gift
「ギフト」
自ら課した孤独な波との取引、そして一本のシングルフィンが教える現代のサーフカルチャー。
文:カイル・デヌッチオ
そのボードは150ドルだった。ある夜、サンディエゴでいつも波乗りしていたビーチの暗くなった駐車場で、ある男が売っていたものだ。男はトラックの前でぎこちない様子で板を持っていた。たとえば、使ったことのない大きなチェロのようなものを持つ感じだ。どこかで盗んできたのか、フリーマーケットで買ってきたのか。ぼくは訊ねなかったが、板の状態からするとどこかのゴミ箱から拾ってきたものかもしれなかった。それはボロボロで醜(みにく)い5’10”のシングルフィンだった。

1991年にトム・サーベイによって撮影されたトム・カレンのカットバックは世界中のサーファーに衝撃を与えた。そのトム・カレンが乗っていたサーフボードはモーリス・コールがシェープした7’8”ピンテール。予期せぬ幸運から生まれたサーフボード・デザインの裏話をニック・キャロルが解説する。
The Reverse Vee Project
「リバースヴィー・プロジェクト」
文:ニック・キャロル
写真:トム・サーベイ
出来事の全貌に後になって気づくことを後知恵(あとぢえ)という。しかし、真実は理解しがたいところに隠れているものだ。1991年後半にモーリス・コールがトム・カレンのためにシェープした7’8”ピンテールは、ふたりのコラボレーションによって起こるべくして起こったようにみえる。だがこのサーフボード・デザインにまつわる出来事には、にわかには信じがたい真実があった。これには「形態は機能に従う」という賢者の言葉があてはまる。その時代を引き剥がしてみよう。まず注目するのはふたりの対照的なキャラクターだ。ベルズビーチ出身の野生的でエネルギッシュなサーファーと、メディア嫌いなサーフィン新王朝カリフォルニアのプリンス。しかも彼らは偶然西フランス南部で活動していた。しかも彼らには究極のハイパフォーマンス・クイバーをコラボレーションで開発するというような目的はなかった。いや、まだなかったが、けっきょくは開発した。

オーストラリアの1960年代のサーフシーンにおいても、まだまだ発掘されていないお宝の写真がたくさんあった。今回、ジョン・ペニングスによる懐かしい写真のかずかずを紹介しよう。
Some Minor Windfalls
「ちょっとした棚ぼた」
ジョン・ペニングスの1960年代半ばの記憶。
文:アンドリュー・クロケット
写真:ジョン・ペニングス
2010年、靴の箱に入れられたジョン・ペニングスのアーカイブは、シドニーにある彼の自宅のガレージに保管されていた。ぼくがしつこく頼み込んだおかげで、このアーカイブは、埃を払われデジタルスキャンされることとなり、写真は2015年に『Switch Foot: The Other Side Of Surfing 1960-1976』という書籍として出版された。ジョン・ペニングスが、ミジェット、ナット、マクタビッシュ、ボビー・ブラウン、ボブ・ケナーソンのほか、1960年代のノースシドニーのスタイリストたちを撮影してから50年が経つ。彼が撮影した北ニュー・サウス・ウェールズのだれもいないラインナップも同様に象徴的なものとなり、はるか昔、混雑する前のオーストラリアのサーフィンの記録的価値があった。彼はサーフメディアがまさに夜明けを迎えようとしていたそのときそこにいたのだった。

Spirit of the Green Dragon
「グリーンドラゴンの精神」
陶芸家ジョー・スコビーとラ・ホヤに残るアートコロニーの面影。
文:リチャード・ケンヴィン
ラ・ホヤを訪れておきながら、グリーンドラゴン・コロニーを見ずして帰るなんて、もったいないにも程がある。グリーンドラゴンこそはラ・ホヤそのものであり、ラ・ホヤこそグリーンドラゴンそのものなのだから。 -『ザ・サンフランシスコ・クロニクル紙』 1901年
ジャック・オー・ランタン、人形の家、ウグイスの巣、ノアの箱舟、切妻屋根の家。これらは100年以上前にアンナ・ヘルドが建てた木製のバンガローそれぞれに付けられた名前だ。どの名前も、ヘルドの洗練されたヴィクトリア朝時代の精神と、過ぎさりし夢の切なさとを彷彿とさせる。最初のバンガローであるノアの箱舟は、アーヴィング・ギルの設計によるもので、1894年に建てられた。プロスペクト通り沿いの、ゴールドフィッシュ・ポイントを見下ろす丘に並んで建てられたバンガローは、最終的には11棟にまで増えた。ヘルドの家をよく訪れていた、イギリスの女流作家で女性解放運動家のベアトレス・ハーレードンによって「グリーンドラゴン・コロニー」と名付けられたこのバンガロー群は、アーティストや作家に無料で開放された。

The Man From Scum Valley
「スカムバレーから来た男」
ボンダイビーチで花開いたアント・コリガンの半生。
文:ピーター・マグワイア
2009年、仕事でシドニーを訪れていた私は、ボンダイビーチへと足をのばし、古き友人のアント・コリガンを訪ねた。大人の自覚を求められ、プレッシャーがのしかかる前、なにも気にせず自由気ままにサーフィンを楽しめた1984年のニュー・サウス・ウェールズ(NSW)北部での日々は、今思えばとてもマジカルで至福のときだった。現在このホームタウンを牛耳る“ボンダイ王子”とやらよりも、アント・コリガンという男はよほど典型的な、それこそネッド・ケリーを彷彿とさせる不良オージーだった。デレク・ハインドの著書にこうある。「彼はコング(ギャリー・エルカートン)登場の以前からコングそのものだった。兄の台頭をきっかけに、彼ほどボンダイビーチを象徴する存在になった者はほかにいない。なぜオージーサーファーが、何世代にもわたって世界で活躍しつづけられるのか、その理由の本質がコリガン兄弟に象徴されていたと思う」

Primo
「プリモ(プリモ:孤高の存在という意味)」
ハワイ時代のブッチ・ヴァン・アーツダレン
文:ダグラス・キャバノー
ハワイへ旅立つために何年もかけて周到に準備を重ね、せっせと資金を貯めたブッチ・ヴァン・アーツダレンは、現地の映像を穴が開くほど見て、熱心に先達の話に耳を傾け、マンモス級の大波に想像を巡らせてきた。そしていよいよ転機が訪れると、彼はホノルル空港に到着する日時をマイク・ディフェンダファーとパット・カレンに伝え、旅に同行する仲間を探した。計画に飛び乗ってきた友人のジョージ・ラニングとともに航空券を買い求めたブッチは、ウィンダンシーのサーファーだれもが憧れる夢の冒険に向けて荷づくりをはじめた。そしてその夢は、現実となる。

Portfolio: Mark Mcinnis
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