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ザ・サーファーズ・ジャーナル日本版 発売日・バックナンバー

全91件中 46 〜 60 件を表示
<フィーチャーストーリー>
今号の日本版のオリジナルコンテンツは、1978年に故村瀬勝宏(以下エへ/1955-2007)とカメラマンの芝田満之がメキシコへ旅した道中記だ。1970年代後半、日本でも「知らない土地の知らない波に乗る」というディープなサーフトリップがはじまっていた。このサーフィン・カルチャーともいえるワイルドなサーフトリップはアメリカからはじまっていた。その醍醐味を1971年にメキシコなど中南米を旅したケビン・ニュートンは語っていた。「リスクと恩恵がつきまとった初期のサーフトリップは、カネより幸運に頼るしかなかった。正確な気象予報もサーフリゾートもない時代だ。でも、未知の波を求めて道なき道を行くそのフィーリングは、プライスレスのすばらしさだった。この時代のサーファーたちは噂だけを頼りにメキシコやヨーロッパ、そしてインドネシアへと旅立っていったんだから。後年、その無謀な行動は、その愚かさそっちのけで、栄光のサバイバル・ストーリーとして受け継がれていった」。エへと芝田もまた困難なメキシコの旅を通して、カルチャーショックにも触れ、バスの中ではウェットスーツを着たり、ローカルたちに石を投げられたり、サメの海に連れていかれるなどのさまざまなハプニングに満ちた体験をして、まわりのサーファーたちのヒーローになったのだが、それは、まさにその時代のサーファーという種族の文化そのものであったといえよう。

Tequila Sunrise, Tequila Sunset
「エへの旅立ち」
1978年、ふたりの日本人がメキシコのとある浜辺にたどり着いた。カリフォルニアのエンシニータスを出て1週間が経っていた。日本から直線距離でおよそ12,000km、そこはあの伝説ともなったペタカルコだった。
文:森下茂男
1978年10月、サーフィンカメラマンという職業を選んだばかりのサーフ・フリーク、芝田満之は、伊勢在住のサーフィン仲間で飲み友達の村瀬勝宏(以下、エへ)を誘って、カリフォルニアへと向かった。この旅に出る前、芝田にはある計画があった。「アメリカの『サーフィン』誌に「カモン、ルーキー」みたいなコーナーがあって、アーロン・チャングが撮影したブライアン・バークレーのすごい写真が載っていたんだ。キャプションにはメキシコって書いてあったけど、そこは当時注目のサープポイント、プエルト・エスコンディドだった。メキシコにもこんな波があるんだって、そのとき初めて知ったんだ。ぼくはそれまでああいう波が立つ場所はパイプラインしか知らなかったし、ジェリー・ロペスしか知らない時代に、アーロン・チャングがどでかいチューブに入っているブライアン・バークレーの写真を撮っているって、ぼくにとっては衝撃的なことだった。その写真がぼくの脳裏にすり込まれていて、そこへ行きたくてしょうがなかった」

つづいてのストーリーは、アート・ブルーワーみずから、お気に入りの写真からさらにふるいにかけた珠玉の写真の数々を掲載した「OFFERINGS(捧げ物)」だ。アート自身のキャプションと、当時、米『サーファー』誌でフォト・ラングラー(彼の補佐官)としてアートに仕えた新人編集員だったスティーブ・バリオッテイの文章で綴るフォトエッセイに仕上げている。
OFFERINGS
「捧げ物」
アート・ブルーワーの一期一会。
文:スティーブ・バリオッテイ
写真:アート・ブルーワー
あれは1992年だった。私たちはオークランドから1300海里の洋上にあるSSルーライン号の船尾にいて、ジョイントを吸っていた。不意に私はアート・ブルーワーを知ることがどんなに尊いものかという気持ちになった。もちろんアート・ブルーワーのことはすでに知っている。私が初めて米『サーファー』誌を手にした1975年の1冊にはすでにそのフォトクレジットがあった。ときどき掲載される彼の風景写真もスパイスが効き、雑誌の構成に有効な役割を果たしていた。

CLARE IN HIS BLOOD
「クレアの誓い」
トム・ロウ:ブリティッシュの島々が生んだワールドクラスのビッグウェーバー。
文:ダニエル・クローク
大西洋の端っこにコンパクトに凝縮したタマネギみたいな低気圧が回転し、そのビッグデーがはじまるまでの1週間は、どこもグッドウェーブに恵まれた。世界中でホットラインがうるさく鳴り響いていた。シェーン・ドリアンまでが飛行機に乗ってやってきていた。波を予測するとそのスケールとエネルギーは飛び抜けていて、まるで別の領域に足を踏み入れたかのようだった。そこは頂上から見るかぎりはビッグウェーブ・ポイントではなかった。緑の円形競技場というのがふさわしい。ここはトム・ロウが経験を積んだ場所。素人目に見ても、ここの波にはふたつの異なったテイクオフ・スポットがあるのがわかる。きみを北ヨーロッパの広い洞窟に投げ入れるアウトサイドのロール、そしてインサイドのレッジ(棚)はクレイジーなやつらが巨大なスラブ(厚板波)に挑戦する場所だ。

The Sikerei of the Islands
「島々のシケレイたち」
メンタワイ諸島を旅するひとりのサーファーが、シャーマンに出会い、彫り師に出会い、そして文化の衝突を目の当たりにした。
文、写真:マッティー・ハノン
替刃の針がぼくの胸に打ち込まれる。アマン・レポンはメンタワイのシャーマンで彫り師。素手で針をひたすら打ちつける。汚い爪だ。タンタンタンタンタン。針のついた木の棒を別の木の棒で叩く音が響き、激痛が胸を刺す。おなじリズムで永遠に彫りつづけてかれこれ10時間。意識がもうろうとし、半ば夢の中にいるような気分だった。彼の手が、ぼくの肌を引っ張るように広げる。ロングハウスの玄関に吊された頭蓋骨の奥から、幼い子供たちの笑い声が聞こえる。大量の虫が支配するこの鬱蒼としたジャングル。どす黒い雲が辺りを暗くし、雷が光ると雷鳴が轟いた。過酷な試練は、遂にぼくを追い詰めようとしていたのか、あるいはメンタワイの強烈な熱波にやられていたのだろう。空一面に広がる真っ黒な雲がぼくの身体を吸い上げる。熱帯の空の下、ぼくは戦っていた。やがて風が吹き、雨が降りはじめる。すると木陰のカエルが唄いだす。さらに1時間後、吹きやまぬその風は、ライフルズにも届いていることだろう。風が長周期スウェルとなり、1週間の旅を経てやってくる。ぼくはそこへ向かうボートの様子を思い浮かべた。きっと船内のサーファーたちは興奮度マックスにちがいない。このジャングルのロングハウスからは、ずいぶん遠い別の世界の出来事に感じる。

GOOD TROUBLE
「グッドトラブル」
デイブ・ラストビッチの果てしなき探求。
文:スティーブ・バリロッティ
写真:トッド・グレイザー
ラストビッチがずぶ濡れで屋根付きのベランダに戻ってくると、わたしたちは中断されていた会話を再開した。彼の足元は裸足で、上半身も裸、身にまとっているのは庭仕事用のショーツ一丁である。会話の内容は、メタガスコ社の資源探査に反対する地元民が推し進めた草の根運動についてだ。2014年、バイロンベイからおよそ40マイル南西の街リズモアで推し進められた炭層ガスの開発事業に対し、先住民アボリジニの人権活動家、農家、環境活動家、田舎暮らしの退職者、アーティストとダンサーと音楽家、くわえて変人のサーファー数人が珍しく一致団結したその抵抗運動は「ベントリー封鎖」として知られている。「サーファーを巻き込むことに成功すると、本格的なムーブメントに発展したって実感が湧いてくる。反対運動が盛りあがるにつれて、そんなジョークも飛び交うようになったんだ」ラストビッチは当時をふり返る。

Electric Blue Maybes
「エレクトリックブルーの波」
オアフ島の西海岸の報酬とリスク。
文:ボー・フレミスター
写真:レーザーウルフ&ジェレミア・クレイン
人が車に貼っている手がかりによって、オアフ島の西海岸にやってきことを気づかされる。ファリントン・ハイウェイを進むにつれ、ワイルドで手つかずの風景が広がっていく。乾いて灼けたリーワードコーストの大地、道端の質素な酒屋、バンパーステッカーのメッセージにも、変化を感じ取ることができる。ナナクリの手前で目にするステッカーは、「今日、あなたのケイキ(子供)を抱きしめた?」、「ポイは持った?」、「ドリー・パートン(カントリー歌手)のチケットのために働きます」なんて、いたって無害なものがほとんどだ。けれど、発電所を通り過ぎてワイアナエにむかうあたりから、「優等生はおれの犬が喰っちまったぜ」とか、「Watchufaka!(やんのか、この野郎!)」とか、「ノーハワイアン、ノーアロハ」(これは事実だと思うけれど)なんて感じに、急に物騒なメッセージが増えてくるのだ。


Portfolio: SA RIPS
ポートフォリオ:サ・リップス
「ポインタービルの西」
ホワイトシャークの望みはヘイデン・リチャーズとスイムアウトすること。
文:シーン・ドハーティー
ぼくたちはエリストンの郊外にあるブラックスの崖の上にいて、笑いで気を紛らしていた。東からやってくる旅のサーファーにとってブラックスは不気味な場所だ。本当は、ここはブラックフェラ(黒い連中)という地名。1849年にウォータールー湾で起こった大虐殺を皮肉って呼ばれるようになった。多くのアボリジニたちが白人の入植者たちによって崖から突き落とされたのだ。写真を撮れば波とサメと幽霊が写るような霊的にはヘビーな場所。今日の波はたった4フィートだが、三日月型をしたむき出しのリーフの上でそれはバレリングし、砕け散ると深い海に消えた。
Hawaii Set Me on the Road to the "Straight And Narrow"
「ふたつの故郷を持つ藤澤譲二の、ふたつの素顔」
15歳の少年がひとり、ハワイへ旅立った。
不登校で不良少年だった息子の行く末を案じた母親の決断だった。
それが、サーフィンとの運命の出合いとなった。
それから53年後、ハワイの海と潮風がその少年を本物の海の男へと磨き上げた。
文:森下茂男
東京オリンピックの翌年、1965年、藤澤譲二15歳のとき、ひとり、ハワイへ旅立った。理由は、藤澤が中学校を卒業できず、また遊び仲間の先輩やハーフの遊び人たちに可愛がられ、ヤクザのお兄さんから“うちの組に入らないか”とリクルートされるほど、本物のワルの世界に足を踏み入れようとする息子に母親が危険を察知したからだった。


Mixed Results
「混沌としたリザルト」
IPSからWSLまでプロフェッショナル・サーフィンが歩いてきた染みだらけの足跡。
文:ブラッド・メレキアン
イラスト:ニシャント・チョクシ
リアルなサーフィンのファンにとってのプロ・サーフィンの最大の魅力は、サーフィンそのものなのだ。水の壁を滑る数秒間のあの魔法。これからのプロフェッショナル・サーフィンが、あの魔法の魅力を生みだせるかどうかはまだわからない。なんせ現在までの40年間、IPS、ASP、そしてWSLは、不完全な結果しか残せなかったのだから…。

THE CORAL CROWN OF INDIA
「珊瑚礁の王冠」
南インド、ラキシャドウィープ諸島の旅。
文:ベン・ウェイランド
写真:クリス・バーカード
南インドの港町コチのラッシュアワーはカオスだ。数千のリキシャ・ドライバー、乗客でごった返すバス、オートバイにまたがる人々が蒸し暑い幹線道路になだれ込んでくる。それだけでなく道路には噴火口のような穴や道を渡る牛が待ち受けていて、彼らの行く手を阻み、渋滞に拍車をかける。悲鳴をあげるブレーキ、オーバーヒートしたバスは蒸気を吹き上げ、ありとあらゆる警笛音がこの大通りに鳴り響いていた。

HOUSE OF SAND & MUD
「砂と泥の家」
カリフォルニア最古の住宅と、そこに根づくサーフカルチャー。
文:キンボール・テイラー 写真:アート・ブルーワー
1846年までにこの邸宅は、ランチョ・ボカ・デ・ラ・プラヤ(ビーチへの入り口)という補助金を得て6,607エーカー(東京ドーム約572個分)の土地を取得した。ヴァン・スウェー直系の祖先、ホアン“エル・リコ”アビラが、初代の土地取得者ドン・エミッグディオ・ヴェジャールから1860年に購入したものだ。このアドーベ(レンガ住宅)は、世代を経てヴァン・スウェーの祖母、セシリア・ヨルバに受け継がれた。今日、この家ではヴァン・スウェーがふたりの娘を育てている。「ここはファミリーハウスなのよ」彼の母ジェニファーが言った。「いつの時代もファミリーハウスでありつづけてきたの」

A Hippie in our Midst
「紛れ込んだヒッピー」
コミューン育ちのルーツと肉体感覚に導かれ、アルリック・ユイルはサーフボードを削り、彫像をつくりあげる。
文:ボルトン・コルバーン
カリフォルニア州コスタ・メサ。立ち並ぶ、変哲もない1950年代の工場用建物の中に、アーティストたちの借りる安いスタジオが点在している。フルタイム・サーファーでアーティストのクリス・グワルトニー、ウルフガング・ブロック、ケビン・アンセルの3人も、3ブロック内にそれぞれスタジオを借りている。コーストライン・コミュニティ・カレッジや、RVCAの本社は徒歩圏内だし、Harleyの本社も800m先にある。コーストライン・コミュニティ・カレッジに向かう道すがら、波チェック。2階の広いバルコニーに上がれば、ニューポートの桟橋やサウス・ハンティントンビーチを見渡す8kmのパノラマビューが広がっている。ここはいわば緩衝地帯だ。働く場所であり、忘れられた平穏の地。その一画に、アルリック・ユイルが暮らしている

The Confirmation of Danny Kwock
「ダニー・クオックの堅信礼」
一介のローカルサーファーから業界のビッグネームへと、華々しい転身を遂げた男が迎えたアンチクライマックス。
文:ジョー・ドネリー
ダニー・クオックは髪の毛が長い。それこそヒッピーのような長髪だ。『ザ・エイティーズ・アット・エコービーチ』を読んだ者、あるいは1980年代のニューポートビーチに居合わせた年長者なら、それを意外と感じるかもしれない。クオックをはじめ、プレストン・マレー、ジェフ・パーカー、ピーター・シュロフとその仲間たちは、遊び心が欠如していた当時のサーフカルチャーを根底からひっくり返し、そこにパンクロックの様式を持ち込んだ張本人たちだからだ。

Portfolio: ELLI THOR MAGNUSSON
ポートフォリオ:エリー・ソー・マグナッセン
「ノルディック・サガ 〜 北欧物語」
アイスランド人フォトグラファーと巡る、スノーストーム、活火山、そして北極サーフ・ハンティング。
文:エリン・スペンス
私がエリー・ソー・マグナッセンに出会ったのは、いまから約5年前。彼のホームタウン、アイスランドのレイキャビクでのこと。取材で訪れた私たちにとって、彼は当初、謎の男だった。彼はサーファーだ。それはすばらしい。アイスランドでは、稀少な存在だから。語り口はのんびりしているが、アイスランド人のライターも手配できるし、神話などにも詳しく、国の道路整備政策は、火山地帯の墳丘に住むといわれるノーム(地の精)と妖精を考慮して計画されたなんて豆知識を教えてくれた。

<フィーチャーストーリー>
今号の日本版のオリジナルコンテンツは、1978年に製作された8mmのサーフムービー『Stone Break』が40年の時を経て、リメイクされたが、その当時の製作秘話やレメイクにいたるまでのさまざまなストーリーを映像プロデューサーでもある本誌マネージング・エディターの井澤聡朗が綴る。


Return to Stone Break
「川井兄弟の大いなる冒険」
幻の8mmフィルム『STONE BREAK』の記憶をたどって
文:井澤聡朗
映画『STONE BREAK』は、川井幹雄が弟・康博の協力のもと1978年に発表したオリジナル・サーフムービーだ。時は1970年代。そこには日本のサーフィンが飛躍的に成長した熱い時代の、躍動感あふれるサーファーたちの姿が記録されていた。


つづいてのストーリーは、1970年代も終わりにさしかかるころ、音楽や雑誌などで新しいムーブメントが起こった。それはパンクという名のサブカルチャーの登場だ。その新しいカルチャーは音楽や雑誌だけにとどまらず、サーフィンにも影響をおよぼしはじめる。本誌アメリカのエディター、スコット・ヒューレットが筆を執る。
Rocket to Rockaway
「ロケット・トゥ・ロッカウェイ」
ラモーンズ、パンク・ロッカーたちが登場したころ
文:スコット・ヒューレット
1978年、ニューヨークに誕生していた新しい音楽、パンク!その新ジャンルを最初に命名してスタートした雑誌『パンクマガジン』は、その意味するところを伝えようと華々しい特集号を出して、人々をあっと言わせた。「まるでコミックブックのような体裁だったもの」と魅せられたアートギャラリーのオーナーは言う。「CBGB'sやマックシズ・カンサスシティのクラブシーンを熱くしていたスターたちが、映画の登場人物のようにずらりと勢揃いして紹介されていたんだ。とっても滑稽で、それでいてどこか大まじめ、ぼくにはグッときたよ」


文章も写真も一流をめざすザ・サーファーズ・ジャーナルらしい特集がクリストファー・ビックフォードのソウルプロジェクト「サンドバーの伝説」だ。彼こそは『ナショナル・ジオグラフィック』誌にもストーリーを発表しているフォトグラファー&ライターなのだ。ノースカロライナ州東端にある砂州、アウターバンクスの圧巻の写真と文章を楽しんでください。
LEGENDS OF THE SANDBAR
「サンドバーの伝説」
アウターバンクスへの讃歌。
文・写真:クリフォード・ビックフォード
アウターバンクス(OBX)の裏側へようこそ — 働きすぎの人々へ、澄み切った水とまばゆい夕焼け、夏のパラダイスとして売りこまれる長さ100マイルの砂丘の景観も、今は、たちこめる雲、吹きつける風、空中を飛ぶ砂で、まるで地獄のような別世界だ。嵐はどれくらいつづくのだろう。1時間?1日?3日?いや7日…。空には暗い積雲が重たくのしかかり、海からの激しい風はすべてのものを冷たく湿らせていく。人々は家の中にひきこもり、次の好天が訪れるまで、冬眠に入るのだ。


Cutting Edges
「カッティングエッジ:最先端」
メンタワイという宇宙での試み
文:マット・ジョージ、撮影:エバートン・ルイス
ある日、フォトグラファーのエバートン・ルイスとクレイグ・アンダーソン、アレックス・ノスト、そしてオジー・ライトは、停泊中のスターコートの船尾に座っていた。彼らはあるアイデアをふくらませて、メンタワイの体験を写真にしようとしていた。彼らがいるサーフポイント・サンダーから、チャンネルのむこうにラグズ・ライトのリーフが見えた。そこでは神さまが栓を引き抜いたかのように潮が引きつづけていた。ラグズでのサーフは満潮でも危険な賭けだ。だがエバートンは干潮時にラグズ・ライトの水がクリスタルのように輝くことを知っていた。
 魚がどんなふうにサーフィンを見ているかというオジーのコンセプトに、エバートンがアンダーウォーターだけの撮影に限定してやってみようと言いだした。さらにこの試みをもっとおもしろいものにしようと、エバートンはそれぞれに個性の異なるサーフボードを選ばせた。ひとりはシングルフィン、ひとりはフィッシュ、そしてもうひとりはスラスター。1時間が経ってサーフされたのは全部で6本の波だった。その後、サーフするにはちょっと無謀なコンデションとなり、全員がボートに戻った。


David Nuuhiwa
「デビッド・ヌヒワの伝説」
文:レオ・ハッツェル
デビッドは、10代のころに島(ハワイ)からやってくると、ハンティントンあたりでサーフした。あのころ、ピアには腕自慢のサーファーたちが大勢ひしめいていた。ハービー、バクスター、フューリーたち。でも、デビッドが出現すると同時に、すべてが変わってしまった。彼は優雅だった。それはまるでスパイダーマンのようで、まるでボードの上でバレーを踊っているようだった。


Portforio: JOHN RESPONDEK
ポートフォリオ:ジョン・レスポンデック
「ハッピーフェース」
文:ヴォーガン・ブレーキー
一生懸命働き、それ以上に遊ぶオーストラリアのサーフ・フォトグラファー、ジョン・レスポンデックは、今もっとも幸せな写真家かもしれない。ほかのフォトグラファーが彼の横に陣取るとき以外は。

ほかにも、ディーン・ラトゥーレットの文章による「Gringo X 南米チリのアタカマに流れ着いた名もなき放浪者」や、クリスチャン・ビーミッシュによる現代のツインフィン事情「Soundings: Acute Angles それぞれの意見:鋭角」など、今号のザ・サーファーズ・ジャーナルも話題満載です。
<フィーチャーストーリー>
今号の日本版のオリジナルコンテンツは、日本版で初めてのアートコーナーだ。アーティストはガラス・アーティスト、ヨーナス・ガラスビジョンの賀来ヨーナスだ。

Jonas’s Glass Vision
「ヨーナスのガラスビジョン」
ここへ帰ってくるために、彼は旅に出た。
文:谷岡正浩

なにも持っていないことは、なんでも持っていることだ。日本人にして、スウェーデン人でもあるヨーナスは、幼少のころより育った鎌倉・七里ヶ浜に工房を構えているガラス・アーティストだ。どこにいても、自分がどこにもいないような気がする、そんな感情を奥底に抱えたままで彼がたどる、七里ヶ浜からアメリカ、沖縄、そしてスウェーデンを巡って、ようやく〝ここ〟に帰ってくるまでの長い旅の物語。

つづいてのストーリーは、東京オリンピックを来年に控え、なにかと話題になっているのが、ケリー・スレーターが開発したウェーブプールだ。現在はケリー・スレーター・ウェーブ・カンパニーはWSLの傘下に入り、近い将来、ウェーブプールでの大会も開催されるのだろう。


「プレジャー・ユニット」
サーフィンと競技スポーツとのあいだに、境界線を定めることはできるのだろうか。ウェーブプールの最前線を探る。
文:ブラッド・メレキアン


ウェーブプールの出現を嘆くサーファーは、サーフィンが確立された当初から存在する。海洋環境をプールで再現する試みはいまからおよそ100年前、1920年代のイギリスに端を発し、1966年には日本で“サーファトリウム”という粋な名前のウェーブプールも登場。それ以降、サーフィン史に新たなビジョンが示された。それまではサーファーが海でしか得ることのできなかったストークを、世界各地の都市で人工波が完備されたプールでも提供していくという、民主的ビジョンである。
 この構想がもたらすメリットは多岐にわたり、効果もはっきりしている。当初から指摘されてきたとおり、再現可能な波をコントロール下に置くことで、従来は有限とされてきたリソースを際限なく提供できるようになるからだ。技術が普及すれば、ローカリズムにともなう問題を減らすことにもつながり、ビジネスの成否を比較的小さな市場に委ねてきたサーフ業界を支える役割も果たすだろう。際限のない白紙のキャンバスを与えられたサーファーは、新しいマニューバを試し、多様なテクニックを生みだせるため、波を乗りこなす行為自体の質も向上するはずだ。


ハワイで唯一、もしかしたら世界で唯一のボディーサーフィン専用のサーフポイントがケワロ・チャンネルのエヴァサイドにあるポイント・パニックだ。バレルからウォール、チャンネルで繰り広げられる夢の波。ここはボディーサーファーたちだけの遊び場だ。単なる暗黙の了解ではない。ここの独占権は法律で守られているのだ。


The Panic Response
「パニック・ローカルからの返答」
ボディーサーフィンの聖地、それを支えるオアフ・ローカルたちの紆余曲折。
文:ボー・フレミスター


カイザー・ボウルズやVランドを連想させるここの波は、マシーンが繰りだすようなボウリーなライトハンダーと、まあまあのレフトがメインだ。カカアコ・ウォーターフロント・パークの最東端から割れはじめ、ケワロズ・レフトのチャンネルまで繋がる。「ポイント・パニック」の名前の由来は諸説あるが、よく言われるのは、ボディーサーフィン専用になる前のリーシュレス時代、あるサーファーがワイプアウトし、波に吸い上げられパニックに陥ったことからきているというものだ。ほかにも昔の話だが、海側の角に位置していたユナイテッド・フィッシング・エージェンシーの競り市場が原因でサメが集まってしまい、それを見て皆パニックになった、という説もある。競りに集まる漁船が魚の頭などを捨て、ビルジポンプ(船底に溜められた汚水)を放出し血だらけにしたおかげで、多くのサメが集まってきたというのだ。

Better Surfing Through Chemistry
「よりよいサーフィン人生への化学反応」
サーフワックスを開発したサーフリサーチ社の隆盛、そして終焉。
文:スティーブ・バリロッティ

イーストコーストの新米サーファーたちは、サーフボードだけでなくサーフグッズにも飢えていた。サーフラックやワックス、ディケール、Tシャツ、そしてジュエリーなどなんでも欲しがった。ジャンセン社がつくった腰が抜けるほどダサいトランクスとウィンドブレーカーのセットさえも、コーキー・キャロルとリッキー・グリックを広告に使ったおかげであっという間に売り切れた。その光景を見たマイクたち3人は、競合のないサーフアクセサリーを開発し、どこからも束縛を受けずにサーフィン市場で販売することに、大きなビジネスチャンスがあると考えるようになった。

Rumblin‘
「ランブリン」
ペインター、ボードビルダー、修理工、ブルーズ・シンガー…。1+1を3以上にする男、ブライアン・ベント
文:カイル・デナシオ


サウススウェルが届くサンフアン・カピストラーノの暑い午後、ブライアン・ベントは1956年製のフォードをガレージから出した。このガレージは通常‘30年代から’50年代の改造車、ホットロッドで代わる代わる占領されているのだが、スペインのバスク地方から訪ねてくる友人のシェーパー、キム・フランシスのために作業場を空けているところだ。キムは、ここで‘50年代スタイルのロングボードをシェープする予定だ。ベントの家も’50年代スタイルの3ベッドルームだが、妻のリヴカが渋々承諾したので、マスターベッドルームはアトリエとして使っている。

短管でマフラーなしのビンテージ・ホットロッドを製造するベントが、‘50年代にずいぶんのめり込んでいることはだれもが知っているが、それは彼のアートやサーフボードについてもおなじことが言える。現在52歳のベントに、この時代の経験がまったくないことを考えると、彼の車や服装、アート作品が’50年代にインスパイアされているというのはある意味不思議なことだ。


Portfolio: Group Show
「グループ作品展」
Matt Clark、Woody Gooch、João Leopoldo、Morgan Maassen、Al Mackinnon、Russell Ord、Marcus Paladino、Daniel Pullen、Seth de Roulet、Cory Scott、Andrew Shield、Jimmy Wilson、Kanoa Zimmerman


ほかにも、ベン・ソアードの写真による「The Distant Islands 魅力の旅先、ツアモツ諸島」や、デレク・ライリーによるイスラエル紀行「Next Year, Tel Aviv!  イスラエルのサーフィンの今」など、今号のザ・サーファーズ・ジャーナルも話題満載です。
<フィーチャーストーリー>
今号の日本版のオリジナルコンテンツは、1990年代に突如、世界同時多発的に起こったロングボード・ブームを筆者李リョウがカメラマンの目線で当時の熱狂ぶりをふり返った。


NEO LONGBOARD DAYS
「ポテトテップス狂騒曲」
ロングボード・リバイバルからまもなく30年、近代サーフィン史のマイルストーンとなった異例のブームを振り返る。
文:李リョウ
30年近く過ぎた現在、俯瞰でその1990年代を振り返ってみると、このブームはサーフィン史のうえでも異例の出来事だったと総括できる。SNSもiPhoneもまだ普及していない時代に世界で同時にこのブームはブレークした。これは1960年代にアメリカの西海岸で起こった『ギジェット』のブームと比肩できる。このギジェットとロングボード・リバイバルの共通点は、サーファーの世界だけの流行りごとだけに止まらず一般の人々にまで影響を及ぼして、大きなブームとなった点にある。


つづいてのストーリーは、非対称サーフボードのいち考察だ。人体の構造とライディング時のメカニズムの差異に着目した著者は非対称サーフボードこそが理にかなっていると結論づけた。

IN UNEQUAL MEASURE
「非対称サーフボードの明日」
人の目を欺くかのような不自然な湾曲かもしれないが、非対称サーフボードは究極のバランスを求めた自然な結末だ。
文:スチュワート・ネットル
「非対称サーフボードの発想は人体の構造に由来している。人体は左右対称である。つまり1本の対称軸で成り立っている。それは頭から股間を貫いた対称軸が中心となって左側と右側に分けられる。一般的なサーフボードも左右対称であり、ストリンガーが軸となる。
 だが問題は、身体とボードの軸は、けっして並列ではないということだ。ライディング時の両足(スタンス)は、ボードの軸の上に90度の状態で立つために、それぞれ左右に不均衡を生じさせる。この状態でサーフボードをコントロールするとなると、まったく異なるふたつのメカニズムで身体を制御する必要がある。それらはつま先荷重と踵荷重である。この違いを体験するには平らな地面にライディング・スタンスで立ち、つま先側と踵側に荷重してみればすぐに理解できる。
 つま先と踵のターンには大きな差異が存在するが、広いフェースでの大きなターンの際、ターンの違いを補完し動きを調和させるために、要所となる足首から膝、そして腰に関していえば、どちらのターンにおいてもほとんど違いはないと思ってよい。しかしながら短い弧を描くターンに関しては、人体の構造上の短所が明らかになる。



ブルース・ブラウンといえば昨年末に亡くなったサーフ・ムービー界の巨匠であり、大ヒットを記録した映画『エンドレスサマー』の生みの親である。その映画製作50周年を記念して、あのスミソニアン博物館にフィルムが永久所蔵されたことでも話題になった。

Bruce's Beauties
「ブルースズ・ビューティズ」
史上もっとも人気を博したサーフィン映画の50周年を迎え、これまでアーカイブされていた監督撮り下ろしの秘蔵のスチール写真が公開された。このブルース・ブラウンのコレクションを観に、多くの者が殺到したという。それにともない限定リリースされた『The Endless Summer』のボックスセットが話題を呼んだ。マイクとロバートが日付変更線を越えるときに流れる、ザ・サンダルズと共演するワリー・ジョリスの魂のメロディカは相変わらずたまらない。

THE CALVES OF COPPER RIVER
「カッパーリバーの挑戦」
ギャレット・マクナマラが仲間と敢行した、サーフィン界でもっとも大胆不敵なプロジェクト。およそ10年前、その場に居合わせた本稿の著者キンボール・テイラーは、当時の濃密な体験を今も鮮明に覚えている。
文:キンボール・テイラー
都市が水面から垂直に屹立している様子を想像してほしい。半月状に広がるウォーターフロントは幅が1マイル、その高さは30階建ての高層ビルに匹敵する。スーパーマンの生まれ故郷、クリプトン星の建物みたいに氷晶で形成された構造物は、白または深みのある半透明のブルーに染まり、水辺に連なるタワーの奥には、密集したメトロポリスが白いルーフに覆われて高く突き出している。
 氷塊はゆっくりと時間をかけて静かに流動しつづけ、やがて水際に達すると、すさまじい勢いで崩れ落ちていく。ベルトコンベアに運ばれて破壊へと突き進むのだ。ときにはアイス・シティーの街区まるごと消滅することもある。
 そんなとき、ごくまれに水面のどこかでゴーストのように美しい波が出現する。氷河の末端部から数百ヤード離れていた私たちの耳にも、近くで雷鳴か大砲を放ったときのような轟音が飛び込んできた。アラスカ州カッパーリバーに到着した初日、かつてビラボンXXLグローバル・ビッグウェーブ・アワードの勝者となったギャレット・マクナマラは、私を見据えたままこう言った。「あれを見たら、ブッ飛んじまうよ」


FAVORS OF FORTUNE
「ロンボク島、デザートポイントの秘密」
文:スティーブ・バリロッティ
1983年、ロナルド・レーガンはGPSテクノロジーを文明社会の発展に活かすことを公約していたが、衛星ナビのマトリックスには、まだ広範な地域が暗いままに残っていた。だがバリ島の東22マイルのロンボク島はその範囲ではなかった。ジャワ海と西オーストラリアを深い海溝でへだてるロンボク海峡は、アメリカ、ソ連、どちらの陣営にとっても戦略的に重要な場所だったのだ。低空の軌道を回る人工衛星がとらえたハイレゾ画像は、視る者によってまったく違う意味を持っていた。動物保護の意識を持つ地球生物学者なら、海峡の真ん中に走る"海のベルリンの壁"、あの有名なウォレス線が、アジアの鳥や生物種とニューギニア、オーストラリアの種を分けていることに即座に気づいただろう。ロンボクを探査するKGB職員なら、ヌサ・ペニダとセコトン半島の端のあいだのわずか12マイルの狭い海溝が3,000フィートの深さがあり、核サブステルス機じゅうぶんに通過可能なことを見て取っただろう。だが、NOAA(国立海洋大気庁)とつながりを持つサーファーだったら、セコトン半島のいくつかのポイントに、スピードのあるラドン船でわずか1時間たらずでたどり着けることに注目しただろう。


Portfolio: Ryan Miller
The Straight Story
「真実」
ライアン・ミラー:技術、道具、そして努力がWSLへの道をひらく。
<フィーチャーストーリー>
最初のフィーチャーストーリーは、日本版のオリジナルコンテンツ、国産下町ボードビルダーであり、日本サーフボード産業の揺籃期における日米のサーフボードビルダーたちの橋渡し的な存在でもあったテッド・サーフボードを立ちあげた阿出川“テッド”輝雄の物語である。

INNER CITY, OUTER SEA
「アメリカの空気を嗅いだ男、テッド阿出川とテッド・サーフボード」
文:森下茂男
のちにテッド・サーフボードを立ちあげることになる阿出川“テッド”輝雄は、日本大学芸術学部(以下、日芸)放送学科3年のとき(マイク真木は放送学科の1年後輩に当たる)に渡米する。彼が21歳、1964年の春、新しいものを自分の目で見たいという思いから、知り合いを頼ってカリフォルニアのサンタモニカに向かう。


つづいての物語は、テッド阿出川がアメリカから輸入した1台のプレーナー、スキル100はテッド阿出川をはじめ数多くの日本のシェーパーたちに引き継がれ、技術とともに日本のサーフボードインダストリー史を支えたのだった。

THE PLANER THAT COULD
 「スキル100物語 since1967」
日本のサーフボードインダストリー史を支えた1台のプレーナー。
文:星静雄
「東宝商会を通じ、機械輸入商からこのスキル社のプレーナーを輸入したのは、1967年の夏の終わりだったかなあ」
 阿出川は、その前々年はハモサに住み、シェーパーだったハワイのハロルド•イギーがすでに使っていたスキルに魅了され、その必要性を感じていた。さっそくオーダーすると、このスキルは意外にすんなり入手できたという。ともすれば正規輸入第1号であってもおかしくはないし、その後約30年間つづくクラーク・アンド・スキル時代以前から、このスキルが日本に存在していたと思うと、それはとても夢のある話ではないか。


アメリカのサーフシーンを支えた米『サーファー』誌と米『サーフィン』誌。そのひとつ『サーフィン』誌が廃刊になった。元『サーフィン』誌の編集長、ニック・キャロルがその思い出を語る。

Let’ Do It!
「レッツ・ドゥー・イット!」
米『サーフィン』誌の元エディター、ニック・キャロルの回想録。
文:ニック・キャロル
最後は静かに訪れた。いっきにバタンとではなく、名残惜しそうに。皮肉なことに、廃刊のニュースはソーシャルメディアを通じて表面化した。定期購読の更新時に、自動音声応答サービスで最終号が出荷済みと知った読者が投稿したのだ。
 しかし当の出版元は、投稿が引き金となってフェイスブックに猛烈な勢いでコメントが殺到するまで口を固く閉ざし、53年もつづいたサーフメディアは無言のまま幕を下ろした。
 医師だったら、死亡診断書になんと記すだろうか。大衆はインターネット隆盛のせいにしたり、サーフ産業衰退の兆しと受けとめたが、そのどれもが近因にすぎない。根本の原因はプリント・メディアの終焉ではなく、読者層の変遷につぐ変遷にほかならない。『サーフィン』誌が創刊された1964年以降、何百ものサーフィン雑誌がアメリカだけでなく世界中に誕生し、そのいくつかは今なお強い影響力をもっている。創刊当時、アメリカ沿岸部に住む人々の3割近くが21歳以下(それはオーストラリアにも当てはまる)だったのに対し、現在は55歳以上の人口がおなじ割合を占めている。若いエネルギーが口火を切り、牽引してきたモダンサーフィンのムーブメントは鳴りをひそめ、若手サーファーの人口は、いまや全体のほんの一部にすぎない。


GET CLIP
「ゲット・クリップ」
社会を生き抜くためのセルフ・ディスカバリー(自己啓発)について。
文:ジェイミー・ブリシック
「映画『セルフ・ディスカバリー』が2017年現在のサーフ・ムービーのあるべき姿の一部を捉えているのかもしれない」。そう力説するリチャード・ケンビン。「1970年代にぼくらが観て育った当時のムービーは、サーフィンと音楽、それがすべてだった。勝手にジミヘンやストーンズの音楽を使っていた。すばらしい時代じゃないか。サーフィンと音楽の融合は、ぼくにとって衝撃だった。アートを追求する職人気質のクリスとすべてのスタッフに大いなる敬意を表したい」


CALL ME AT THE CRACK OF NOON
「午後になったら電話して」
アーティスト、ファム・ファタール(フランス語で魔性の女)、女神 ―
ノースショアの歴史を語るうえで欠かせない女性。
1970年代のサーフ・フォトグラファー、シャーリー・ロジャーズの物語。
文:ボー・フレミスター
写真:シャーリー・ロジャーズ
1970年代の写真の中に、あるひとつの偶像的なイメージがある。褐色の肌をした水着姿の女性がノースショアのビーチで撮影している姿を捉えた写真がそうだ。いや、ひとつと言ったが、ハリウッド・スタイルの立派な三脚を砂浜に立てて、巨大なロングレンズを覗き込むこの女性の写真は、じっさいは山ほど残されている。若くて健康的でエキゾチックな写真の中の彼女は、腰に手を置き額に汗をかきながら、全身で被写体を挑発している。「さあ坊や、私を楽しませて」と。
 天国まで届いて、神さまも赤面させてしまいそうな美脚。声をかけるのに相当な勇気をふりしぼらないと近づけない、そんな女性。手のひらにひょいと乗せられて、拳で粉々に握りつぶされ、エッセンスを海に投げ捨てられてもおかしくない。しかも、そんな仕打ちを受けても、よりよい存在に生まれ変われそうだと思ってしまうような、そんな女性だ。


PORTFOLIO: ED SLOANE
FOR NOW
「現在進行形」
オーストラリアのビクトリアから飛びだした天然色。
TSJJ7.4(TSJ26.4) 
              

<フィーチャーストーリー>
まず最初のフィーチャーストーリーは、日本版のオリジナルコンテンツ、ロックホッパーズ・ウェットスーツを立ちあげた寺岡道廣と桜井喜夫、そして成尾均の3人の男たちの、サーフィンと海、下町の人情で結ばれた滑稽で奇想天外な物語である。

Three Amigos
「みっちゃんとイワトビペンギン夏ものがたり」
文:江本リク
生涯を通して人は、砂の数ほどの人々とすれちがい、会話を交わし、アリのように触覚を突き合わせて、互いにコミュニケーションをとりあっている。そうした無数にして無限大の人々との係わりのなかでも、強烈なバイブレーションに引かれ合い、触れ合うことで、共感を覚え、知人から友人へ、親友から仲間へ、そしてファミリーリレーションへと発展するケースも稀ではない。サーフィン、海、そして都会を舞台にした下町人情で結ばれた3人の男たちの、滑稽にしてハチャメチャで、アンダーグラウンドな昭和の夏物語がはじまろうとしている…

この号でもっともこころを揺さぶられたストーリーがチリの海岸線をガールフレンドと馬たちと旅をしながら、のんびりとサーフィンを楽しむひとりのサーファーの物語だ。
Pack and Saddle
 「パック・アンド・サドル」
馬たちと旅したチリの海岸線。
文:マティ・ハノン
100ヘクタールもある新しい住処に馬たちがなじむのを見届けて、数日後にはぼくらが旅立つときがきた。「クーーダクダクダクダ!」ぼくのいつもの呼び声に、4頭の馬は頭を上げ、300ヤード先から一斉にこちらに向かって駆けてきた。ぼくは4本の人参を持っていて、それで少しだけ明るい気分になれた。サルバドールは別れを理解していたみたいで、鼻をぼくの肩に押し付けてきた。これまで100万回もしてきたように、ぼくは両手いっぱいのハグをした。彼の力強い大きな心臓の音が耳の奥に響いた。
「寂しくなるよ」胸がいっぱいだった。ぼくはこれで馬を持たないホースマンになったのだ。そのおなじ日、ヘザーからカナダに帰国することを伝えられた。彼女は最近、前ほど笑っていなかった。山を越えながら、何度か喧嘩もした。
「わかってね」とヘザーは言った。「うん、それがきみの望むことなら」とぼくは答えた。
極寒のパタゴニアに、彼女なしで行くことになるのだ。ふと、あの崖から落ちる滝の近くで割れていた波のことを思いだした。
どんなときも楽観主義であるヘザーが言った。「マティ、馬たちはすごく嬉しそうね。この場所、本当にすばらしいもの。美しい谷には美味しい草がたくさんあって、豪快な川が流れていて、立派な火山が見守っていて。こんなすてきな森もあるし」
「うん、すごくきれいだね」景色を見ようとヘザーに背中を向けながら、そっとそう答えた。でも、それは嘘だった。目の前の視界がぼやけて、ぼくにはなにも見えなかったのだから。

もうひとつ、今号で心を打たれたストーリーがある。相変わらず戦争に明け暮れるアフリカ大陸、そこで活躍する戦争カメラマンがいる。ニック・ボスマ、彼はまたサーフィンを撮るサーフ・フォトグラファーでもある。

War and Waves
「戦争と波」
洞窟の奥へと匍匐前進する、戦場フォトジャーナリスト、ニック・ボスマ。
文:ウィル・ベンディックス
写真:ニック・ボスマ
アフリカ大陸で20年以上の経験をもつベテラン戦場カメラマンのボスマは、2003年に終結した悲惨なリベリア内戦の爪痕をフィルムに収める任務を請け負っていた。行動をともにした司令官アイジャモンは軍首脳という触れ込みだったが、精神の錯乱した愚か者といえなくもない。当時リベリアを覆っていた狂気のさなか、それを見分けるのは容易ではなかった。首都モンロビア郊外では、政府転覆をもくろむ武装勢力と指揮官チャールズ・テイラー率いる軍隊との衝突が絶えず、ボスマはそんななか戦闘現場に出向いた。護衛についてくれたのは司令官たったひとり。悪名高いテイラー軍の兵士らは、誘拐した子供の一団にAK-47を持たせ、ヤシ酒と“ブラウン・ブラウン”(コカインと火薬を混ぜ合わせたもの)を与えて戦場に送り込んだ。テイラー軍のなかには、略奪したかつらやウェディングドレスを身につける兵士もいた。それが弾除けになると信じていたからだ。敵対する反政府軍にも女装や民間人の装いで戦う兵士が後を絶たず、敵味方を区別するのは実質的に不可能だった。

The Caretaker of Intangible Ingredients
「世話役」
生粋のサンディエガン、ハリー・スキップ・フライのパーソナル・クイバー。
文:クリス・アーレン
「サーフボードがいいんじゃなくて、ライダーが上手なんだよ」。それはサーフィンの世界に長年語り継がれた常套句。しかしスキップ・フライの場合、それは例外で、ライダーとボードを切り離して語ることはできない。これまでに開発されたフライのクイバーについて語りながら、ライダーでもあるその男について語ってみよう。

そのほか、The Big Boogie「ビッグ・ブギー」“害虫”やら“クズ”などと揶揄されながらも、そんなのどこ吹く風。今も進化しつづけ、バレルをチャージしつづけるボディーボーダーたちのストーリーや、毎号息を飲む写真が満載のポートフォリオは、TSJによるフォトグラフィー・アーカイブ選集Play the Hits: Recent Photography from TSJ’s Working Archive「プレイ・ザ・ヒット」など、今号も話題のストーリーが満載です。
2,090円
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West Coast Groovy
「小林昭のウエストコースト・フォトグラフィー」
文:森下茂男
写真:小林昭
1969年アメリカ西海岸ロサンゼルスのマリブ一角に拠点を構えた写真家・小林昭は、当時、アメリカで起こりつつあったニューウェーブのうねりをカメラで捉えた。そのうねりとは、アメリカの若者たちがつくりだした新たな文化だった。それは、音楽、文学、そしてアートからサーフィンにいたるまで、アメリカ西海岸の変わりゆく時代を小林はモノクロームのフィルムに記録した。

A Friend Of Friend
「バルって誰?」
文:ボブ・ビードル
写真提供:バル・バレンタイン・コレクション・トラスト
バルって誰?そんな反応が返ってきても不思議ではない。50年ほど前、オアフ島ノースショアに住み着いたローカルでなければ、その名前にはピンとこないだろう。加えてレスリングの解説とフォトグラファーを生業としていたバルが、1950年代後半にハワイへ移り住んだこと。親しいレスラー仲間のタリー・ホー・ブレアーズ卿を通じてサーフィンと出会ってからサンセットビーチに居を構えたこと。サンセットのインサイドで割れる浅いリーフブレークに彼の名前が付けられたことなども、あまり知られていない。

Dream On
「ドリーム・オン」
グレン・チェイスのコスミック・シャングリラ
文:リチャード・ケンビン
写真:ジェフ・ディバイン
グレンの人格形成に大きな影響を与えたのはラ・ホヤのグラニーの家だった。グラニーはジェフ・ディバインの祖母だった人物だ。ディバインとグレンは親友になった。グレンはグラニーの所有するコテージに泊まる代わりに、彼女の面倒を見て庭の世話をした。ディバインの写真はすでに米『サーファー』誌に掲載されており、まもなく正式なスタッフ・フォトグラファーとなった。1970年代が幕を開け、『サーファー』誌は黄金時代を迎えていた。隔月の発行で、時代を超えたすばらしい写真が、良質なレイアウト、フォント、グラフィックデザインとともに掲載されていた。繊細で抑制の効いたうつくしい誌面は、当時のスタイル、想像力、そして理想主義的な流れを反映していた。『サーファー』誌でのディバインの仕事とともに、グレンのアートとサーフィンはサンクレメンテのサーフィンメディアへと浸透しはじめていた。グレン・チェイス、魔法使い志望、バレルローラー、旅人、アーティスト、そして宇宙的に革新的なこの男は、仕事を探していた。

Riders of the Storm
「ライダーズ・オブ・ザ・ストーム」
世界でもっとも売れたサーフボードを検証する。
文:ブレッド・メレキアン
ウェーブストームはもちろん、ある意味においていわゆるサーフボードだ。8フィートの長さでボトムはハード、デッキはソフトなフォームだ。コストコのような大型の量販店で購入できる。さらにホームデポのような店ならばゴミ箱のような空き箱に大量に突っ込まれた状態で販売されている。ウェーブストームの価格は99ドル。しかも壊してしまったらコストコでは新品と交換してくれる。
 多くの人がこれを購入している。残念ながら正確な統計はないが、ウェーブストームを取り扱う会社でカリフォルニアのアーバインを拠点とするAGITによれば、2016年にコストコだけでも100,000本以上のウェーブストームを販売したという。このデータだけでも世界でいちばん売れたサーフボードと断言できる。既存のサーフボードよりも5倍近くは売っているということだ。

そのほか、The Plural Island「奥深き島」多彩な海岸線をもつバルバドスのサーフポイントの紹介や、ブリティッシュコロンビアの写真で構成するBuilders Of The North
「北の開拓者たち」や、フロリダ出身のロングボーダー、ジャスティン・キントールのNormcore「究極の普通人」や、ミレニアム・シューター、ダンカン・マクファーレンのPortfolio: A Duncan Macfarlane「ポートフォリオ:ダンカン・マクファーレン」などなど、今号も話題のストーリーが満載です。
2,090円
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Chasing The Elusive Dream
「1969年、海外に目を向けた4人のサムライ」
文:森下茂男
日本のサーフィン黎明期におけるサーファーたちの時代マインドには、“誰が一番乗りか?”という先陣争いがあった。それは、いつサーフィンしたのかにはじまり、誰が最初にこの波(ポイント)をサーフしたのか、また、誰が最初にサーフボードをつくったのかといった「一番乗り」競争があり、そして誰がいちばん初めに海外の国際大会に出場するのかといった一番乗りレースもそのひとつだった。


Starting From Scratch
「日本サーフィン連盟設立前夜」
文:森下茂男
東京オリンピックの正式種目決定を受けて、悲願だった日本体育協会加盟など、にわかに慌ただしくなった日本サーフィン連盟周辺だが、日本のサーフィン黎明期にその礎の、さらに礎を築いた男たちがいた。

Going Lala
「ゴーイング・ララ」
じつは奥深いパフォーマンス・サーフィンの歴史。
文:デイブ・パーメンター
崩れる前の波のフェースを横に滑りはじめたのは、いつごろなのか。材料が限られ、デザインが未発達だったとしても、だれかが偶然、もしくはトライ&エラーの末、斜めに滑ることを発見した可能性は排除できないだろう。ポリネシア・トライアングルの底辺あたりでは短いベリーボード風の乗り物が使われていたが、サーファーたちがそれに乗ってララに興じていたことも、じゅうぶん考えられる。どれも推測の域を出ないものの、ひとつだけ確かなのは、サーフィンが今日の姿にたどり着いたのは、ポリネシアの海洋民族がハワイ諸島に定住した後ということである。


SOUNDINGS
「ロッカー:波にフィットするということ」
クリスチャン・ビーミッシュによるシェーパーたちへのインタビュー
文:クリスチャン・ビーミッシュ
はたしてシェーパーは、サーファーが喜ぶマジックなカーブを見つけられるのだろうか? たとえば1990年代に時代を席巻したケリー・スレーターのショートボード。そのミニマリズムはきわめて実験的な試みだった。一般サーファーのだれもが、その「妖精の靴」を手に入れて、彼のようにスピードとフローを体感したいと思ったが、多くは徒労に終わった。だが、その軽く薄いサーフボードの10年が、大きな沈滞だけを招いたわけでもない。マット・ケックルが指摘するとおり、1990年代に開発されたフリップチップ集積回路は、パワー・フロー・サーフィンとエアリアルという新境地の実現に向けた橋渡しにはなっただろう。>

そのほか、The Chocolate Islands「チョコレート・アイランズ」サントメのルーツに触れる旅や、疾風のように駈け抜けたニューヨークのサーフレジェンド、リック・ラスムーセンの人生を描いたUnsafe At Any Speed「危険がいっぱい!」や、イギリス在住フォトグラファーのファイル、Portfolio: Al Mackinnon「ポートフォリオ:アル・マッキノン」などなど、今号も話題のストーリーが満載です。
2,090円
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<フィーチャーストーリー>
日本版TSJJ7.1号では3人の女性をピックアップした。オリジナルコンテンツではそのひとり、岡崎友子を取り上げた。岡崎友子は‘80年代、プロのウインドサーファーとしてマウイ島をベースに活動をつづけ、そののちスノーボーダーとしてもアラスカや北海道などのパウダースノーに目をむけ、さらにカイトサーフィン、サップ、そして最近ではフォイルサーフィンにトライするなど、世界のエッジな領域で活躍する鎌倉生まれのスーパーウーマンだ。

MIMULUS
「ミムラス」
岡崎友子の、小さな身体に詰まった大きな想い。
文:山根佐枝
小川の水辺に咲くミムラスという黄色い花がある。腰くらいの高さの茎に3cmほどの花をつけ、群生する。雨が降り、水かさが増すと根こそぎ流されてしまうこの花は、それでもあえてその場所を好んで育つ。流され枯れてしまうかと思いきや、流れ着いた先でまた根を張り、花を咲かせる強さがある。「恐れを克服し、一歩を踏み出す勇気を思い出させてくれる」。ナチュラル・ヒーリングのレメディのひとつであるこの花のメッセージを伝えたとき、岡崎友子は目を細め、自らの内側に向かって静かに頷いたようだった。

つづいて紹介する特集は、男勝りのサーフィンで一世を風靡した女子プロサーファー、リサ・アンダーセン。20年前、「リサ・アンダーセンはきみより波乗りがうまい」というキャッチフレーズでUS『サーファー』誌の表紙を飾ったスーパーウーマンの内面にチャッズ・スミスがアプローチする。
A Graceful and Perfumed Rage
「優雅で芳香な怒り」
10代の家出少女、パフォーマンスの先駆者、生涯サーフィン中毒、トレードマークの激しい気性で突進してきたリサ・アンダーセンのポジション。
文:チャズ・スミス
「電話帳でタクシーの番号を探して、ここからオーランドまで片道いくら?って訊いたのを覚えてる」。エビのセビーチェには手をつけないままリサ・アンダーセンは話していた。「ここから」というのはデイトナビーチ、詳しくはオーモンドビーチのことだ。カーペットバガーとして移住した北軍最後の将校が住んでいたフロリダ終端の街として知る者はいても、サーフィンにかんしてはまったく無名の街だ。繊細なコーンチップとともに赤みがかったソースが美味しそうなセビーチェはずっとそこにある。彼女はアル中の父と、その父に怯えていた母の家を飛びだし、鑑別所で16歳という多感な時期を2年間過ごした当時を思い出していた。

Neptune Alley
「ネプチューン・アレー」
ジョン・フォスターのラ・ホヤ・フォトグラフィー。
文:リチャード・ケンビン
どのサーフタウンにも、1970年代に台頭し、その時代を彩ってきた集団が存在する。カリフォルニア州ラ・ホヤにおいては、ジョン・フォスターとその仲間たちがそうだ。詳細を抜きにすればそんな場所はどこにでもあり、写真を通して当時を振り返ると、ツァイトガイスト(時代精神)に満ちあふれ、人を引き寄せる圧倒的な魅力をもつ固有の風土が浮かびあがる。街路やガレージ、宿泊施設、浜辺、サーフポイント、スケーターのたまり場、サーフショップ、駐車場、繁華街、酒場。記憶がときを経て濾過されるにつれ、その街との結びつきは深まっていく。そしてフォスターの写真は、時代ごとにそこへフィットする面々も異なるという事実を裏付けている。ユーモアと深い造詣、それに被写体への洗練されたリスペクトを込めて。彼はもっとも大切な友人、その友人らが乗った波、そして愛着の深いラ・ホヤをフィルムに収めてきた。

THE MATURATION OF CLOUD NINE
「クラウドナインの末路」
フィリピンの気まぐれな波は観光開発によって終焉を迎えるのだろうか?
文:マイク・チャンチウリ
かつてマイク・ボイヤムは、この長い海辺にある伝説の波へと静かに分け入った。冒険家からコカインの密売人に成り下がったことで名を知られたこの男は、悪い連中に報奨金をかけられ逃走していた。彼の人生はその時点で、すでに兄弟にGランドの場所を地図上にピンで示していたし、ドラッグの取引などで服役も経験していた。彼が追求していたものは3つあった。隠遁生活、霊的修行、そしてサーフィンだった。彼の日誌によると、形而上学的領域が彼を凌駕し、43日間の断食によって急速に痩せ細った。
 もし断食がボイヤムを死に至らしめなければ、彼はいまでもこの地に潜んでいたかもしれない。今日では、多くのツーリストがボイヤムのレガシーを踏みつけてボードウォークを歩いている。もしくは椰子のビーチフロントでオーガニックジュースやエスプレッソで喉を潤している。きっとボイヤムも、墓の下で笑っているはずさ。

Portfolio: Corey Wilson
ポートフォリオ:コーリー・ウィルソン
CASE STUDY
カリフォリニア出身のトップシューターによる15枚の近作。
コーリー・ウィルソンは、US『サーフィン』誌のスタッフやリップカールをベースに仕事をしているフォトグラファーだ。ここに並べられた彼のすばらしい作品のご堪能ください。

そのほか、サーフアートのパイオニア、マイケル・ドーマーの作品集を取り上げたアート・コーナー、「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」や、1970年代、プロサーファーとした活躍したパワーサーファー、ジョナサン・パールマンの半生、「荒海の格付け」。そして、サーフィンを通してメキシコの小さな村人たちの古い考え方と戦う女性教師、マイラ・グアダルーペ・アグイラ・ビラヴィセンチオのストーリー、「ラ・マエストラ」など、今号も話題のストーリーが満載です。
1,935円
2,090円
<フィーチャーストーリー>
2020年の東京オリンピックではサーフィンが新たな競技種目に加えられることとなったが、はたしてサーフィンというスポーツはオリンピックの場で競技として成立するのだろうか?今回の日本版のオリジナルコンテンツは、辛口の論評で知られる『F+』の編集長、つのだゆきが、サーフィンコンテストとサーフィンのもつ特殊性、文化について論じた。

Doing Your Best Isn't Enough
「サーフィンって、なんだろう?」
スタイルを問わない、10点満点の矛盾。
文:つのだゆき
かれこれ25年近く、WSL(World Surf League)のワールドツアーばかり見てきた。国内プロツアー・フルフォローの時代を加えれば、30年以上になる。人生の半分以上の時間を、サーフィンコンテストを見て記事を書く、あるいはその写真を撮る、という仕事をしてきた。わたしにとってのサーフィンはイコール・コンテストであって、ルールにのっとった競技であり、スポーツである…であるはずだと思っていたし、そう思うことがほとんどだが、近年WSL体制になって、サーフィンが、というよりワールドツアーがどんどんメジャー化をめざし、賞金額を上げ、選手のステータスを上げ、メディアをコントロールし、サーファー同士の、おなじサーフィン業界の仲間的なれ合い要素をどんどん省き、純粋に興行目的のプロスポーツとしての道を歩みはじめると、否定はまったくしないけど、払拭しがたい違和感が付きまとうようになった。サーファーって、そんなご大層なもの? みたいな。

つづいて紹介する特集は、文化評論家でライターのルイス・ハイドは、与える経済の価値について、著書の『The Gift』で、物を無償で貸し借りすることでコミュニティが形成されるという。「商品を売るのではなく、なにかをプレゼントすることでそれに関わる人々のあいだになんらかの関わりが生まれる。あるグループのなかで物が循環すると、繋がりが繋がりをよび、相互の関係が広がっていく」。著者のカイル・デヌッチオは、それをサーファーたちのサーフボードの貸し借りとサーフ・コミュニティに置き換えて、話を展開させる。
The Gift
「ギフト」
自ら課した孤独な波との取引、そして一本のシングルフィンが教える現代のサーフカルチャー。
文:カイル・デヌッチオ
そのボードは150ドルだった。ある夜、サンディエゴでいつも波乗りしていたビーチの暗くなった駐車場で、ある男が売っていたものだ。男はトラックの前でぎこちない様子で板を持っていた。たとえば、使ったことのない大きなチェロのようなものを持つ感じだ。どこかで盗んできたのか、フリーマーケットで買ってきたのか。ぼくは訊ねなかったが、板の状態からするとどこかのゴミ箱から拾ってきたものかもしれなかった。それはボロボロで醜(みにく)い5’10”のシングルフィンだった。

1991年にトム・サーベイによって撮影されたトム・カレンのカットバックは世界中のサーファーに衝撃を与えた。そのトム・カレンが乗っていたサーフボードはモーリス・コールがシェープした7’8”ピンテール。予期せぬ幸運から生まれたサーフボード・デザインの裏話をニック・キャロルが解説する。
The Reverse Vee Project
「リバースヴィー・プロジェクト」
文:ニック・キャロル
写真:トム・サーベイ
出来事の全貌に後になって気づくことを後知恵(あとぢえ)という。しかし、真実は理解しがたいところに隠れているものだ。1991年後半にモーリス・コールがトム・カレンのためにシェープした7’8”ピンテールは、ふたりのコラボレーションによって起こるべくして起こったようにみえる。だがこのサーフボード・デザインにまつわる出来事には、にわかには信じがたい真実があった。これには「形態は機能に従う」という賢者の言葉があてはまる。その時代を引き剥がしてみよう。まず注目するのはふたりの対照的なキャラクターだ。ベルズビーチ出身の野生的でエネルギッシュなサーファーと、メディア嫌いなサーフィン新王朝カリフォルニアのプリンス。しかも彼らは偶然西フランス南部で活動していた。しかも彼らには究極のハイパフォーマンス・クイバーをコラボレーションで開発するというような目的はなかった。いや、まだなかったが、けっきょくは開発した。

オーストラリアの1960年代のサーフシーンにおいても、まだまだ発掘されていないお宝の写真がたくさんあった。今回、ジョン・ペニングスによる懐かしい写真のかずかずを紹介しよう。
Some Minor Windfalls
「ちょっとした棚ぼた」
ジョン・ペニングスの1960年代半ばの記憶。
文:アンドリュー・クロケット
写真:ジョン・ペニングス
2010年、靴の箱に入れられたジョン・ペニングスのアーカイブは、シドニーにある彼の自宅のガレージに保管されていた。ぼくがしつこく頼み込んだおかげで、このアーカイブは、埃を払われデジタルスキャンされることとなり、写真は2015年に『Switch Foot: The Other Side Of Surfing 1960-1976』という書籍として出版された。ジョン・ペニングスが、ミジェット、ナット、マクタビッシュ、ボビー・ブラウン、ボブ・ケナーソンのほか、1960年代のノースシドニーのスタイリストたちを撮影してから50年が経つ。彼が撮影した北ニュー・サウス・ウェールズのだれもいないラインナップも同様に象徴的なものとなり、はるか昔、混雑する前のオーストラリアのサーフィンの記録的価値があった。彼はサーフメディアがまさに夜明けを迎えようとしていたそのときそこにいたのだった。

Spirit of the Green Dragon
「グリーンドラゴンの精神」
陶芸家ジョー・スコビーとラ・ホヤに残るアートコロニーの面影。
文:リチャード・ケンヴィン
ラ・ホヤを訪れておきながら、グリーンドラゴン・コロニーを見ずして帰るなんて、もったいないにも程がある。グリーンドラゴンこそはラ・ホヤそのものであり、ラ・ホヤこそグリーンドラゴンそのものなのだから。 -『ザ・サンフランシスコ・クロニクル紙』 1901年
ジャック・オー・ランタン、人形の家、ウグイスの巣、ノアの箱舟、切妻屋根の家。これらは100年以上前にアンナ・ヘルドが建てた木製のバンガローそれぞれに付けられた名前だ。どの名前も、ヘルドの洗練されたヴィクトリア朝時代の精神と、過ぎさりし夢の切なさとを彷彿とさせる。最初のバンガローであるノアの箱舟は、アーヴィング・ギルの設計によるもので、1894年に建てられた。プロスペクト通り沿いの、ゴールドフィッシュ・ポイントを見下ろす丘に並んで建てられたバンガローは、最終的には11棟にまで増えた。ヘルドの家をよく訪れていた、イギリスの女流作家で女性解放運動家のベアトレス・ハーレードンによって「グリーンドラゴン・コロニー」と名付けられたこのバンガロー群は、アーティストや作家に無料で開放された。

The Man From Scum Valley
「スカムバレーから来た男」
ボンダイビーチで花開いたアント・コリガンの半生。
文:ピーター・マグワイア
2009年、仕事でシドニーを訪れていた私は、ボンダイビーチへと足をのばし、古き友人のアント・コリガンを訪ねた。大人の自覚を求められ、プレッシャーがのしかかる前、なにも気にせず自由気ままにサーフィンを楽しめた1984年のニュー・サウス・ウェールズ(NSW)北部での日々は、今思えばとてもマジカルで至福のときだった。現在このホームタウンを牛耳る“ボンダイ王子”とやらよりも、アント・コリガンという男はよほど典型的な、それこそネッド・ケリーを彷彿とさせる不良オージーだった。デレク・ハインドの著書にこうある。「彼はコング(ギャリー・エルカートン)登場の以前からコングそのものだった。兄の台頭をきっかけに、彼ほどボンダイビーチを象徴する存在になった者はほかにいない。なぜオージーサーファーが、何世代にもわたって世界で活躍しつづけられるのか、その理由の本質がコリガン兄弟に象徴されていたと思う」

Primo
「プリモ(プリモ:孤高の存在という意味)」
ハワイ時代のブッチ・ヴァン・アーツダレン
文:ダグラス・キャバノー
ハワイへ旅立つために何年もかけて周到に準備を重ね、せっせと資金を貯めたブッチ・ヴァン・アーツダレンは、現地の映像を穴が開くほど見て、熱心に先達の話に耳を傾け、マンモス級の大波に想像を巡らせてきた。そしていよいよ転機が訪れると、彼はホノルル空港に到着する日時をマイク・ディフェンダファーとパット・カレンに伝え、旅に同行する仲間を探した。計画に飛び乗ってきた友人のジョージ・ラニングとともに航空券を買い求めたブッチは、ウィンダンシーのサーファーだれもが憧れる夢の冒険に向けて荷づくりをはじめた。そしてその夢は、現実となる。

Portfolio: Mark Mcinnis
「マーク・マッキニスの世界」
1,935円
2,090円
<フィーチャーストーリー>
ウッディ・グーチ、オーストラリアはヌーサ出身の21歳の若きサーフ・フォトグラファーの作品が、ザ・サーファーズ・ジャーナルのポートフォリオに取り上げられた。彼は現在、東京をベースに活躍しているサーフィン界新進気鋭の注目株だ。

Portfolio: Woody Gooch
サーファー目線の視点が新鮮なイメージを創り出す
文:デボン・ハワード
17歳のとき、ローチのスポンサーのDeus Ex Machinaが制作していた『I Had Too Much To Dream Last Night』というフィルムプロジェクトのために、ローチとともにジャワに向かった。Deusのブランド・ディレクターであるダスティン・ハンフリーは、ジャワで初めてウッディと出会う。そしてそこで、1週間に10,000ショットを撮影する彼の姿を目撃したのだ。Deusの次のフィルム『South to Sian』の制作の仕事で、インドネシアをハリソンとザイ・ノリスとともに旅するワイルドな数カ月にわたるロードトリップ・プロジェクトだった。サーフィンとダートバイク・アドベンチャーの一部始終を映像に収める作業の見返りに、ダスティンは、ウッディに自分の有するフォトビジネスのノウハウすべてを伝授した。

つづいて紹介する特集は、当時ハワイの超有名人だったデューク・カハナモクがいかに白人たちに利用され、人種差別を受けつづけたかという、デューク・カハナモク論だ。1925年に製作された無声映画『ザ・ポニー・エクスプレス』で、“インディアン・チーフ”役を演じたデューク。有色人種の主役への抜擢が禁じられていた当時のハリウッドで、彼は脇役として異なる民族の役柄を押し付けられた。

Duke’s Ulcers
「デュークの葛藤」
ハワイが輩出したサーフィン界の絶対的アイコン。体(てい)のいい仕事に甘んじたあげく、いいように宣伝に利用され、人種差別に耐え抜いた波乱の生涯を振り返る
文:スティーブ・ホーク
デュークはカメハメハ大王と首長の末裔(まつえい)として1890年に生を受けた。1世紀ほど遡った当時、80万人近くいたハワイ先住民は、西欧の探検家や宣教師などが持ち込んだ病原菌によって人口およそ4万人にまで落ち込む。デュークがまだよちよち歩きの頃、裕福な白人の一団が陰謀を図り、ハワイにおける最後の君主、クイーン・リリウオカラニを失脚させた。米軍が介入すると偽って脅しをかけ、自らを公安委員会とまで名乗った裕福なハオレ(白人)たちのはったりに女王は屈服し、流血沙汰を避けるべく平和裏に政権を明け渡すことにした。それ以降、太平洋の島国はアメリカ合衆国に組み込まれ、現在に至る。


ハワイのビッグウェーバー、マーク・ヒーリーが新たなビッグウェーブ用のガンのデザインをシェーパーたちと模索しはじめた。そのわけは?

THE HEALEY VARIATIONS
「マーク・ヒーリーのガン・ボード開発」
ビッグウェーブ・トップガンとシェーパーたちの新たな取り組み
文:ジョック・セロング
写真:ジョン・ビルダーバック
昨年末、マーク・ヒーリーがeメールを送ってきた。文面はシンプルだが、その内容に私は少し驚かされた。彼は通いなれたサーフポイント、ピアヒ、プエルト、マーヴェリックス、そしてトドスでラインを描くことにもう疲れてきたと述べていたからだ。「ビッグウェーバーのトップたちはパフォーマンスの限界に達しているんだ」と彼は言う。「今やっていることってお決まりのガンに乗って、ただアグレッシブにサーフすることだけなんだよね」
 エルニーニョによる不気味な波がブレークするウインターシーズン。ヒーリーは3人のお気に入りシェーパーにコンタクトを取った。サーフボードの新しい可能性を広げるため、あえて定説を無視したボード作りを求めたのだ。ストレートラインのサバイバルから一歩抜け出すための可能性を彼は模索しはじめた。

Divine Detail
「ディバイン・ディテールス」
わが編集部のトップ・フォトエディターが発見した、新たな記録と記憶
写真、文:ジェフ・ディバイン
パイプライン、1974年。当時は、だれもが何本もボードを持てなかった。よって、ボードも友人同士でシェアするのが当たり前だった。だから“折ってしまった者が弁償する”、そんな暗黙のルールが存在していた。もしボードが真っ二つに折れてしまった場合、容疑者はできる限りの手を尽くしてその事実をひた隠しにした。しかし、いずれ交渉はスタートする。人によっては、現金はないが、それ以上に大量のハッパをストックしている輩も多くいた。大抵の場合、現金200ドルとハーフパウンド(約227g)のゴールド・コロンビアン(マリファナ)で片が付いたものだ。このスリーストリングス・ブルーワーのボードもだれかにとって高くついたことだろう。

West As All Hell
「地の果て西部へ」
カリフォルニア開拓地への帰郷
文:デイブ・パーメンター
ハワイ諸島に移り住んで約20年が経過した頃、ようやく私は、故郷の西海岸カリフォルニアの地に立った。ネイティブ・カリフォルニアン3世として、太平洋のど真ん中に位置する小さな諸島で育まれたメンタリティを胸に、シエラマドレ山脈の麓に位置し、すてきな海岸線に面したこの地へと戻ってきたのだ。そして気づいたのは私の故郷が、ヤシの木に囲まれたハリウッドのオープンセット、世間知らずの観光客が好んで訪れるような、そんな馬鹿げた要素は、今やまったく皆無だということだった。

今号のオリジナルコンテンツは佐藤秀明のポートフォリオだ。佐藤秀明は『サーフマガジン』誌創刊から活躍した日本で最初のサーフ・フォトグラファーだ。 “North Shore: As It Was, As It Is”は、1970年から1980年までのハワイ・ノースショアを記録したものだ。この時代のノースショアは、ショートボード・レボリューションを経てパイプラインをはじめとするインサイドのリーフブレークにおけるサーファーたちのパフォーマンスが飛躍的に発展した時代で、またノースショアという実験場によってサーフボード・マニュファクチャリングもまた進化を遂げた時代であった。

North Shore: As It Was, As It Is
「ノースショアのゴールデン・ディケード」
佐藤秀明が記録した、ハワイ・ノースショアがもっとも輝いていた時代
文:森下茂男
佐藤秀明がサーフィンという存在に興味をもったのは、なんとニューヨークでだった。日本大学芸術学部写真学科を卒業した佐藤秀明は、1年間アルバイトをして貯めた資金を握りしめてニューヨークへ向かう。「1968年だったかな、3ヶ月ぐらいで帰る予定でニューヨークに行ったんだ。でも、着いてすぐにお金などすべて盗まれてしまったので、しょうがないからバイトをして暮らしているうちにだんだんニューヨークが面白くなって、けっきょく3年近く、マンハッタンのあちらこちらを点々としていた」と言う。
1,935円
2,090円
ピックアップ・コンテンツ
かつてTSJがひとりのサーファーにたいしてこれほどのページ数(32ページ)をさいて特集したことはなかった。なぜ、今、TSJがジョン・ジョン・フローレンスを取り上げるのか、それは彼の活躍ぶりを見ればご理解いただけると思う。

Look at John John!
「ジョン・ジョンを見ろよ!」
文:チャズ・スミス
すべてを巻き上げながら切り立つ恐ろしい波にたいして、なに食わぬ表情で淡々と波に乗る彼の姿は信じがたい!つまらなそうな表情に、努力の微塵も感じられない様子でパンプしたときのあいつのスピードを見てくれ!それはまるでレーシングカーやロケットさながらさ!セクションをヒットして、凧に乗ったかのように空高く舞い上がったと思えばしっかりランディングする彼の姿を見てくれ!そして信じられない高さからランディングを成功させる。その年齢ではあり得ないほどつねに冷静で、いつもクールな彼のサーフィン。クレーム(自分のスゴ技をアピールするような仕草)は一切せず、ナルコレプシー(睡眠障害者)の患者があくびをするかのごとくルースな彼のスタイル。そんな最高にクールなサーフィンを、いったい彼はどこで学んだのであろうか?

つづいて紹介する特集は、ジェリー・ロペスによるディック・ブルーワーとの交友録である。このストーリーはこの10月にパタゴニア出版から発売されるジェリー・ロペスの『SURF IS WHERE YOU FIND IT』からの抜粋だが、ハワイサイドからみたショートボード・レボリューションの様子が、シェーパーとしてのジェリー・ロペスとして書き記した貴重なストーリーとなっている。

RB
「ディック・RB・ブルーワー」
ハワイのショートボード・レボリューションを牽引したディック・ブルーワー
文:ジェリー・ロペス
サーフィンの未来を予見させるようなブルーワー・シェープの8'6"が登場して以来、その進化は止まることなく、サーフボードもライディングも、元の姿に戻ることはなかった。革命の火ぶたは切られ、わたしはその場に居合わせる幸運に恵まれた。

さて、シェーパーのストーリーは今号のキーポイントだろう。ランディ・ラリックがシェーパーの道を歩みはじめたきっかけが、ボード修理だった。そのとき付けられたニックネームが「スーパーパッチ」。以来、彼はいまでも「スーパーパッチ」なのだ。

Super patch
「スーパーパッチ」
廃棄寸前のログをランディ・ラリックが魅力的なダイヤモンドに磨き上げる
文:ベン・マーカス 
写真:ジアンカ・ラザルス
ランディ・ラリックがいままで経験してきたさまざまなエピソードは一冊の本になるだろう。だがその彼の経歴の発端となったのは、子供の頃、サウスショアでサーフボードのリペアをスタートさせた当時に名付けられた彼のニックネームにある。「サーフラインの立ち上げは1964年。オープンと同時に店の裏にリペアショップも開いたんだ。私はそこで雇われて週末だけ働くことになった。それで“スーパーパッチ”というニックネームを付けられたんだ」

さて、もうひとつ、日本版のオリジナルコンテンツとして取り上げたシェーパーがリッチ・パベル。彼は、おなじ南カリフォルニアのシェーパー、スティーブ・リスが生んだフィッシュのコンセプトを発展させ、クアッド・フィッシュをという新たなカテゴリーを築き上げたシェーパー・デザイナーだ。しかし,李リョウのインタビューでもおわかりのとおり、パベルはレトロツインフィンやスピード・ダイアラーなど、ボードデザインとフィンのマッチング、その関係の重要性に着目し、発展させてきたのだ。映像作家・李リョウはフォトジェニックな文章を紡いでいる。

Improvisation
「リッチ・パベルの即興」
サーフボードをハンドメイドでつくるマエストロふたり。イメージが先行するアートフルな作業は音楽のアドリブのようにリアクションする。
文:李リョウ
「いつのまにか私にはレトロフィッシュのゴッドファーザーというありがたくない呼び名がついてしまった。最初にそれを耳にしたときは思わず聞き直してしまったよ。“えっ、今、何ておっしゃいましたか?”ってね」とリッチは苦笑いをしながら首を横に振った。「確かに私は過去のツインフィンをモディファイしたが、それは作品のひとつにすぎないんだ。もちろんゴッドファーザーなんかじゃないし。私は自分のことをサーフボードデザイナーだと思っている」

Primordial Range
「永遠の山脈」
ローガン・マリーのコロマンデル半島の美しき原風景
文:ローガン・マリー
道路や建物はおろか人のつくった干渉物は一切なく、巨大なポフツカワの木や細く高いニカウパームが獣道を覆う太古からの森の果てに、その白砂の海岸はひっそりとある。人ひとりがやっと通れる細いトレイルを抜け、森から海に落ち込む急斜面の先で何千年ものあいだ、変わることなく割れつづける頭サイズのパーフェクトウェーブ。プロジェクトの撮影のために私は冬の数カ月間、ひとりでこの波を体験した。そして生粋のキウイ(ニュージーランド人)として、かつてこの国のすべてがこのような自然そのものだったのだということに、改めて気づかされる。キャプテン・クックが半島の鼻先をかすめて航海していった時代から変わらないこのビーチは、景色、歴史、生活様式において、ニュージーランドでもっとも原風景を残すサーフリージョンであるというのは言い過ぎだろうか。

 ほかにも、スティーブ・ペズマンによる最後のカリフォルニアのウォーターマン、バド・ヘドリックの半生を描いた「扉が開くとき」、そして1970年代、パーフェクトウェーブを求めて世界を放浪したゴールデンエイジたちの足跡を描いた「サーファーたちの旅立ち」など、今号も見どころ満載です。
1,935円
2,090円
Town Abides
「タウンは変わらず」
ワイキキのリーフ、ストリート、人々、周辺地域。心と身体の帰還
文:デビッド・ウォング
ぼくは島から7年間も離れ、メインランドに住みついたケイキ・オ・カ・アイナだった。ぼくはようやくここへ帰り、砂をかぶりひび割れたカイザースの駐車場を歩いていた。シャワーの前を通り、小さなビーチへ向かう。ポイドッグをなでて、深呼吸してストレッチをした。サムライ全員が撃たれる映画の話をしているアンクルがいた。あっという間に干からびる水たまりに捕まった蜂がもがいている。チャンネルをカヌーが走っていった。岩の上では大きなカーキ色のパンツを穿いた中国人が太極拳をおこなっている。ロングボードのワヒネがあまりにも美しく波に乗るので、ぼくは若返った気分でちょっとウキウキした。死んだリーフは沈んだ墓地のようだった。

Spacetime
「スペースタイム」
波の一生を一枚の写真で表現する写真家、ジェイ・マーク・ジョンソン
文:ジョン・デュラント
ジョンソンは写真家ならだれもが夢見る人生を送っている。人の心を瞬時につかむ彼の作品は、この世のものとは思えない。それらはLAでもっともヒップなギャラリーに展示されており、物理学者や美術史家といった人々が、ニトロ入りの言語で論理的批判をくり広げる対象にもなっている。まるで視覚パズルのような彼の作品は、ぼくたちが持ち得る写真の知識や時間という概念に挑戦してくる。

When The Baseline Thumps
「ベースが鳴り響くとき」
木工室からヒップホップまで…、ショーン・ステューシーの半生
文:クリスチャン・ビーミッシュ
「ベースが響くと鳥肌が立つ」。ステューシーおなじみの字体で書かれた広告のキャプションだ。横にはブリッツによって瓦礫の山となったロンドンの街に佇む、イギリス人学生と思われる人物を捉えた古い写真が並んでいる。写真とそのメッセージは、ピンテールのシングルフィンをシェープしていた事実からはあまりにもかけ離れているように思える。1973年ごろ、彼はハンティントンビーチのクオンセットハットにあったラッセル・ブラザーフッド・サーフボードで働いていた。しかし、いずれにしても「ベースが響く」ことに達したのは、彼の音楽的嗜好の進化の過程では当然の帰結だった。

Get Busy Living
「全力で生きる」
シェーン・ドリアンの肝っ玉物語
文:ジェイミー・ブリシック
ポートレート:ショーン・デュフレーヌ
その日の午後、ぼくは真っ青の水平線と同化したインフィニティプールの、カフェフラというオープンテラスのレストランでシェーンとリサに会っていた。ぼくはリサに、モンスターウェーブに乗るのが仕事の男と結婚生活を送るのはどんな感じなのか訊ねてみた。タンクトップに黒髪で優しそうな顔をした彼女は肩を震わせながらこう言った。「怖いわ。ものすごく不安だし、ぜんぜん楽しくない。わたしの母がいい表現をしていたわ。わたしは兵士の妻のようだって。家族のためにわたしがしっかりしないと、シェーンが仕事に集中できなくなってしまう。シェーンが居ようが居まいが、わたしに家庭を引っぱる意気込みがないと成りたたないのよ。だっていつ彼がスウェルに呼ばれるかなんてわからないから」

Tagalog Connection
「タガログコネクション」
1980年代終盤、フィリピンにサーフキャンプを建てたひとりの日本人
文:李リョウ
1980年代の終わりごろ、「あそこは波の宝庫」と聞いただけでフィリピンにサーフキャンプを建てた日本人がいた。当時、まだクラウド9もモナリザも発見されていなかったフィリピンは、マルコス政権が倒れ、マニラにはゴミがあふれ、政情は混迷を極めていた。それでも男は、ゲリラが出没する峠を越えて海辺の町バレアをめざした。そこは映画『地獄の黙示録』のロケがおこなわれた場所で、辺りのジャングルは黒焦げになっていたという。これはその男の足跡と再訪のストーリーだ。

Where Silence Reigns
「静寂が支配する場所」
音のエコロジスト、ゴードン・ヘンプトンが守りたい、1インチ四方(2.5㎠)の静寂の地
文:ギャヴィン・エーリンガー 
写真:ショーン・パーキン
シアトルのピュージェット湾を見下ろす、湯気が立ちこめるカフェ。皿のぶつかりあう音、卵の焼ける音、人々の賑やかな話し声。そんな音の中に、霧を晴らすような勢いで船の霧笛が響き渡る。静寂の保護を使命とする男と、この音の渦の中で会っているなんて、皮肉ではあるが、じつは最適な状況なのかもしれない。1インチ四方の静寂を守るということ。それは、とても壮大かつ無謀な任務であることを、ぼくはすぐに知ることになる。

The Big Wave Riders Of Hawaii
「ハワイの大波に挑むビッグウェーバーたち」
ベルナード・テストメイルによるコロジオン湿板(しっぱん)写真
文:ジェイミー・ブリシック
「サーフィンの世界は最後の自由の楽園だ」とテストメイルは言う。彼のコロジオン湿板写真への情熱は裏返せばデジタル写真への失望だ。ポートレートにたいし思いやりや目的意識の高いアプローチを切望していた時期、写真技術の歴史を徹底的に学び、ビッグウェーブ・サーフィンと相通ずるプリミティブで人と自然が対峙する瞬間を切り取る湿板写真にたどり着いた。
1,935円
2,090円
The A-Frame Strike
「Aフレームの攻撃」
写真:アンドリュー・シールド
クレイグ・アンダーソン、”吠える40度(ローリング・フォーティ)”にて
その旅は、夜の7時にニューキャッスルからはじまった。ニュー・サウス・ウェールズの海岸を南下してふたりの友人をピックアップ。それから翌日午後のメルボルン発のフライトにむけて、飛行場までの夜を徹した16時間ぶっ通しのドライブがはじまった。ぼくは、夜中の2時から夜明けまでの地獄のシフトをこなした。徹夜のドライブは初めてだったが、友人たちは慣れっこで、 この季節にはごく普通のことのようだった。真夜中の車中はクレイジーでエキサイティング 。コーヒーに大音量の音楽、全員が眠らないことがポイントで、状況に身を委ねれば相当笑えるものだった。これはAフレームで知られる島へのショートトリップの、フィナーレの記録だ。

What The Hell Is A Waterman?
「ウォーターマンっていったい何だよ?」
サーフィンの世界でもっともよく使われるこの言葉を検証してみよう
文:ブラッド・メレキアン
もしもあなたが、ここ10年のあいだに頻繁に使われるようになり、しかもたいていの場合はしっくりこない使われ方をする “ウォーターマン”という言葉を聞いて首をかしげたことがない人なら、この言葉はあなたにとって、さほど重要な意味を持たないのかもしれない。しかしこの“ウォーターマン”というフレーズが、いまやサーフィン雑誌はもちろんメインストリームの出版物でも、マーケティングのキャンペーン(マーケティング・キャンペーンではとくに使用頻度が高い)や、媚(こ)びへつらう人物紹介、映画の中でも映画のトピックスでも頻繁に使用される、もはやちょっとしたセレブなみのステータスでまかり通っているという事実だけは、あなたも知っておいたほうがいい。

Return To Kamchatka
「カムチャッカ再訪」
ロシア最東端の地で遭遇したヒグマと密漁者と軍警察
文:サイラス・サットン
写真:ディラン・ゴードン
旧ソ連製のヘリコプターで雪に覆われたいくつもの岩の峰を越えると、眼下に大きな湾が広がった。3年近くグーグルアースとにらめっこしてきた目当ての波は、この湾のいちばん奥にある。旅のメンバーは、ガールフレンドのアンナ・アーゴットとカムチャッカで最初のサーファーとなったアントン・モロゾフ、それにぼくが親しくしているカリフォルニア州ベンチュラに住むフォトグラファーのディラン・ゴードンだ。河口周辺をゆっくり旋回するヘリから見下ろすと、深い森林に覆われた崖の下で一見パーフェクトな波がアシカの群れに割って入るようにブレークしていた。前回目撃したサメは、すくなくとも今は見当たらない。

In The Pink
「ピンクに染まって」
ピーター・タウンネンドは、生涯輝きつづける人生を送っている
文:フィル・ジャラット
ポートレート:ショーン・デュフレーヌ
ピンクのシャツに身をつつんだずんぐりむっくりの男。いかしたスニーカーを履(は)き、しっかりした足取りで群衆をかきわけ進むその姿は、さながら田舎の政治家が選挙遊説にのぞむ雰囲気を醸(かも)しだしている。つねに笑顔であっちにシャカし、こっちに握手し、群衆のなかをスマートに練り歩く。PTは、忙しそうにその会場にいる人たちとあいさつを交わしていた。彼がプロサーフィンの初代チャンピオンになってから約40年、いや、そのもっと前から彼はずっとこれをやっているのだ。彼は、その文化と歴史が築きあげてきたヒーローにヒール、勝者と敗者、貧しい者から億万長者まで、分け隔てなくこのスポーツのためにできるかぎりを尽くしてきた。

Gallery: Thaddeus Strode
ギャラリー:サディアス・ストロード
「自虐的再発見」
ウエストLA発、サーフ表現主義—その衝撃的万華鏡
文:アレックス・ウェインステン
サッド・ストロードのアートを、親と喧嘩した怒れるティーネージャーみたいだと安易に理解しないでほしい。ニキビ面の子供たちにも理解が必要だし、それは愛があってもなにもわかってない親みたいなものだから。彼のアートが未熟で洗練されていないわけではない。むしろその逆だ。じっさい彼の作品は挑戦的かつ天才的な構図が特徴で、それは最先端アートとはなにかを主張する。そこにルールはない。即興性を重視し、技術的には平易さを避け、遠慮ない直接的表現を選ぶ。つまりパンクなのだ。

Beach House For All Seasons
「終わりなき夏のビーチハウス」
21世紀の湘南に生まれた、サーファーによるサーファーのための空間、"surfers(サーファーズ)“という名前のビーチハウス。
文:森下茂男
海の家というのは日本のビーチカルチャーだが、時代の流れのなかで海水浴客のニーズによって変貌し進化していく。昭和から平成へ、海の家は家族連れがくつろぐスタイルから、若者たちが音楽を聴きお酒を楽しめるカフェバー・スタイルへと変化していく。こうした流れのなか、2009年にサーファーズという、サーファーたちの手による海の家が逗子海岸に登場する。それはサーファーの持つビーチカルチャーと日本独自の海文化が融合したものなのだろう。サーファーズが誕生する際にマスターピースとなったライブハウスがある。それが1999年に金沢文庫の国道16号線沿いにオープンしたロード&スカイというお店だった。

Ntando
「ンタンド」
南ア、ダーバンのストリートから出現した“ボーンフリー”サーファー
文:ウィル・ベンディックス&サモオラ・チャップマン
ダーバンの海岸線には、あちこち歯が抜けたようにデコボコに建物が並ぶ。ゴールデンマイルと呼ばれる長い砂浜に沿って、高層ホテルと億ションが競うように軒をつらね、またそれとは対照的なオンボロアパート群が何ブロックもつづく光景が混在する。その下にはインド洋に突き出たコンクリートの埠頭や桟橋、そして何世代にもわたって南アフリカのサーファーたちを育ててきた波がある。ンタンド・ムシビと出会ったのがそこだった。桟橋がつくるレフトのボウル、そのなかでスプレーを上げていた。両腕を垂らし、安定した姿勢でのボトムターンからリップを切り裂き、テールを蹴ってスムースにフラットゾーンに着水、という彼のその日のラストライドは、まさに彼そのもの。連続スピンで、次、そして次のターンへと移っていく彼の細くしなやかな身体は、まるでゴムでできているかのようだった。10年前、ムシビは、ダーバンの街頭で、道行く人に食べ物とお金を無心するというその日暮らしの日々を送っていた。ドラッグにはまり、危険な状況がつづくサバイバルな日常。「そこで寝泊まりしていたよ。スケートパークでさ」ビーチフロント沿いの落書きだらけのセメントの壁を指差しながら彼は言う。

Spark In A Revolution
「ショートボード革命の閃光」
1968年のプエルトリコは、最先端をいくサーファーたちの、サーフボードの未来を占う戦いでもあった
文:ナット・ヤング
1968年にプエルトリコで開催されたワールド・サーフィン・チャンピオンシップは、言い換えればショートボード革命の国際的なデビュー戦だった。しかしこの革命は、サーフボードの長さだけではなく、正確にはさまざまなデザインのコンビネーションによる、新しいサーフスタイルの幕開けと捉えてしかるべきだ。この世界戦の50周年を前にこれを再考することは、ひじょうに意義あることだと思う。

Portfolio: Tatsuo Takei
ポートフォリオ:竹井達夫
「20年前の生き方」
時代を逆行させるセンチュリー650mmレンズのむこうにみるモダン・ノスタルジア
文:デボン・ハワード
43歳の竹井達男の生き方を決める大きなきっかけとなったのは、ジョン・ミリアスの映画『ビッグ・ウェンズデー』だった。1989年にマットとジャックとリロイの世界を垣間見てしまったこの日本人は、ミリアスが描いた‘60年代カリフォルニアのライフスタイルを追求することにしたのだが、彼をとくに魅了したのは彼らが使っていた道具だった。その色彩とデザインの美学、そしてそれが水の上を動く様子。エンドロールを見ながら彼は、この場所をみつけ、このボードに乗ってみたいという切なる願いを抱いた。
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商品情報・内容

  • 出版社:ライスプレス
  • 発行間隔:隔月刊
  • 発売日:奇数月末日
  • サイズ:A4

■ “SURF CULTURE”にフォーカスした世界で一番評価されているサーフィン雑誌『THE SURFER’S JOURNAL』の日本語版

『THE SURFER’S JOURNAL JAPANESE EDITION』は、米サーファーズ・ジャーナル社発行の隔月誌『THE SURFER’S JOURNAL』のフランス語に続く新しい外国語バージョンです。本物の“SURF CULTURE”を日本のサーフィン愛好家たちに向けて発信します。『THE SURFER’S JOURNAL』同様、美しい印刷で紹介される素晴らしい写真は読者を虜にすること間違いないでしょう。

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