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ザ・サーファーズ・ジャーナル日本版 発売日・バックナンバー

全80件中 46 〜 60 件を表示
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<フィーチャーストーリー>
ウッディ・グーチ、オーストラリアはヌーサ出身の21歳の若きサーフ・フォトグラファーの作品が、ザ・サーファーズ・ジャーナルのポートフォリオに取り上げられた。彼は現在、東京をベースに活躍しているサーフィン界新進気鋭の注目株だ。

Portfolio: Woody Gooch
サーファー目線の視点が新鮮なイメージを創り出す
文:デボン・ハワード
17歳のとき、ローチのスポンサーのDeus Ex Machinaが制作していた『I Had Too Much To Dream Last Night』というフィルムプロジェクトのために、ローチとともにジャワに向かった。Deusのブランド・ディレクターであるダスティン・ハンフリーは、ジャワで初めてウッディと出会う。そしてそこで、1週間に10,000ショットを撮影する彼の姿を目撃したのだ。Deusの次のフィルム『South to Sian』の制作の仕事で、インドネシアをハリソンとザイ・ノリスとともに旅するワイルドな数カ月にわたるロードトリップ・プロジェクトだった。サーフィンとダートバイク・アドベンチャーの一部始終を映像に収める作業の見返りに、ダスティンは、ウッディに自分の有するフォトビジネスのノウハウすべてを伝授した。

つづいて紹介する特集は、当時ハワイの超有名人だったデューク・カハナモクがいかに白人たちに利用され、人種差別を受けつづけたかという、デューク・カハナモク論だ。1925年に製作された無声映画『ザ・ポニー・エクスプレス』で、“インディアン・チーフ”役を演じたデューク。有色人種の主役への抜擢が禁じられていた当時のハリウッドで、彼は脇役として異なる民族の役柄を押し付けられた。

Duke’s Ulcers
「デュークの葛藤」
ハワイが輩出したサーフィン界の絶対的アイコン。体(てい)のいい仕事に甘んじたあげく、いいように宣伝に利用され、人種差別に耐え抜いた波乱の生涯を振り返る
文:スティーブ・ホーク
デュークはカメハメハ大王と首長の末裔(まつえい)として1890年に生を受けた。1世紀ほど遡った当時、80万人近くいたハワイ先住民は、西欧の探検家や宣教師などが持ち込んだ病原菌によって人口およそ4万人にまで落ち込む。デュークがまだよちよち歩きの頃、裕福な白人の一団が陰謀を図り、ハワイにおける最後の君主、クイーン・リリウオカラニを失脚させた。米軍が介入すると偽って脅しをかけ、自らを公安委員会とまで名乗った裕福なハオレ(白人)たちのはったりに女王は屈服し、流血沙汰を避けるべく平和裏に政権を明け渡すことにした。それ以降、太平洋の島国はアメリカ合衆国に組み込まれ、現在に至る。


ハワイのビッグウェーバー、マーク・ヒーリーが新たなビッグウェーブ用のガンのデザインをシェーパーたちと模索しはじめた。そのわけは?

THE HEALEY VARIATIONS
「マーク・ヒーリーのガン・ボード開発」
ビッグウェーブ・トップガンとシェーパーたちの新たな取り組み
文:ジョック・セロング
写真:ジョン・ビルダーバック
昨年末、マーク・ヒーリーがeメールを送ってきた。文面はシンプルだが、その内容に私は少し驚かされた。彼は通いなれたサーフポイント、ピアヒ、プエルト、マーヴェリックス、そしてトドスでラインを描くことにもう疲れてきたと述べていたからだ。「ビッグウェーバーのトップたちはパフォーマンスの限界に達しているんだ」と彼は言う。「今やっていることってお決まりのガンに乗って、ただアグレッシブにサーフすることだけなんだよね」
 エルニーニョによる不気味な波がブレークするウインターシーズン。ヒーリーは3人のお気に入りシェーパーにコンタクトを取った。サーフボードの新しい可能性を広げるため、あえて定説を無視したボード作りを求めたのだ。ストレートラインのサバイバルから一歩抜け出すための可能性を彼は模索しはじめた。

Divine Detail
「ディバイン・ディテールス」
わが編集部のトップ・フォトエディターが発見した、新たな記録と記憶
写真、文:ジェフ・ディバイン
パイプライン、1974年。当時は、だれもが何本もボードを持てなかった。よって、ボードも友人同士でシェアするのが当たり前だった。だから“折ってしまった者が弁償する”、そんな暗黙のルールが存在していた。もしボードが真っ二つに折れてしまった場合、容疑者はできる限りの手を尽くしてその事実をひた隠しにした。しかし、いずれ交渉はスタートする。人によっては、現金はないが、それ以上に大量のハッパをストックしている輩も多くいた。大抵の場合、現金200ドルとハーフパウンド(約227g)のゴールド・コロンビアン(マリファナ)で片が付いたものだ。このスリーストリングス・ブルーワーのボードもだれかにとって高くついたことだろう。

West As All Hell
「地の果て西部へ」
カリフォルニア開拓地への帰郷
文:デイブ・パーメンター
ハワイ諸島に移り住んで約20年が経過した頃、ようやく私は、故郷の西海岸カリフォルニアの地に立った。ネイティブ・カリフォルニアン3世として、太平洋のど真ん中に位置する小さな諸島で育まれたメンタリティを胸に、シエラマドレ山脈の麓に位置し、すてきな海岸線に面したこの地へと戻ってきたのだ。そして気づいたのは私の故郷が、ヤシの木に囲まれたハリウッドのオープンセット、世間知らずの観光客が好んで訪れるような、そんな馬鹿げた要素は、今やまったく皆無だということだった。

今号のオリジナルコンテンツは佐藤秀明のポートフォリオだ。佐藤秀明は『サーフマガジン』誌創刊から活躍した日本で最初のサーフ・フォトグラファーだ。 “North Shore: As It Was, As It Is”は、1970年から1980年までのハワイ・ノースショアを記録したものだ。この時代のノースショアは、ショートボード・レボリューションを経てパイプラインをはじめとするインサイドのリーフブレークにおけるサーファーたちのパフォーマンスが飛躍的に発展した時代で、またノースショアという実験場によってサーフボード・マニュファクチャリングもまた進化を遂げた時代であった。

North Shore: As It Was, As It Is
「ノースショアのゴールデン・ディケード」
佐藤秀明が記録した、ハワイ・ノースショアがもっとも輝いていた時代
文:森下茂男
佐藤秀明がサーフィンという存在に興味をもったのは、なんとニューヨークでだった。日本大学芸術学部写真学科を卒業した佐藤秀明は、1年間アルバイトをして貯めた資金を握りしめてニューヨークへ向かう。「1968年だったかな、3ヶ月ぐらいで帰る予定でニューヨークに行ったんだ。でも、着いてすぐにお金などすべて盗まれてしまったので、しょうがないからバイトをして暮らしているうちにだんだんニューヨークが面白くなって、けっきょく3年近く、マンハッタンのあちらこちらを点々としていた」と言う。
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ピックアップ・コンテンツ
かつてTSJがひとりのサーファーにたいしてこれほどのページ数(32ページ)をさいて特集したことはなかった。なぜ、今、TSJがジョン・ジョン・フローレンスを取り上げるのか、それは彼の活躍ぶりを見ればご理解いただけると思う。

Look at John John!
「ジョン・ジョンを見ろよ!」
文:チャズ・スミス
すべてを巻き上げながら切り立つ恐ろしい波にたいして、なに食わぬ表情で淡々と波に乗る彼の姿は信じがたい!つまらなそうな表情に、努力の微塵も感じられない様子でパンプしたときのあいつのスピードを見てくれ!それはまるでレーシングカーやロケットさながらさ!セクションをヒットして、凧に乗ったかのように空高く舞い上がったと思えばしっかりランディングする彼の姿を見てくれ!そして信じられない高さからランディングを成功させる。その年齢ではあり得ないほどつねに冷静で、いつもクールな彼のサーフィン。クレーム(自分のスゴ技をアピールするような仕草)は一切せず、ナルコレプシー(睡眠障害者)の患者があくびをするかのごとくルースな彼のスタイル。そんな最高にクールなサーフィンを、いったい彼はどこで学んだのであろうか?

つづいて紹介する特集は、ジェリー・ロペスによるディック・ブルーワーとの交友録である。このストーリーはこの10月にパタゴニア出版から発売されるジェリー・ロペスの『SURF IS WHERE YOU FIND IT』からの抜粋だが、ハワイサイドからみたショートボード・レボリューションの様子が、シェーパーとしてのジェリー・ロペスとして書き記した貴重なストーリーとなっている。

RB
「ディック・RB・ブルーワー」
ハワイのショートボード・レボリューションを牽引したディック・ブルーワー
文:ジェリー・ロペス
サーフィンの未来を予見させるようなブルーワー・シェープの8'6"が登場して以来、その進化は止まることなく、サーフボードもライディングも、元の姿に戻ることはなかった。革命の火ぶたは切られ、わたしはその場に居合わせる幸運に恵まれた。

さて、シェーパーのストーリーは今号のキーポイントだろう。ランディ・ラリックがシェーパーの道を歩みはじめたきっかけが、ボード修理だった。そのとき付けられたニックネームが「スーパーパッチ」。以来、彼はいまでも「スーパーパッチ」なのだ。

Super patch
「スーパーパッチ」
廃棄寸前のログをランディ・ラリックが魅力的なダイヤモンドに磨き上げる
文:ベン・マーカス 
写真:ジアンカ・ラザルス
ランディ・ラリックがいままで経験してきたさまざまなエピソードは一冊の本になるだろう。だがその彼の経歴の発端となったのは、子供の頃、サウスショアでサーフボードのリペアをスタートさせた当時に名付けられた彼のニックネームにある。「サーフラインの立ち上げは1964年。オープンと同時に店の裏にリペアショップも開いたんだ。私はそこで雇われて週末だけ働くことになった。それで“スーパーパッチ”というニックネームを付けられたんだ」

さて、もうひとつ、日本版のオリジナルコンテンツとして取り上げたシェーパーがリッチ・パベル。彼は、おなじ南カリフォルニアのシェーパー、スティーブ・リスが生んだフィッシュのコンセプトを発展させ、クアッド・フィッシュをという新たなカテゴリーを築き上げたシェーパー・デザイナーだ。しかし,李リョウのインタビューでもおわかりのとおり、パベルはレトロツインフィンやスピード・ダイアラーなど、ボードデザインとフィンのマッチング、その関係の重要性に着目し、発展させてきたのだ。映像作家・李リョウはフォトジェニックな文章を紡いでいる。

Improvisation
「リッチ・パベルの即興」
サーフボードをハンドメイドでつくるマエストロふたり。イメージが先行するアートフルな作業は音楽のアドリブのようにリアクションする。
文:李リョウ
「いつのまにか私にはレトロフィッシュのゴッドファーザーというありがたくない呼び名がついてしまった。最初にそれを耳にしたときは思わず聞き直してしまったよ。“えっ、今、何ておっしゃいましたか?”ってね」とリッチは苦笑いをしながら首を横に振った。「確かに私は過去のツインフィンをモディファイしたが、それは作品のひとつにすぎないんだ。もちろんゴッドファーザーなんかじゃないし。私は自分のことをサーフボードデザイナーだと思っている」

Primordial Range
「永遠の山脈」
ローガン・マリーのコロマンデル半島の美しき原風景
文:ローガン・マリー
道路や建物はおろか人のつくった干渉物は一切なく、巨大なポフツカワの木や細く高いニカウパームが獣道を覆う太古からの森の果てに、その白砂の海岸はひっそりとある。人ひとりがやっと通れる細いトレイルを抜け、森から海に落ち込む急斜面の先で何千年ものあいだ、変わることなく割れつづける頭サイズのパーフェクトウェーブ。プロジェクトの撮影のために私は冬の数カ月間、ひとりでこの波を体験した。そして生粋のキウイ(ニュージーランド人)として、かつてこの国のすべてがこのような自然そのものだったのだということに、改めて気づかされる。キャプテン・クックが半島の鼻先をかすめて航海していった時代から変わらないこのビーチは、景色、歴史、生活様式において、ニュージーランドでもっとも原風景を残すサーフリージョンであるというのは言い過ぎだろうか。

 ほかにも、スティーブ・ペズマンによる最後のカリフォルニアのウォーターマン、バド・ヘドリックの半生を描いた「扉が開くとき」、そして1970年代、パーフェクトウェーブを求めて世界を放浪したゴールデンエイジたちの足跡を描いた「サーファーたちの旅立ち」など、今号も見どころ満載です。
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Town Abides
「タウンは変わらず」
ワイキキのリーフ、ストリート、人々、周辺地域。心と身体の帰還
文:デビッド・ウォング
ぼくは島から7年間も離れ、メインランドに住みついたケイキ・オ・カ・アイナだった。ぼくはようやくここへ帰り、砂をかぶりひび割れたカイザースの駐車場を歩いていた。シャワーの前を通り、小さなビーチへ向かう。ポイドッグをなでて、深呼吸してストレッチをした。サムライ全員が撃たれる映画の話をしているアンクルがいた。あっという間に干からびる水たまりに捕まった蜂がもがいている。チャンネルをカヌーが走っていった。岩の上では大きなカーキ色のパンツを穿いた中国人が太極拳をおこなっている。ロングボードのワヒネがあまりにも美しく波に乗るので、ぼくは若返った気分でちょっとウキウキした。死んだリーフは沈んだ墓地のようだった。

Spacetime
「スペースタイム」
波の一生を一枚の写真で表現する写真家、ジェイ・マーク・ジョンソン
文:ジョン・デュラント
ジョンソンは写真家ならだれもが夢見る人生を送っている。人の心を瞬時につかむ彼の作品は、この世のものとは思えない。それらはLAでもっともヒップなギャラリーに展示されており、物理学者や美術史家といった人々が、ニトロ入りの言語で論理的批判をくり広げる対象にもなっている。まるで視覚パズルのような彼の作品は、ぼくたちが持ち得る写真の知識や時間という概念に挑戦してくる。

When The Baseline Thumps
「ベースが鳴り響くとき」
木工室からヒップホップまで…、ショーン・ステューシーの半生
文:クリスチャン・ビーミッシュ
「ベースが響くと鳥肌が立つ」。ステューシーおなじみの字体で書かれた広告のキャプションだ。横にはブリッツによって瓦礫の山となったロンドンの街に佇む、イギリス人学生と思われる人物を捉えた古い写真が並んでいる。写真とそのメッセージは、ピンテールのシングルフィンをシェープしていた事実からはあまりにもかけ離れているように思える。1973年ごろ、彼はハンティントンビーチのクオンセットハットにあったラッセル・ブラザーフッド・サーフボードで働いていた。しかし、いずれにしても「ベースが響く」ことに達したのは、彼の音楽的嗜好の進化の過程では当然の帰結だった。

Get Busy Living
「全力で生きる」
シェーン・ドリアンの肝っ玉物語
文:ジェイミー・ブリシック
ポートレート:ショーン・デュフレーヌ
その日の午後、ぼくは真っ青の水平線と同化したインフィニティプールの、カフェフラというオープンテラスのレストランでシェーンとリサに会っていた。ぼくはリサに、モンスターウェーブに乗るのが仕事の男と結婚生活を送るのはどんな感じなのか訊ねてみた。タンクトップに黒髪で優しそうな顔をした彼女は肩を震わせながらこう言った。「怖いわ。ものすごく不安だし、ぜんぜん楽しくない。わたしの母がいい表現をしていたわ。わたしは兵士の妻のようだって。家族のためにわたしがしっかりしないと、シェーンが仕事に集中できなくなってしまう。シェーンが居ようが居まいが、わたしに家庭を引っぱる意気込みがないと成りたたないのよ。だっていつ彼がスウェルに呼ばれるかなんてわからないから」

Tagalog Connection
「タガログコネクション」
1980年代終盤、フィリピンにサーフキャンプを建てたひとりの日本人
文:李リョウ
1980年代の終わりごろ、「あそこは波の宝庫」と聞いただけでフィリピンにサーフキャンプを建てた日本人がいた。当時、まだクラウド9もモナリザも発見されていなかったフィリピンは、マルコス政権が倒れ、マニラにはゴミがあふれ、政情は混迷を極めていた。それでも男は、ゲリラが出没する峠を越えて海辺の町バレアをめざした。そこは映画『地獄の黙示録』のロケがおこなわれた場所で、辺りのジャングルは黒焦げになっていたという。これはその男の足跡と再訪のストーリーだ。

Where Silence Reigns
「静寂が支配する場所」
音のエコロジスト、ゴードン・ヘンプトンが守りたい、1インチ四方(2.5㎠)の静寂の地
文:ギャヴィン・エーリンガー 
写真:ショーン・パーキン
シアトルのピュージェット湾を見下ろす、湯気が立ちこめるカフェ。皿のぶつかりあう音、卵の焼ける音、人々の賑やかな話し声。そんな音の中に、霧を晴らすような勢いで船の霧笛が響き渡る。静寂の保護を使命とする男と、この音の渦の中で会っているなんて、皮肉ではあるが、じつは最適な状況なのかもしれない。1インチ四方の静寂を守るということ。それは、とても壮大かつ無謀な任務であることを、ぼくはすぐに知ることになる。

The Big Wave Riders Of Hawaii
「ハワイの大波に挑むビッグウェーバーたち」
ベルナード・テストメイルによるコロジオン湿板(しっぱん)写真
文:ジェイミー・ブリシック
「サーフィンの世界は最後の自由の楽園だ」とテストメイルは言う。彼のコロジオン湿板写真への情熱は裏返せばデジタル写真への失望だ。ポートレートにたいし思いやりや目的意識の高いアプローチを切望していた時期、写真技術の歴史を徹底的に学び、ビッグウェーブ・サーフィンと相通ずるプリミティブで人と自然が対峙する瞬間を切り取る湿板写真にたどり着いた。
1,935円
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The A-Frame Strike
「Aフレームの攻撃」
写真:アンドリュー・シールド
クレイグ・アンダーソン、”吠える40度(ローリング・フォーティ)”にて
その旅は、夜の7時にニューキャッスルからはじまった。ニュー・サウス・ウェールズの海岸を南下してふたりの友人をピックアップ。それから翌日午後のメルボルン発のフライトにむけて、飛行場までの夜を徹した16時間ぶっ通しのドライブがはじまった。ぼくは、夜中の2時から夜明けまでの地獄のシフトをこなした。徹夜のドライブは初めてだったが、友人たちは慣れっこで、 この季節にはごく普通のことのようだった。真夜中の車中はクレイジーでエキサイティング 。コーヒーに大音量の音楽、全員が眠らないことがポイントで、状況に身を委ねれば相当笑えるものだった。これはAフレームで知られる島へのショートトリップの、フィナーレの記録だ。

What The Hell Is A Waterman?
「ウォーターマンっていったい何だよ?」
サーフィンの世界でもっともよく使われるこの言葉を検証してみよう
文:ブラッド・メレキアン
もしもあなたが、ここ10年のあいだに頻繁に使われるようになり、しかもたいていの場合はしっくりこない使われ方をする “ウォーターマン”という言葉を聞いて首をかしげたことがない人なら、この言葉はあなたにとって、さほど重要な意味を持たないのかもしれない。しかしこの“ウォーターマン”というフレーズが、いまやサーフィン雑誌はもちろんメインストリームの出版物でも、マーケティングのキャンペーン(マーケティング・キャンペーンではとくに使用頻度が高い)や、媚(こ)びへつらう人物紹介、映画の中でも映画のトピックスでも頻繁に使用される、もはやちょっとしたセレブなみのステータスでまかり通っているという事実だけは、あなたも知っておいたほうがいい。

Return To Kamchatka
「カムチャッカ再訪」
ロシア最東端の地で遭遇したヒグマと密漁者と軍警察
文:サイラス・サットン
写真:ディラン・ゴードン
旧ソ連製のヘリコプターで雪に覆われたいくつもの岩の峰を越えると、眼下に大きな湾が広がった。3年近くグーグルアースとにらめっこしてきた目当ての波は、この湾のいちばん奥にある。旅のメンバーは、ガールフレンドのアンナ・アーゴットとカムチャッカで最初のサーファーとなったアントン・モロゾフ、それにぼくが親しくしているカリフォルニア州ベンチュラに住むフォトグラファーのディラン・ゴードンだ。河口周辺をゆっくり旋回するヘリから見下ろすと、深い森林に覆われた崖の下で一見パーフェクトな波がアシカの群れに割って入るようにブレークしていた。前回目撃したサメは、すくなくとも今は見当たらない。

In The Pink
「ピンクに染まって」
ピーター・タウンネンドは、生涯輝きつづける人生を送っている
文:フィル・ジャラット
ポートレート:ショーン・デュフレーヌ
ピンクのシャツに身をつつんだずんぐりむっくりの男。いかしたスニーカーを履(は)き、しっかりした足取りで群衆をかきわけ進むその姿は、さながら田舎の政治家が選挙遊説にのぞむ雰囲気を醸(かも)しだしている。つねに笑顔であっちにシャカし、こっちに握手し、群衆のなかをスマートに練り歩く。PTは、忙しそうにその会場にいる人たちとあいさつを交わしていた。彼がプロサーフィンの初代チャンピオンになってから約40年、いや、そのもっと前から彼はずっとこれをやっているのだ。彼は、その文化と歴史が築きあげてきたヒーローにヒール、勝者と敗者、貧しい者から億万長者まで、分け隔てなくこのスポーツのためにできるかぎりを尽くしてきた。

Gallery: Thaddeus Strode
ギャラリー:サディアス・ストロード
「自虐的再発見」
ウエストLA発、サーフ表現主義—その衝撃的万華鏡
文:アレックス・ウェインステン
サッド・ストロードのアートを、親と喧嘩した怒れるティーネージャーみたいだと安易に理解しないでほしい。ニキビ面の子供たちにも理解が必要だし、それは愛があってもなにもわかってない親みたいなものだから。彼のアートが未熟で洗練されていないわけではない。むしろその逆だ。じっさい彼の作品は挑戦的かつ天才的な構図が特徴で、それは最先端アートとはなにかを主張する。そこにルールはない。即興性を重視し、技術的には平易さを避け、遠慮ない直接的表現を選ぶ。つまりパンクなのだ。

Beach House For All Seasons
「終わりなき夏のビーチハウス」
21世紀の湘南に生まれた、サーファーによるサーファーのための空間、"surfers(サーファーズ)“という名前のビーチハウス。
文:森下茂男
海の家というのは日本のビーチカルチャーだが、時代の流れのなかで海水浴客のニーズによって変貌し進化していく。昭和から平成へ、海の家は家族連れがくつろぐスタイルから、若者たちが音楽を聴きお酒を楽しめるカフェバー・スタイルへと変化していく。こうした流れのなか、2009年にサーファーズという、サーファーたちの手による海の家が逗子海岸に登場する。それはサーファーの持つビーチカルチャーと日本独自の海文化が融合したものなのだろう。サーファーズが誕生する際にマスターピースとなったライブハウスがある。それが1999年に金沢文庫の国道16号線沿いにオープンしたロード&スカイというお店だった。

Ntando
「ンタンド」
南ア、ダーバンのストリートから出現した“ボーンフリー”サーファー
文:ウィル・ベンディックス&サモオラ・チャップマン
ダーバンの海岸線には、あちこち歯が抜けたようにデコボコに建物が並ぶ。ゴールデンマイルと呼ばれる長い砂浜に沿って、高層ホテルと億ションが競うように軒をつらね、またそれとは対照的なオンボロアパート群が何ブロックもつづく光景が混在する。その下にはインド洋に突き出たコンクリートの埠頭や桟橋、そして何世代にもわたって南アフリカのサーファーたちを育ててきた波がある。ンタンド・ムシビと出会ったのがそこだった。桟橋がつくるレフトのボウル、そのなかでスプレーを上げていた。両腕を垂らし、安定した姿勢でのボトムターンからリップを切り裂き、テールを蹴ってスムースにフラットゾーンに着水、という彼のその日のラストライドは、まさに彼そのもの。連続スピンで、次、そして次のターンへと移っていく彼の細くしなやかな身体は、まるでゴムでできているかのようだった。10年前、ムシビは、ダーバンの街頭で、道行く人に食べ物とお金を無心するというその日暮らしの日々を送っていた。ドラッグにはまり、危険な状況がつづくサバイバルな日常。「そこで寝泊まりしていたよ。スケートパークでさ」ビーチフロント沿いの落書きだらけのセメントの壁を指差しながら彼は言う。

Spark In A Revolution
「ショートボード革命の閃光」
1968年のプエルトリコは、最先端をいくサーファーたちの、サーフボードの未来を占う戦いでもあった
文:ナット・ヤング
1968年にプエルトリコで開催されたワールド・サーフィン・チャンピオンシップは、言い換えればショートボード革命の国際的なデビュー戦だった。しかしこの革命は、サーフボードの長さだけではなく、正確にはさまざまなデザインのコンビネーションによる、新しいサーフスタイルの幕開けと捉えてしかるべきだ。この世界戦の50周年を前にこれを再考することは、ひじょうに意義あることだと思う。

Portfolio: Tatsuo Takei
ポートフォリオ:竹井達夫
「20年前の生き方」
時代を逆行させるセンチュリー650mmレンズのむこうにみるモダン・ノスタルジア
文:デボン・ハワード
43歳の竹井達男の生き方を決める大きなきっかけとなったのは、ジョン・ミリアスの映画『ビッグ・ウェンズデー』だった。1989年にマットとジャックとリロイの世界を垣間見てしまったこの日本人は、ミリアスが描いた‘60年代カリフォルニアのライフスタイルを追求することにしたのだが、彼をとくに魅了したのは彼らが使っていた道具だった。その色彩とデザインの美学、そしてそれが水の上を動く様子。エンドロールを見ながら彼は、この場所をみつけ、このボードに乗ってみたいという切なる願いを抱いた。
1,935円
2,090円
Must We Burn The Single Blade?
「シングルブレードを燃やしてしまうかい?」
シングルフィンにおける自然な乗り心地にかんする議論
文:デイブ・パーメンター
サーフボードの歴史認識周辺が、最近にわかに騒がしい。その修正を唱える者や反対意見は、熱狂の度を増すばかり。たとえばベビーシモンズ、アライア、ホットカールズ、ハインドのスライディングアス。あらゆる種類のディスク(円盤型)、エッグ(卵型)、ブロッブ(粒型)、そして1950年代のキャデラックのようなロージング(菱型)のフィン付き等々。時代遅れとされてきたシングルフィンにも、ようやく復権の時(とき)が訪れたのかもしれない。

Taylor Camp
「テイラー・キャンプ」
1969年春、大自然に囲まれたカウアイ島北部のオーシャンフロントにツリーハウス村があらわれた。そこは、パーフェクトウェーブと”グッドバイブレーション”を求める若者たちの、またとない安らぎの場所になっていった。
文・写真:ジョン・ウェアハイム
リマフリ川の河口にあった古代のハワイアン村の石のテラスの上に、そびえるように建てられたテイラー・キャンプ。それがあの“水瓶座の時代”の到来を予告するものだったかどうかはともかく、‘60年代末から’70年代に世界各地からカウアイ島を訪れた若者たちの多くが、このツリーハウスのコミュニティですごしたときが“人生最良の日々”だったと語っている。親世代の価値観を拒否し、髪を伸ばし、マリファナ、ベジタリアンフード、それまでとは異なった服装とライフスタイルを取り入れたフラワーパワー世代のキャンパーたちは、自然に帰ろうという考え方にのっとり、毎日、魚釣りや土いじり、それぞれ新しいなにかを求めながら気ままな日々を送った。

Beast Slayer
「モンスター・ハンター」
ハワイアン・ライフガードでビッグウェーブのスペシャリストとして知られるデイブ・ワゼル。彼は、あらゆるモンスターを仕留めることに人生を捧げてきた。はたして彼に限界はあるのだろうか?
文:ローリー・パーカー
1998年1月20日の夜明け前、デイブ・ワゼルは、有名ではあるが滅多にサーフされることのないという、オアフ島の“7マイルの奇跡”に位置する、あるポイントの前でパドルアウトの準備をしていた。うねりが岩棚にヒットすると、溜められたエネルギーが水深25mの海底から天空目がけて一気に爆発する。テイクオフのポジションは、沸騰(ふっとう)するお湯のような波紋の浮かぶ浅瀬のリーフの上。見た目はゴーイングオフしている波なのだが、そこでサーフする人はほとんどいない、そんなポイントだ。この日、ハワイ警防団は“コンディション・ブラック”を発令し、うねりが落ちつくまで海に近寄ることを禁じた。

Degawa, Naked
「出川三千男の素顔」
日本のサーフセレブにしてスタイルマスター、出川三千男の“素顔“に迫る
文:森下茂男
最近の出川三千男は忙しい。先日、彼に今回のインタビューの件で電話したところ、呼び出し音がおかしい。変だなと思いながらも、10回ほど鳴らしても出ないのでハングアップした。ふつうなら、出川三千男は私の着信履歴を見て折り返してくるのだが、今回は一日待ってもコールバックがない。もしかして携帯を水にでも落として電話番号を代えたのだろうか?とりあえずCメールしたら、すぐにCメールで返事があった。なんでもアメリカにいるという。そのすこし前にも映画『エンドレスサマー』製作50周年のイベントで、ワシントンDCにあるスミソニアン博物館に行っていたはずなのに、今度はアメリカ西海岸にいるらしい。アメリカの本誌編集長スコット・ヒューレットによると、彼はダナポイントの編集部には立ち寄ってはいないが、この辺りにいると言っていた。本人いわく、タック・カワハラに会っていたというが、それだけではないだろう。その次に電話をしたら、京都経由で名古屋にいたらしい。訊くと、多忙なのだと言う。そりゃ、そうだろう。

Gallery: Lawrence LaBianca
ローレンス・ラビアンカの進化の過程
文:アシュトン・ゴッガンズ
初夏の夜明け前。サンフランシスコ、アウターサンセットは陰鬱(いんうつ)で寒かった。風に乗ってやってきた朝霧につつまれた通りでは、ローレンス・ラビアンカが15フィート漕艇(そうてい)、全長4.5mのグロスター・ライト・ドリーのボート、ルチアを、トヨタのピックアップに積み込んでいた。クライミング、ローイング、パドリングをつづけてきた52歳のラビアンカの身体は細身で締まっている。荷台には中が空洞になったブルーと白のブイが積まれている。ラビアンカが長年自然とともに生きてきた経験の集大成ともいえる、ザ・シー・フロート・プロジェクトだ。それは子供のころ、メイン州での夏休みの最中に、ロブスター漁師の息子からルチアのようなボートを盗むことからはじまった。

Crosspolination
「波と雪との融合」
日本の北極圏近くにあるサーフ&スノー文化
文・写真:シェーン・ピー
サーフィンとほかのあらゆるボードスポーツとのあいだには、共通する遺伝子がある。スケートボード、スノーボード、ウェイクボード。どれも、サーフィンをルーツにもつ。滑る、という目には見えない力によって身体が運ばれていく。このエネルギーをフランス流にいうとLe Glisse。波、山、伴流(ばんりゅう)、コンクリート。舞台こそ変われども、この滑るという感覚はぼくらを惹(ひ)きつけてやまない。その魅力にどっぷりとハマったライダーたちが、世界でも選りすぐりの舞台で、突然変異をとげた。

Outside Dimention
「アウトサイド・ディメンション」
1969年12月。20世紀最高とされるリンコンの波に世界屈指のサーファーたちが立ち向かった。そのひとりが、ありがたいことにライターだった。
文:マイク・デービス
事の始まりは、気象学に精通したラリー・クラークの父親による“パーフェクト・ストームの発見”だった。12月1日、北方のアリューシャン近海で猛烈に発達中の低気圧を特定したクラークは、すぐに私を呼びつけた。数日後には中心気圧がなんと640hPaにまで発達したため、私たちはスウェルの到来を予測すべく、その進路を追いはじめた。前代未聞の巨大なストームがいったいどんな波を運んでくるのかは、だれにも想像がつかなかった。

Portfolio: D.J. Struntz (Revisited)
ポートフォリオ:D.J.ストランツ(再訪)w
サーフィン界でもっとも有能なフォトグラファーが贈る世界の風景。
ピックアップ・コンテンツ
Costa Da Morte
「死霊海岸」
スペイン、バスク地方のの死霊海岸で発見された殺人的スラブについてのストーリーだ。
北大西洋に突きでたフィニステレ岬はスペインの北西部に位置し、ヨーロッパのサーフィンにとって未開の地で、バスク地方のサーファー、アクシ・ムニアインとモロッコ人のジェローム・サーヨンのふたりによって発見された。この殺人スラブはヨーロッパに残された最後のビッグウェーブと呼ばれている。

Like A Duck Takes To Water
「アヒルの歩みの如(ごと)く」
今号のオリジナルコンテンツは日本のサーフィン黎明期(れいめいき)に日本最初のサーフボードファクトリー、ダックス・サーフボードを創業させた高橋太郎だ。本誌既報のとおり、高橋太郎は昨年他界しているが、今回、高橋太郎の功績とその人柄を偲び、この特集を組んだ。彼は、国産のサーフボードはおろか、アメリカ製サーフボードさえ輸入されていなかった1960年代初めにサーフィンがやりたいがためにサーフボードビルダーという未知の世界に踏み入れていった。その創意工夫と苦難の歴史はまさに日本のサーフボード清蔵の歴史といえる。

POP
「パシフィック・オーシャン・パーク」
さて、あなたはドキュメンタリー映画『DOG TOWN & Z-BOYS』を観たことがあるかい。その冒頭近くで映しだされた、廃墟(はいきょ)となってビーチから突きでたパシフィック・オーシャン・パーク(POP)の下でサーフするシーンは観る者に強烈なインパクトを与えた。このPOPこそが‘70年代のサーフィンやスケートボード、それから派生するさまざまなアートといったカウンターカルチャーのシンボル的存在だった。

The Real Jamie O’Brian
「ジェイミー・オブライエンの素顔」
ジェイミーが初めてパイプラインにパドルアウトしたのは8歳のとき、以来彼はニーボード、ボディーボード、パドルボード、アイアンマン、ショートボードの部門で州チャンピオンに輝き、そして21歳のときにパイプラインで優勝し、頂点を極めた。しかし、彼のそれまでの人生はノースショアの白人ゆえに味わういじめや集団暴力、それこそ映画『バスティン・ダウン・ザ・ドア』の世界があった。それゆえ“白いMr.パイプライン”と呼ばれるゆえんだった。しかし、ジェイミー・オブライエンは不屈の精神で乗り越える。。彼の『Freakshow』と『Freakside』という二本のシグネチャーフィルムは、ヘビーウェーブ・パフォーマンス・サーフィンの世界に、新たな金字塔を打ち建てた。そしていま、彼のキャリアの集大成ともいえる “Who Is JOB”のレンズを通して彼は、毎週、危険極まりないギリギリの映像をカメラに収めては、それを世界中に配信しているのだ。

ほかにもデレク・ハインドによる「ファウンド・イン・トランスレーション」は、かつてブルース・ブラウンが映画『エンドレスサマー』のなかで“終わりなきライド”が可能な地と紹介したケープ・サン・フランシスが50年ぶりにパーフェクトウェーブが甦ったというストーリーや、ロキシーガールとして一世を風靡(ふうび)したカシア・リン・ミーダーのストーリー、そしてスコット・ブルードンの漂着アート、バリに住み、サーフィンを中心に追いかけるサーフ・フォトグラファー、ミック・カーリーのポートフォリオと、今号も話題満載です。
TSJJ5.5(TSJ24.5) 

Interminable Velocity
「果てしない速力」
25年ぶりにジョージ・グリノーがシェープしたサーフボードを、デイブ・ラストビッチがクラウドブレークでテストした。

Finisterra
「フィニステラ」
病みつきになるラバーズビーチの危険なショアブレーク。
文:スコット・ヒューレット

All Manner Of Wealth
「人生という名の財産」
エクアドルの最初の女性サーファー、ドロシー・フラドの華麗なる半生。
文:グレッグ・ハグリン

Rolling Around the Park
「旅先の視点」
ストレートエアーやフェースシークエンスへの考察
文:デーン・レイノルズ

A Taste Of Margaret River
「マーガレットリバーの魅力」
西オーストラリアの豊かな波と変貌するサーフタウン
文:アンソニー・パンシア

The Making Of The Murph Bar
「マーフバーのつくり方」
いかにして浚渫船の船長は、サンタクルーズいちの波をつくり出したのか?
文:デーン・ラトレット

Tierra de Patagones
「ソーシャル・チェス」
ワイメアの遺産が残した令嬢。天から降りてきたエミ・エリクソンの評価
文:デレク・ハインド

Port Folio: Re Ryo
李リョウが紡(つむ)ぐ世界
文:森下茂男
■Mason Ho Makes You Feel Warm All Over
「メイソン・ホー」
いつも気持ちを温かくしてくれる男。
文:デレク・ライリー

■On Song
「波の詩」
世界中の写真家たちによるフォト・パッケージ。

■Bonin Island Chronicles
「ボニン・アイランダー」
太平洋の大海原に浮かぶ世界自然遺産の島にサーフパラダイスを築きあげた男。
文:宮川典継
写真:野元学

■Father Pop
「ポップアートの父」
セックス、ドラッグ&ロックンロールで共産主義を打ち負かしたマイク・サリスベリーの流儀。
文 : ジョー・ドネリー

■We Rose In The Dark
「夜明け前には目が覚めて」
宇宙ブームに沸く`70年代フロリダの海岸線を、細粒子のトライXフィルムとエッセイで振りかえる。
文&写真:ロバート・パンチョ・サンチェス

■Before Morning
「夜明け前」
クタビーチにおけるサーフィン黎明期(れいめいき)
文 : フィル・ジャラット

■Tierra de Patagones
「パタゴニアの大地」
アルゼンチンの兄弟が、波を求め、世界の最果ての地へと旅立った。
文:ホアキン・アズレイ

■The Journey Is Not the Destination
「旅とはその道のりそのもの」
陸路で行くジャワのサーフブレークが、なぜいまだに空いていて、名前を付けられることもなく、発見さえされていないのか。
文:ネーザン・マイヤーズ
Portfolio: Rambo Estrada
「ランボー・エストラーダ」
ニュージーランド本来の特質を余すことなく表現した緑色系クオリティの最新作。
文:デレク・ライリー
ニュージーランドのフォトグラファーで、名前がランボー・エストラーダなんて変だよね。きっとランボーは本名でもないし、似てもいないだろうという予測がつく。ランボーの本名はハミッシュ・マセソン。現在40歳、人口3万人のベイ・オブ・プレンティーにあるマウンガヌイ山が彼の出身地。彼のカメラはニュージーランドの魂を語れるほどに雄弁だ。その色彩豊かな情景はまさにマジック。「N.Z.のバイブレーション、もしそんなものが存在するならば、ぼくはそれを感じることができるんだ」と彼は語る。

Type Two Fun
「タイプ2の楽しみ」
ブリカ半島で経験したバニシングポイントの向こう側。
文:デビッドJ.モリス
写真:エリオット・ウッズ
「この自然界におけるすべての神秘的な出来事、それは森の中、険しいジャングル、野性味あふれる男の野心にかけ巡るもの…、絶えることのない後悔、現実から逃げだしたい願望、無力な嫌悪感、降伏、憎しみ…、すべての醜態(しゅうたい)でさえ魅力となる・・・」。作家ジェセフ・コンラッドの一節のような、多くの闇の商人が出没するジャングルにいた。私たち3人は、文明圏にとり残されたコスタリカ最後のサーフ・フロンティア、ほぼ手つかずの自然広がるブリカ半島の先端からパボネスまでを探検しにきていた。「タイプ2の楽しみ」とは、そんな過酷で最悪な状況のあとに、その思い出をふり返ったり、人に話したりするときに楽しくなるのだという。

The Macaronis Chronicle
「ザ・マカロニ・クロニクル」
Part 1
Breaking the Twigs of Pasongan
「パソンガン処女遠征記」
1980年、当時まったく未知の領域だったメンタワイ諸島への遠征で、世界有数のレフトの波に遭遇する。
文:クリス・グッドナウ
1978年7月、クリス・グッドナウはマカロニ・ポイント開拓の旅をグラジガンからスタートさせた。ここはかつてカリフォルニア出身のマイク・ボイヤムとバニュワンギ警察署長とのあいだのいい加減な取り決めにより、世界に先駆けて開設された営利目的のサーフキャンプだ。旅の本来の目的は、インドネシアのどこかで割れている手つかずのパーフェクトな波を発見することだったが、皮肉なことにGランドへのサーフトリップは、それが達成できなかったときの代替案にすぎなかった。

Part 2
The 30-Years Brief
「そして、30年後」
近代化(そして多くのサーファーたち)は、いかにして孤高(ここう)のパーフェクトウェーブを犯したのか…
文:フィル・グッドリッチ
「インドネシアにはこんな諺(ことわざ)がある“だれかの土地に踏み入って、落ちた枝を踏みつける前に、その土地の文化を理解しなければならない”」とクリス・グッドナウは、自らが発見したシラブやマカロニ・ポイントの周辺の村々で平和に暮らす人たちに害をおよぼすことを避けたかった。そして、ニアスのような事態、あるいはメンタワイ諸島で木材会社が辿ったような事態は回避したいと願っていた。その30年後の姿をフィル・グッドリッチがレポートする。

“Asian Paradise”Revisited
「映画『アジアン・パラダイス』再考」
日本のサーフシーンが輝いていた、あの時代。
インタビュー&編:村崎健太
だれかのウェブページに掲載されていたひとつの記事が発端だった。日本でつくられた最初で最後のサーフィン映画『アジアン・パラダイス』。公開は1984年。それは日本のサーフィン界がもっとも輝いていた時代でもあった。以下はこの映画に関係した人々、この時代をサーフしていた人々が語る、そんな輝きの時代の証言集である。

A Faith Born of Precognitive Adventures
「地球家族グッドウィンの冒険」
アーミオン・グッドウィンは普通では考えられない特異な生い立ちをもつ男だ。いままでに訪れた場所を再訪すべく、世界15ヵ国を巡る旅に出た彼と彼の家族。その旅をつうじて子供たちに継承されたグッドウィン一家の教えは、長編ドキュメンタリー映画になった。
文:テッド・レカス
アーミオンの父、アーロン・グッドウィンは、社会がますます過剰な物質文明に呑み込まれていき、自然界から隔絶していく様に耐えきれなくなり、幼いアーミオンを連れてそこからの脱出をはかる。親子はフィジーのとある村にたどり着き、アーミオンはそこの酋長の息子といっしょに育っていった。5歳になるころには、もうだれかに見守られていなくても、彼は自分だけで日々をすごすことができた。そしてフィジーから、ハワイのカウアイ島、ニュージーランドへと旅をつづけ、あるときはツリーハウス、あるときは海岸の洞窟に、あるいはインドの聖者カーパル・シンフのマウイ島やアイダホのアシュラム(修業道場)で暮らしてきた。そしてその30年後、プロサーファーとして生計をたてているアーミオンにも家族ができ、さまざまな文化圏で育った自分のように地球上を回り、子供たちに追体験させようと決意する。


A Train Going West
「西へと向かう列車の中で」
オーストラリア・メディア界の父、ボブ・エバンス。彼がこの世を去って30年以上の月日が流れた。その存在感は、今も色褪せることはない。
文:ナット・ヤング
私にとって、ボブは師であり、実の父親以上に父親のような存在だった。ボブが私をある意味養子のように扱ったのは、彼がずいぶん年の離れた若い女性と結婚し、3人の幼い子供たちを授かったからじゃないか、と思っている。思い返せば、息子としても、波を追って旅する相棒としても、私はちょうどよい年頃だったのだろう。私たちが仲良くなったのは、1961年か‘62年。私が思春期真っ只中の13歳か14歳の頃だ。ホームブレークのコラロイで私のサーフィンを見て、ある種の可能性を見出してくれたらしい。

Jussis! It’s Hompong!
「ヤバイ!超~デカイ!」
はまってしまう、マダガスカルの魅力。
文:アンディ・デイビス
写真:グレッグ・ユーイン
南アフリカの歴史あるサーフィン雑誌“ZIGZAG”誌の発行人であるアンディ・デイビスは5回目となるマダガスカルのサーフトリップだったが、今回は豪華な41フィートのカタマラン、エンドレスサマー号での航海となった。TTs、ボロス、フレームボールズ、ジェリー・ベイビーズなどなど、ほとんどサーフされたことがないポイントのブレークを満喫した。
The Endless Baptism of Freshly Created Things

「新たな創造物の終わりなき洗礼」
南米での新たなポイントブレークとボードデザインの探求、そして不思議な体験。
文:リチャード・ケンビン
写真:ブライアン・ビールマン
サーフボードの展覧会などで、忙しい日々を過ごしていたリチャード・ケンビンは、映像制作者ライアン・トーマスやライアン・バーチ、オジー・ライト、それにネイト・タイラーらと合流するため、南米行きのフライトに乗るはずだったが、飛行機が発つ18時間前に父親が他界してしまった。しかし、これはこれから起こる数々の奇想天外な物語のはじまりにすぎなかった。典型的なラテンアメリカ文学の様式として知られるマジカル・リアリズムを作風にする作家イサベル・アジェンデはこう述べる。「私たちのまわりにはミステリーが潜んでいます。だから私の書く物語には、偶然や兆候、情緒、幻想、自然のパワー、それに魔術などが登場するのです」



The High Priest of Uluwatu
「バリ島ウルワツの高僧」
ヒンズー教の高僧にして、プロサーファーのメガ・サマディという男。
文:トミー・シュルツ
サーフィンブームによってバリ島の南部の半島が東南アジアで最高値の不動産エリアに変貌(へんぼう)する以前、この土地はほとんどなんの値打ちもない場所と考えられていた。それがどうだろう、いまや爆発的な観光産業と開発によって、バリ島はおそろしいほど急激な成長をとげた。過度の開発や公害によって、この島本来のアイデンティティを喪失(そうしつ)してしまうのではと危惧(きぐ)する人々が多い。しかし、そもそもこの土地の文化の根底には再生、輪廻(りんね)という言葉がしっかりと刻まれている。次の世代の人々は、伝説的な島の過去から未来へ橋渡しをして、その遺産をしっかりと保存する道を模索(もさく)している。その鍵を握っているのが、ヒンズー教の僧侶であり、波の上を自在に駆けるプロサーファーでもあるメガ・サマディという男だ。


Triple X
「トリプルX」
昨年公開の映画『Expencive Porno Movie(エクスペンシブ・ポルノ・ムービー)』から、絵になる瞬間の数々。


Breaking The Mold
「殻(から)を破る」
時代の先頭を走ったひとりの日本人女子ボディーボーダーのストーリー。
文 : 内田 美智子
10代のころ、茶道、華道に踊りといった習い事で日本女性を磨いていた内田美智子はOLの生活をつづけながら、サーファーの彼氏に連れられて海に通っていた。そんなある日トム・モーレイによって商品化され、“ブギーボード”という名前で売りだされたボディーボードを手に入れる。このボディーボードと出会い、海に魅せられていく様(さま)が彼女の文章で綴(つづ)られている。彼女は、ボディーボードで日本一になるために「人の倍では足りないから3倍努力しようと思い、朝は夜明けとともに海に入り、夕方もだれよりも遅くまで海にいる」生活を送り、まさに“Breaking The Mold”、殻を破ってフリッパーへと変貌(へんぼう)をとげていった。


The Islands Underfoot
「ザ・アイランド・アンダーフット」
ハワイアン・サーフィンに触発された5本のサーフボード物語。
文:ベン・モンディ
ハワイにはサーフボードがあふれている。ずいぶんと古いものもあれば、生まれてたった数時間のものまでさまざまだ。新たにつくられるボードもあれば、壊されるボードもある。ガレージに転がっているもの、ぼろぼろのトラックの後ろに積まれているもの。ラックに整然と並べられているものや壁に飾られているものもあれば、ゴミ捨て場に立てかけられているものもある。どんなサーフボードも、だれかの手によってだれかのためにつくられる。けれど、その運命はじつに多様だ。宝物のように大切にされるか、捨てられるか、忘れ去られるか、ひどい扱いを受けるか。それでも、語るに足る物語をもっているサーフボードはあるものだ。これから紹介する5本のサーフボードは、どれも興味深い歴史をもっている。持ち主の人生のみならず、サーフィンそのものの流れをも変えてしまったものさえあるのだから。


Godzilla Death Spin
「ゴジラ、死のスピン」
日本の秘境にモンスターサーフを追いかけた、台風とハブ酒の旅。
文:コール・クリステンセン
初めて訪れた日本の秘境にブレークするモンスターサーフと日本の文化とおもてなしをを堪能したコール・クリステンセンが綴る日本で学んだこととは…。


The Mariner
「船乗り」
コルテス・バンクの先駆者、ハリソン・イーリーの航海の記憶。
文:クリス・ディクソン
ディーン・カールソンやフィル・エドワーズ、ミッキー・ムニョス、フリッピー・ホフマンなど、おおぜいのレジェンドたちと親交をもつ海の冒険家、コルテス・バンクを初めてサーフしたハリソン・イーリーの半生。


Straight Back to The Cuckoo’s Nest
「カッコーの巣へ逆戻り」
南太平洋上の精神科病棟。
文:マット・ロット
南太平洋のとある島でのサーフィンに魅せられたひとりの男と、ある精神科病棟で療養する男から送られた、まっすぐにしか進めない奇妙なサーフボードの物語。


Real Time
The photography of Jeremiah Klein
「リアルタイム」
ジェレマイア・クレインの偏在(へんざい)する肖像。
文:マーカス・サンダーズ
サーファーのウェブサイト、「サーフライン」で働くサーフ・フォトグラファー、ジェレマイア・クレインのポートフォリオ。
TSJJ5.1号
コンテンツ

The Man From The Year 2000
「西暦2000年からやってきた男」
スタント・パイロット、ディオン・アジウス
文:ジェド・スミス
21世紀に入っておそらく初めて登場した真のモダンサーファーであるディオン・アジウスはタスマニア島沿岸部で育った。その後、ゴールドコーストで10代を過ごしたディオンは運よく、サーフムービー製作で若くして才能を開花させたカイ・ネビルと親交をもつようになった。彼はプロをめざし、アーリーウープなどの空中技を確実にメイクし、他を凌駕したが、WQSでスコアを伸ばせないまま、ディオンのプロサーファーとしてのキャリアはスタートを切る以前に埋没してしまう。プロの道をあきらめたディオンはカイの”ロケ”にに同行し、撮影監督の道を志した。そして、28歳に達した今、自らその人間形成の一翼を担った『すばらしい新世界』とむきあう。

California Scene Paintings(1930-1970)
「カリフォルニア・シーン・ペインティング1930-1970」
太陽降りそそぐカリフォルニアのヴィンテージ・サーフアート
文:ゴードン・T・マクレランド
太陽が輝くカリフォルニアは、1850年に州となる以前から開拓者たちにとって人気の場所だった。南カリフォルニアの亜熱帯気候と最高にうつくしい光。とくに屋外で絵を描くのが好きなアーティストたちにとってはぴったりの場所で、やがて、カリフォルニア・シーン・ペインティングとよばれるジャンルが登場し、これは、この地の日常を水彩と油彩で描いたものをさすようになった。そして金鉱採掘のキャンプやダウンタウンのストリートシーン、郊外の農民たちの風景やビーチカルチャーなどが格好の対象となった。

Seeing Fatima’s Eyes
「ファティマの目を見つめる」
トーマス・キャンベルによるモロッコの旅の記録
ここに紹介する写真を撮ったフォトグラファーにとって、モロッコはつねに愛すべき場所、というわけではなかった。1991年、2か月半の滞在となった初めてのモロッコでは、言葉が通じないときに必要なスキルをいかに伸ばすかを学んだ。モロッコでは盗みと押し売りが日常茶飯事で、もちろん彼もそれに遭遇し、なんとか阻止したこともあれば、やられることもあった。彼はモロッコで皇太子から敬意を表され、国営放送に出演し、地中海気候のポイントで波に乗った。アートと世界旅行への入門としては、23歳にして幸先のよいスタートを切ったといえるだろう。以来、彼はこの地を10回以上訪れている。キャンベルが最初にこの地に降り立ったころ、モロッコはすでにサーファーの目に止まりはじめていた。ここはヨーロッパの人気スポットへとつづく南端のターミナルだ。9月のフランス、10月のスペイン、11月のポルトガル、そして大西洋を低気圧が通過する季節には、モロッコのタガズーが待っている。‘60年代後半、ポール・ウィッツグがここでウェイン・リンチとナット・ヤングを撮影して以来、モロッコ熱は今日までずっとつづいているのだ。

A Lousy Slave
「ダメな奴隷(どれい)。ピーター・シュロフに会ったかい?」
時代の先を走るトリックスター、ピーター・シュロフ
文 : ジェミー・ブリシック
前衛芸術家として、シェーパー、そしてパフォーマーとして、1980年代にエコービーチから華々しく登場したピーター・シュロフ。彼はあきらかに時代の先を走っていた。そして30年経ったいまも、彼はあのころと変わらぬトリックスターだ。

Every Clouds Has a Silver Lining
「ひとひらの波」
うつくしき自然と豊饒の海、在りし日の東北の思い出。
文・写真:鴨治 淳子
あまりにも多くのものが失われた東日本大震災から4年が経ったいまも、いまだに多くの命が失われた海に入っていいのかと葛藤(かっとう)する者、海に戻ろうとする者、子供のころから慣れ親しんだポイントの変わりはてた姿がショックで戻れない者、放射能を恐れて波乗りを辞めてしまった者、サーファーのあいだでもいろんな意見がぶつかり合って、それぞれのこころに残った傷がけっして浅くないことを思いしらされる。
 Every clouds has a silver lining=どんな雲にも光があたる場所がある。どんな絶望のなかにも、光はさす。そして、その光は、わたしたちひとりひとりの考えや生き方のなかにそそがれる、ひとひらの波のように…

Cote Sauvage
「孤独な島、ベルイル島」

サーフィンを愛する作家の住む島、ベルイル島
文:ドン・ワレス
月のない闇夜に動きの速いスコールの雨雲。やがて孤島がうっすらと見えてきた。古びたディーゼル式フェリー、ゲロバー号が大きなうねりを乗り越え、波の反対側につき落とされるたびに、巨大な緑色の水の壁が船のデッキを打ちつける。ぼくたちはその狭間に一瞬見えるかもしれないホテルや屋外カフェの灯など、なにか人の気配を感じさせてくれる景観に飢えていたが、確認できるのは港に横たわる巨大な防波堤に設置された数個の航路標識の点滅する光のみ…


Tales From Punnanjar
「プナンジャール紀行」
熱帯雨、タイヤのパンク、泥だらけの道、そして思いもよらなかったインドネシア太平洋岸の完璧な波。
文:エミリアーノ・カタルディ
写真家のジョン・キャラハンをともなって筆者のエミリアーノ・カタルディたちはインドネシアの奥深くにバージンウエーブを求めて分け入った。そこで体験した彼らの熱帯のマジックとは…

Those Many Unmarked Miles
「道の終わりの向こう側」
ポートフォリオ:ジェレミー・コレスキー
写真家ジェレミー・コレスキーとブリティッシュコロンビア沿岸。
文:マルコム・ジョンソン
ジェレミーが捉えるワイルドな場所や生き物たちの姿は、誓いと可能性とを与えてくれる。完璧な波に彩られた雄大で神秘的な海と、そこに生きる壮大でありながら人間に翻弄される生き物たち。世界はここにあり、彼の写真はそれを語るように伝える。かつての、そして現在の、うつくしい世界の姿は、ふたたびその姿を取り戻せることを教えてくれる。もしも、ブリティッシュコロンビアの海岸線のありのままの自然が守られていくのであれば、きっと、ジェレミーの写真に刺激をうけた人たちが大きな役割を果たすことだろう。アーティストであり作家でもあったエミリー・カーが記したように、「地球には継ぎ目などない。私たちはひとつの繋がりである」からなのだ。
2,090円
Generation Slab
「スラブ・ジェネレーション」
巨大波に魅せられたラッセル・ビャークの日々。
文:ジェド・スミス
ビッグウエーバーでありシェーパーでもある父親カーク・ビャークに連れられて、寒さ厳しいオーストラリア南部奥深くのスラブ(巨大波)に挑戦したのは弱冠12歳のとき。以来、ラッセル・ビャークはこの国でもっとも恐れられているリーフ波を果敢にアタックしつづけている。これがノーマルな16歳の少年の行動といえようか?

Portfolio | Bob Weeks
「ポートファリオ、ボブ・ウィークス」
発掘された黎明期(れいめいき)のオーストラリアサーフィンの記録。
文:アンドリュー・クロケット
オーストラリアのサーフィン文化を語るうえで、ゴールデンエラとされた時代が存在した。その時期は、ファイバーグラス製のロングボードが登場した1960年代初期から‘70年代のショーボードの時代まで。レトロな車がビーチに並び、そばかすだらけの若者たちが自由奔放(ほんぽう)なスタイルで波と戯(たわむ)れる、そんな時代だ。この世代は行動的で、新しいポイントブレークを探し求めていた。そんなオーストラリアサーフィン黎明期のを記録したのが、ボブ・ウィークスだ。彼はカメラとともに旅をし、サーファーたちのすばらしい時代をフィルムに焼きつけたが、当時の雑誌に売ることはしなかった。その結果、50年という時(とき)を経て作品は熟成され、1961年から1966年までのオーストラリアの東海岸を語るにじゅうぶんな作品となった。

Forty Percent More Fun
「楽しさ40%増」
フィルムメーカー、グレッグ・マクギリバリーとの団欒(だんらん)。
文:テッド・レッカス
ラグナビーチのビーチフロントの家に住むフィルムメーカー、グレッグ・マクギリバリーは、マクギリバリー・フリーマン・フィルム(MFF)の創業者。そのMFFの代表作といえば、サーフィン映画の金字塔ともいえる『ファイブ・サマー・ストーリーズ』だ。その彼が、今はなき相棒のジム・フリーマンの思い出やIMAX映画の名作、有人飛行の歴史を辿った『トゥ・フライ』などを語った。

From East To West
「東部から西部へ」
マイク・タベリングの邪悪なまわり道。
文 : ポール・ホルムズ
アメリカ、イーストコーストを代表するサーファーのマイク・タベリングは、若いころ麻薬の売買に手をそめていたことを白状する。それは、まだプロサーフィンツアーの運営も円滑(えんかつ)ではなく、スポンサーの数もじゅうぶんではなかったあの‘70年代、遊牧民(ノマド)サーファーたちのなかにはあえて禁制品の密輸行為に手を染め、旅費を捻出する者たちがいたことは、ある種、公然の秘密だった。そして彼もまた…。

Vah Beach
「バー・ビーチ」
大西洋のうねりが押し寄せるイーストコースト、バー・ビーチ。
文:スチュワート・フィアビー
100年以上にもわたってバージニアビーチで波を追い求め、それに乗り、大西洋のもたらすエネルギーを1mmたりとも逃さないというスタンスでライフスタイルを築きあげてきたイーストコーストのローカルたちのストーリー。


You Crazy Diamonds
「クレイジー・ダイアモンド」
『エコーズ』、ピンク・フロイドとジョージ・グリノーの夢の共演。
文:ブライアン・チャイルドスター
「アートこそが人生をつくりあげる」。19世紀末の英国系アメリカ人作家、ヘンリー・ジェイムズが、作家仲間のハーバート・ジョージ・ウェルズに宛てた手紙に、そんな一節があった。それから70年後。若きフィルムメーカー、ジョージ・グリノーが捉えた海の映像は、時を越えてその言葉を体現してみせた。そう、サーファーだけに可能な方法で。1972年に発表された彼の実験的なショートフィルムは『エコーズ』と名づけられた。サーフシネマの金字塔であるこの作品は、チューブの深い部分から捉えられた幻想的な映像とあの伝説のサイケデリックバンド、ピンク・フロイドが音楽を提供した唯一のサーフドキュメンタリーとして、今も語り継がれている。

Coastal Erosion
「サーファーという絶滅危惧種」
生物学者から見る、海岸侵食という環境破壊と生態系への影響
文:森下茂男、監修:清野聡子
現在、日本の海岸は砂の減少により、年間1.6平方km(160ha=東京ディズニーランド3個分)も失われており、このままいくと地球温暖化もあわせると50年後には日本にある海岸の80%が海岸侵食によって失われるという。この海岸侵食という環境破壊と生態系への影響について、生物学者の九州大学大学院准教授、清野聡子先生が解説する。

Path of the Jimmicane
「ジミーケンの道」
その高い技術、その最高なアクションへのフォーカス、その大きな人柄…、
写真家ジム・ウィルソンの世界。
文:テイラー・ポール
写真家ジム・ウィルソンが写真家を志すきっかけとなったのは14歳のころ。サーフビデオの映像をコマ送りしていちばんの静止画像を探しだしたという。彼は自分で選んだいちばんの静止画のような写真を撮ることをいつも想い描いていた。有名サーファーの最高の一瞬を捉えた写真が雑誌に掲載されるのだ。そんな彼の夢がかなうのに時間はかからなかった…。
2,090円
Nuclear Family
ホフマン家とフレッチャー家の系譜(けいふ)
文:スティーヴ・バリロッティ
ザ・サーファーズ・ジャーナルはじまって以来の超大型企画、4世代にわたるサーフィン・パワーハウスを維持してきたホフマン家とフレッチャー家を、その人物像をフィーチャーしながら、その系譜をひも解く。

Batik with Chili Pepper Crab
マリブとビッグマカハのパイオニア、ウォルター・ホフマン
文:ティム・ワッツ
ホフマン家の次男、ウォルター・ホフマンは、長男フリッピーとともにサーフィンをはじめ、大波を求めてハワイにわたる。その後、ホフマン・カリフォルニア・ファブリックス社を創業した父親ルーブ・ホフマンの後を継ぎ、社長となり、サーフィン市場で揺るぎない地位を築いた。ウォルターのサーフィン&ダイビング仲間であるカリフォルニア州カーメル出身の筆者ティム・ワッツは、1980年代初頭、バリ島にろうけつ染めの工場をつくり、ホフマン・カリフォルニア・ファブリックス社とビジネスをおこなった。

Sui Generis
唯一無二の世界チャンピオン、ジョイス・ホフマン
文:コリ・シューマッハ
ウォルター・ホフマンの娘、ジョイス・ホフマンは、1964年、17歳でマカハ・インターナショナル・チャンピオンシップの女性部門で優勝し、世界の表舞台へと飛びだした。その後、1966年にも同大会で優勝したジョイスは圧倒的な強さで、オーシャンビーチで予定されていたシーズン最後のイベントが終了する前に、ワールドサーフィン・チャンピオンシップ2回目の優勝を決めた。こうして魅力的でほどよく筋肉のついた小麦色のジョイス・ホフマンは、世界ナンバーワンの女性サーファーとして『ライフマガジン』、『セブンティーン』、『ティーン』、『ヴォーグ』、『スポーツイラストレーテッド』といった雑誌、そしてABC-TVの番組『ワイドワールドスポーツ』などに登場、プロサーファーというイメージをつくりあげた。

“Shitty but Good”
輝かしくかつ傑出(けっしゅつ)したウォーターマン、フリッピー・ホフマン物語
文:スティーブ・ペズマン
ルーブ・ホフマンの長男フリッピーは高校卒業後、急成長していた父親の仕事には加わらず、アワビ漁のダイバーとして働く道を選んだ。1948年、一足先にハワイにわたった弟のウォルターは兄に写真を送る。そのモノクロの写真には、弟やバジー・トレント、ジョージ・ダウニング、ウォリー・フロイセス、そしてウッディ・ブラウンたちが、いままで見たこともないようなマカハのビッグウェーブをサーフする様子が捉えられていた。すぐにフリッピーは飛行機に乗ると、バジーやシモンズ、そしてウォルターたちが住むワイアナエのかまぼこ型の兵舎に合流し、マカハの波をサーフする道を選ぶ。さらに未知の世界だったノースショアにもむかい、ラニアケアのようなバージンウェーブをサーフする。1950年代後半、ついにフリッピーはファミリー・ビジネスに参加。‘60年代後半にはこのふたりの若い青年たちがホフマン・ファブリックスを受け継ぐことになり、ザ・サーフウェアのビジネスがスタート、30年にわたる好景気がこの兄弟を潤わせることになる。

There Are No Sharks
知られざるビッグウェーバー、マーティ・ホフマン
文:スティーヴ・バリロッティ
フリッピー・ホフマンの長男マーティは、ハップ・ジェイコブス、デール・ベルジーやグラビー・クラークなど、いわゆるサーフセレブたちにかこまれて育った影響で、6歳で波乗りを覚え、8歳のころにはサンオノフレのサーフィンコンテストに出場するまでになっていた。その後、WSA、NSSAに出場するコンテストサーファーとして成長をとげ、1980年にはフランスでおこなわれた世界選手権に米国チームの一員として、トム・カレンなどとともに出場し、プロサーフィン大会をフォローするまでになる。当時、パイプラインの目の前に小さな家を借りていたフリッピーは、息子マーティを修行のためにノースショアに呼び寄せ、ビッグウェーバーとしてキャリアを積ませる。しかし、“甘やかされたわがままなサーフィン王子”というレッテルを貼られた彼は、プロとしての短いキャリア(1982~‘83)のなかでは、一貫していい成績が収められなかったが、企業家として成長していくこととなる。


Spearhead
ダウンレールからアップタウンまでを駆け抜けた、ハービー・フレッチャーの尖った生きざま
文:ルイス・サミュエルズ
ウォルター・ホフマンの次女ディビィと結婚し、サーフセレブの仲間入りをはたしたハービー・フレッチャーのサーフキャリアはサーフセレブたちと肩を並べるにじゅうぶんな実績を誇る。10代のころにはクレイ・ウィールの付いたハンドメイドのスケートボードに乗り、プールの壁をバーティカルに攻めた。また、ショートボード革命の扇動者のなかには名前が挙がらないものの、彼はマイク・ヒンソンのコンセプトを組み込み、そのボードをどんどん短くしていった。1960年代の後半にはノースショアで暮らし、ショートボードの聖地バックドアとパイプラインを攻めた。ブレークスルーはまだつづく。1972年には、サーフィンにジェットスキーを取り入れるアイデアをはじめて試すこととなる。そして、アストロデッキの発明、ロングボードの再来を後押しすることとなる。

Woman in the Workplace
仕事場の女、ミセス・アストロデッキ
文:ディビィ・フレッチャー
マーティ・ホフマンの娘として、またジョイス・ホフマンの妹として育ったディビィは、ハービー・フレッチャーと結婚し、クリスチャンとネイサンのふたりのサーファーの母親として、またアストロデッキを切り盛りするキャリアウーマンとして、サーファーではない女性として、サーフィン界でもっとも有名な女性だ。

Dragged into the Daylight
クリスチャン・フレッチャー名言集
文:マット・ワーショー
ハービー・フレッチャーの長男として生まれたクリスチャンは、当然小さいころからサーフィンの英才教育を受けて育ってきた。そして、弱冠(じゃっかん)19歳のときにはロワーズでおこなわれたPSAAの大会で優勝し、優勝賞金3万ドルを手にした。順調にプロサーファーへの道を歩むはずだったクリスチャンは、ドラッグ問題やその明け透けな発言によってその道が絶たれた。その反乱パフォーマンス・アーティスト、クリスチャンを世に送りだした張本人がマット・ワーショーだ。その彼が記録したクリスチャン・フレッチャーのかずかずの名言集だ。

Sick
グレイソン・フレッチャーによるサーフィンvs.スケートボード
インタビュアー:ジョン・ジョン・フローレンス
次世代のエース、ジョン・ジョン・フローレンスとグレイソン・フレッチャーが、ボードスポーツのこと、セッションをコントロールすること、そして人生を論ずる。

Steeped in the Brew
醸成(じょうせい)された個性、ネイサン・フレッチャー、サーフボードを語る。
文:クリスチャン・ビーミッシュ
フレッチャー家にあって、クリスチャンだけがなにかとクローズアップされてきていたが、最近、遅咲きのネイサン・フレッチャーはビッグウェーバーとして名を馳(は)せている。そして、アウターリーフのスラブ波に持ち込んだのが12フィートもあるクアッドのサーフボードで、4フィンはいまやビッグウェーバーの定番となった。

Interview
クリスチャン・フレッチャー
“When I did an air it didn’t count. Now if you don’t do air you don’t count”
「かつて、エアーをやっても認められなかった。いまや、エアーをやらなければ認められない」
インタビュアー:ジョージ・カックル
2014年の晩夏、クリスチャン・フレッチャーが西岡昌典の葬儀に参加するために来日した。私たちはちょうどTSJ本誌「ホフマン家とフレッチャー家の系譜」の翻訳編集中で、その内容をふまえたうえで彼にインタビューするという絶好の機会を得た。それはクリスチャンと仲がよかった西岡が私たちに彼を再度引き合わせてくれた、イキなはからいだったのかもしれない。
2,090円
内容:
Boxing The Compass
孵化(ふか)待ち
海では華麗(かれい)なジャレッド・メル。だが陸(おか)での彼は?
さしずめ、ただいま準備中といったところだろうか。
文:ネイザン・マイヤース
ジャレッド・メルを襲うかずかずの不運。それを助けたのはアレックス・ノストだ。ジャレッドにとってじつの兄弟のような存在のアレックスは、シューゲイザー革命の黄金神、ミスフィット救世主とでもたとえられる、憧れの存在でもある親友だ。出会いはメルが14歳のとき。当時、ニューポートのブラッキーズを本拠地にしていたサーフチームのメンバーとハングアウトしたくて、アメフトの練習をサボったのがきっかけだった。

The Land of the Nauset
ノーセット族の地
ケープコッドでサーフィンするメリットとは…、風変わりなケープコッドのサーフィンライフ・ガイド。
文:イーサン・スチュワート

God and Ben
神さまとベン・アイパ
文:サム・ジョージ
本号最大、22ページにもおよぶ大特集が、サム・ジョージの手によるベン・アイパ・ストーリーだ。日本でも数多くのファンがいるシェーパー、ベン・アイパだが、いままでメディアでは断片的に取りあげられても、彼の業績に対して正当な評価を受けてこなかった。今回、ベン・アイパの出自(しゅつじ)から現在にいたるまで、すべての彼の業績について貴重な写真とともに語られている。今回のタイトルともなったその書き出しを紹介しよう。
2005年、ベサニー・ハミルトンはサメに襲われ左腕を失ったわずか24ヵ月後に、NSSA主催の全米選手権エクスプローラークラスで優勝を飾った。この再起の物語は、サーフィン史に残る偉業となる。ベサニーはカウアイ島出身のグーフィーフッターで、当時15歳。内気な彼女は、家族やそのほか大勢の友人にむけた優勝のスピーチで、簡潔にこう言った。
「神さまとベン・アイパに感謝します」

Tokyo Surfer’s Graffiti
東京サーフグラフィティ
文:トチ佐藤
‘70年代の東京。高度成長真っ只中の時代に、破天荒(はてんこう)な青春時代を駈けぬけたサーファーたちがいた。現在スノーボード界を中心にアクション・フォトグラファーとして活躍するトチ佐藤も、そんなサーファーたちのひとりだった。これは、そんなトチが自らの記憶を辿りながら記した、お洒落でやんちゃで、そしてちょっぴり恥ずかしい、東京サーファーたちのとっておきの物語だ。

Giving Slaps
殴りあう
絵:ロン・クロッチ
サーフシーンにおいて見かけるかずかずのトラブル、波の取りあいやサーファー同士のケンカを、ロン・クロッチが水彩画で再現した。

Racking Focus
望遠レンズの達人
マクギリバリー・フリーマン・フィルムの『フリー・アンド・イージー』や『忘れられたサントシャ島』など、かずかずのサーフィン映画シーンで、望遠レンズからとらえたスパイダー・ウィルスの研ぎすまされた映画撮影技術は、ハリウッドでも注目された。そして、今、デジタルが主流のサーフィン映画のなかにあっても、ラグナの重鎮スパイダーは、いまも自分の流儀にこだわり毅然(きぜん)と自らの興味を追究しつづけている。
文:ケビン・オサリバン
写真:アート・ブリューワー

Portfolio: Damien Poullenot
ポートフォリオ:ダミアン・プレノ
今号のポートフォリオはフランス版TSJで掲載されたフランスの写真家、ダミアン・プレノだ。彼はおなじフランスの写真家ローレン・マスレルとともに “アクアショット”という事務所を立ちあげた。フランスの『サーフ・セッション』誌の編集長ジュリアン・ローランドの言葉を借りると、ダミアンは「崇高で気高い海の中のワンシーンをキャプチャーし、高貴な芸術へと昇華した作品を見せてくれる」。ボディーボーダーでもある彼は、病的にヤバいリップの表情も記録してきた。

Form Ball Satori
バリのチューブマスター
地球上でもっともチューブに入った男、パブロ・ミラー。
インタビュー:レオ・マクザム
写真:ネイト・ローレンス
インドネシアでもっとも長いチューブを見下ろす丘の頂上をめざして歩いていく。地球上でもっともチューブに入った男、つまりは僕にとっての仏陀(ぶっだ)に会うためだ。4分の1世紀のあいだ、ただひたすらチューブを求め、なにもない海岸線で数か月間にわたるテント生活をいくども送ってきた。すべては、この奇蹟の海岸線にやってくるすばらしいうねりと戯(たわむ)れるため。ニルヴァーナと崩壊とが完璧なバランスを織りなす、青い地球の子宮の渦の中で過ごした、数え切れない深い瞑想(めいそう)の時間…。
2,090円
Backyard Compositions
「裏庭からの構図」
ライアン・クレーグの写真は裏庭からはじまる。
文:ボー・フレミスター
今号のポートフォリオは、ボディーボーダーでもある写真家、ライアン・クレーグ。彼のこだわりは景観を構成する要素を上手に取り入れた構図にある。メインの被写体であるサーファーや波と同じように、そこにいる見知らぬ人物や偶然通りかかった漁師、または歴史的背景などを作品に組み込んでいく。それは、彼は単にどこかの国の波を知ってもらいたいからではなく、それによってその国そのものを理解してもらいたいからだ。



Directional Shift
「転換期」
かつて競い合っていたライバルたちが、いま邂逅(かいこう)する。トム・カレン(USA)、マーク・オキルーポ(AUS)、ゲーリー・エルカートン(AUS)のインドネシアでの再会のボート・トリップ。
文:デビッド・スパーカー

Priboy, Tovarishch!
「サーフ・コムラード(波乗り同志)!」
ただいまバリ島で進行中、ロシアとインドネシアの微妙な関係。
文:マリア・アーネスト
最近、バリで目立ちはじめているのがロシア人サーファーなのだ。鼻毛も凍る寒い地から来た彼らはどうもビーチカルチャーに疎(うと)く、なにかとバリニーズとトラブルになっているという。そんな最近のバリの風物詩、ミスマッチなファッションセンスのサーフ・コムラード、ロシア人サーファー現象をマリア・アーネストが絶妙な筆致(ひっち)で描く。

Little Pot Blues
「リトル・ポット・ブルース」
鎌倉の隠れ里で密かに割れる、ブルーズな波に想いを馳(は)せる。
文:ジョージ・カックル
写真:李リョウ
サーフィン誌に逗子のシークレットとして紹介される大崎、そして逗子マリーナの鎌倉側の沖で割れるカブネ。サーフィンのメッカ、湘南・鎌倉の一角にある小坪はその交通の便の悪さもあって鎌倉の隠れ里とも呼ばれている。そんな小坪のサーフポイントをザ・サーファーズ・ジャーナル日本版として初めて取りあげたアーティクルだ。ライターは、かつてサンフランシスコ・フォートポイントのヘビーローカルだったジョージ・カックル、いまでは自ら大崎のローカルとして想いを込めて書きあげた力作だ。タイトルの「リトル・ポット・ブルース」は小坪シローの曲のタイトルでもある。

Sensitized
「波乗り島の憂鬱(ゆううつ)」
モルディブのトップクラスのリゾートは、けっしてサーファー向けではないが、ローカルやゲスト以外のサーファーを排除することなく、地元のコミュニティにも恩恵を還元する。そんなリゾート“シックスセンス”になにか学ぶことはあるだろうか?
写真・文:ジェフ・ラガーツ

Redacted
「封印された特殊任務」
機密扱いだったブラー教官の冒険
文:ピーター・マグワイア
サーフィン界でもっとも危険な男と揶揄(やゆ)されるイヴァン・トレントは、あの伝説のサーファー、グッドウィン“バジー”トレントの息子。物静かで、巻き髪を持つ54歳のその男は、ハワイのカフナのような風貌(ふうぼう)に、パシュトゥン族(アフガニスタン最大の民族)の長老のような髭(ひげ)をたくわえている。身体は元気そのもので、いまでも4マイルの距離をきっちり28分で走り切る。マカハで生まれ育ったイヴァン・トレントは、そこで随一のサーフチーム、「マカハ・スクリーマーズ」の一員として迎えられたうえ、ワイメアベイの常連サーファーとなり、アウトサイド・ログキャビンズに挑んだ最初のサーファーのひとりとなった。とはいえ、米海軍特殊部隊ネイビーシールズの隊長が水中で成しとげてきた偉業が、ユーチューブに配信されることはない。おそらく彼が他界してからも長いこと機密扱いのままだろう。トレントのもつ価値観は、現代のアメリカよりも、古代ギリシアのシュッシティアやローマ軍のそれに近い。「人生には不平等なんて存在しない。置かれた状況にどう対処するか。あるのは、それだけだ」

Anatomy Of A Surf Fink
「サーフフィンク(‘60年代に登場したキャラクター)誕生秘話」
永遠のサーフアニメ、“マーフィー”
文:ブライアン・チェデスター
アメリカ・サーフィン界の伝説のアーチスト、リック・グリフィンとUS『サーファー』誌の発行・編集人であるジョン・セバーソンとの出会いによってサーフフィンク、“マーフィー”が生まれた。リック・グリフィンによってつくり出されたキャラクター“マーフィー”、その誕生の秘話とリック・グリフィンの生涯に迫る。

The Ecstasy of Invention
「発明する悦び」
ボードデザイン界の奇才、トム・モーレイとサーフボード・デザインを歴史的に再検証する。
語り:トム・モーレイ

The Life and Deaths of Allan Byrne
「アラン・バーン、その生と死」
もっとも優れたニュージーランド人、アラン・バーンの驚くべき物語。
文:マット・ジョージ
だれよりもサーフボードのスピード、”ベロシティーエラ(速度の時代)”を追求したシェーパー、アラン・バーンは一時シェーパーを辞めて宇宙飛行士をめざすことになる。そしてふたたび海に戻ったアラン・バーンは、航空工学を応用した自身のブランド“バーニング・スピアーズ”、7‘4“チャンネルボトムを駆ってパイプライン・マスターズに出場し、決勝に進む。アラン・バーン、32歳のときだ。そして、生涯を閉じる62歳まで、人生を賭して「スピードの拡張」を追求しつづけた。速度こそがつねに絶対。それが彼の人生だった。
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