―「人民中国」は中国のいまを知るのに便利な日本語雑誌ですが、「人民日報」と間違う人もいますよね。そもそもの貴誌の成り立ちを教えてください。
1953年の創刊号には周恩来の名前も
歴代支局長の私物が陳列されていた
よく間違われますが全然違う媒体です。「人民中国」は、もともと1949年に中華人民共和国が成立して以来、中国のことを諸外国に知ってもらうために発行されてきた、いわば広報雑誌です。
当時の時代背景から、なかなか中国の情報を世界に発信することは困難だったのですが、それでも50年に英語版(「PEOPLE‘S CHINA」)、51年にロシア語版を出しました。冷戦時でしたので、東西2つの大国の言語で出すことに意義があったのでしょうね。
日本語版が出せたのが53年です。出版元は当時の外文出版社(中華人民共和国国務院直属)ですが、日本では本当に多くの愛読者に支持されてここまでやってこられました。
私は1998年末に編集担当の副社長に任命され、2007年総編集長に任命されました。2001年から私が編集長を務めています。
―創刊当初といまとではかなり内容も違うのでしょうね。
リニューアルにはそれぞれの時代背景が
リニューアルにはそれぞれの時代背景が2
そうですね。「人民中国」は今年で創刊57年目ですが、創刊当時は世界的にイデオロギーの対立もあり、メディア自体が非常に硬いものでした。とにかく中華人民共和国という新しい国家の外交政策を、国交のない国々に伝えることが大事でしたから、いまとは様子が違いますね。
記事の内容をみても、創刊当初は中国の文化人や政治家の寄稿が中心でしたが、60年代に入ったころから日本人の寄稿も増えてきました。
中日関係は国交がない時代から、国交正常化や80年代初期のハネムーン時代を経て、いまやだんだんと「平常化」の時代にたどり着いたと思います。その全過程を見つめてきた「人民中国」は、時代 の変化や読者の新しいニーズに合わせて、何度かリニューアルを繰り返しています。
2001年にも新しい理念のもとで大きくリニューアルしました。オールカラーにして読みやすく、かつては中国発だったコラムも意識的に中国・日本が相互乗り入れできるようにしました。相互理解というのが編集上の需要なコンセプトですから。そうして中日複眼で世界を見るようになって、深みのある記事ができるようになったと思っています。
中国外文出版発行事業局の傘下で、「人民中国」のほかに「北京週報」「中国画報」の日本語版も長く出版してきましたが、これらは2000年にwebにシフトしてしまいました。
ですから「人民中国」はいま日本語の紙媒体として存続している唯一の媒体になっています。
―どういった流通をとっているのですか。
中国と日本で販売しています。日本では「東方書店」さんにディストリビューションをお願いしています。オンライン書店では富士山マガジンサービスさんにもお願いしています。
最初は中国で刷って日本に運んでいたのですが、05年からは中国と日本双方で印刷できるようになりました。
―読者はどういった人たちでしょうか。
基本的に中国に関心のある日本の人たちです。日本語を学ぶ中国人が読むケースも増えています。中国の大学で日本語教育をする場合、日本の教材を使う場合が多く、そのため現代をうまく説明できないといったことが多いんです。日本語の補助的な教材として、「日本語でいまの中国を説明する」能力をアップする役割を果たせますので、「人民中国」を読んでほしいと思って大学などに働きかけたりもしています。
また翻訳者を養成するというステージももっています。いまの中国語をいまの日本語にちゃんと翻訳できれば相互理解も深まるはずです。
―北京と東京にオフィスがあるわけですが、全部で何人のスタッフで編集しているのですか。
東京オフィスには2人が常駐
北京の雑誌の編集部は10人いますが、うち4人はカメラマンです。また、日本人スタッフを含めて翻訳・リライト部は9人います。東京支局は2人スタッフがいます。私は普段は北京にいますが、年に1回は出張で来日します。
そのほかにwebチームが5人いて、webサイトをつくっています(http://www.peoplechina.com.cn/)。今後、もっとお互い緊密に相互メリットがあるようなつくりにしていく予定です。webサイトのオリジナル記事もつくっていきます。
そして編集委員会というのが全体の上にあって月1回会議をします。そこで各部署から出てきた企画の検討をふくめた方針確認、戦略などを決めます。記事に関係する記者がそこに参加することもあります。
―取材や編集を進めるなかで、やりにくいことはないですか。
そんなにやりにくいことはないですね。「人民中国」はパパラッチしない雑誌ですから(笑)。
ただ、中国の地方などをよく取材するのですが、アテンドしてくれる人たちが自分たちのいいところばかりを見せようとするために、掘り下げにくい現実はあります。上海万博の取材でも、日本人と一緒に動いたのですが、日本人は厳しい質問をするのでとくに(笑)。
記事の中身に検閲があるのではないかと、よく日本の方から聞かれますが、事実上メディアが自主規制する場合はありますけど。 ただ、慣例に従う表記のチェックはあります。たとえば、「人民中国」の立場として「東シナ海」とは書きません。やはり「東海」と書きます。「内モンゴル」を使わずに「内蒙古」で表記します。
―読者ターゲットとか決めているのでしょうか。
本当は広報誌とはいえお金を出して買ってもらっている商業誌でもあるわけですから、読者ターゲットははっきりさせるべきなのでしょうが、なかなか絞り込めていないというのが現実です。
いま私は「3中」ということを言っています。「中年」「収入の中間」「政治の中間」です。ミドルエイジで平均的な収入があって、政治的には中間層の読者をアベレージと考えて編集しています。
―広告などもちゃんと入っていますよね。
そうです。中国を広く外国に紹介する国のPR媒体だといっても、ある程度商業的にも成り立つようにしないとダメだと思っています。いま広告は専門の代理店にお願いしていますが、webとの連動など、いろいろ知恵を使っています。
中国政府はわれわれのプロジェクトを支持してくれて、予算もつけてはくれますが、それだけでは不十分のところがあり、われわれは自分たちで努力して、いろいろ収入を確保するようにしているのです。日本の国立大学みたいな感じですよ。
―王さんは東京大学でも学ばれていますね。編集希望だったのですか。
はい。日本語を学ぶきっかけは高校2年のときです。私のいた瀋陽の高校には日本語クラスがあったんです。大学は吉林大学ですが、高校からの流れで日本語をとりました。ここではかなりまじめに勉強して大学院までいきました。日本語を学ぶうち、文化交流の仕事にがぜん興味が沸いてきて、編集の仕事に憧れるようになったんです。
そして89年に「人民中国」に入れてもらい、翻訳部からスタートしました。
それから日本外務省の招待で中国青年記者訪日団のメンバーとして初めて日本を訪問しました。湾岸戦争が終わった日で、読売新聞の号外をもらったのを覚えています。
でも日本の第一印象は、こりゃ大学で学んだ世界と違うなというものでした。やはりアカデミックな世界ではとても理解できない現実世界がそこにはありました。谷崎の陰翳礼賛的な世界は現代の東京とぜんぜん違いますね。日本はわれわれが学んだ以上に刺激的でおもしろい。これをしっかり伝えないとと思いました。
それから東大で1年学びましたが、ここでは様々な文化交流の機会や友人に恵まれ、わたしの元来のオタク志向(笑)とも合致して、いまの仕事の礎になっています。
私は四方田犬彦先生の「日本映画史100年」を中国語に訳しましたが、これなどは中国で映画関係や学生などにかなり影響を与えていると自負しています。
―かつて台湾や香港などでオタク・カルチャーの取材をして驚いたのは、日本人以上にいまの日本文化を知っている若者が多いということでした。
北京も同じだと思います。私もジャパンフリークですから(笑)。
―そうしたらwebだけじゃなく携帯コンテンツなどももっと考えていったほうがいいですね。
中国では携帯でニュースや小説を読む人が増えてきましたね。これからiPadなどが広がっていくと、ますますその傾向は加速すると思います。
日本では地下鉄などで、みな黙々と携帯で何か読んでいますね。メールしたり。ゲームしたり。
ところが中国の地下鉄だと、携帯で話し合う風景が随所見られ、やっぱり両国のマナーはだいぶ違うというところが面白いです(笑)。でも、最近地下鉄の中で携帯でニュースを読み、音楽を楽しみ、ゲームをする若い人が多くなってきましたね。
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1.Pen(阪急コミュニケーションズ)
雑誌全体のセンスがいい。流行がしっかりつまってる。
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2.ニューズウィーク日本版(阪急コミュニケーションズ)
国際ニュースを米国の視点でしっかり見られる。立場が違ってもプロのジャーナリスト精神がある。
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3.編集会議(宣伝会議)
編集のノウハウの参考になるので、うちのスタッフも読んでます。
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4.にっぽん(平凡社)
仕事の参考になる。デザインも知的。
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5.芸術新潮(新潮社)
オタクなので、美術雑貨のコレクションの参考に。
(2010年6月)
- インタビューを終えてから、王さんと食事をし、それから「東方」という雑誌のための対談をしました。話すうちに共通の友人、知人の名前がずらずら出てきて、な~んだ、そんなに近くにいた人だったんだと改めて思いました。
私は小柄でガラパゴス的進化を愛するタイプ、王さんは194センチの巨躯でジャパンフリーク。なんだかいまの日本と中国を象徴しているような気にもなってしまいました。大きな体を曲げて「僕はオタクですから」と告白されても(笑)、なかなかこっちもフォローが難しい。
北京に創造的なサブカルチャーの嵐が吹き荒れていた十数年前、私は芸術家の村を取材して回りました。尖がってるアーティストたちとの出会いはとても刺激的でした。魯迅以降、唯一全集を出せたと評判だった作家の王朔氏などにも会いました。その文体の革命児もいまは宗教的世界に行ってしまったとか。
王さんは瀋陽の生まれだということで、それではご両親は日本語がわかるのでは、と聞いてみました。思ったとおりお母様は戦前日本の医学校に留学したこともある才媛でした。そこまで聞いてお互い時間がなくなり、そこからの話は次回、ゆっくり北京でということになりました。
インタビュアー:小西克博
大学卒業後に渡欧し編集と広告を学ぶ。共同通信社を経て中央公論社で「GQ」日本版の創刊に参画。 「リクウ」、「カイラス」創刊編集長などを歴任し、富士山マガジンサービス顧問・編集長。著書に「遊覧の極地」など。