MOSTLY CLASSIC(モーストリー・クラシック) 発売日・バックナンバー

全198件中 31 〜 45 件を表示
 ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」とスメタナの連作交響詩「わが祖国」。いずれも世界で愛されている作品だが、1824年生まれのスメタナ、1841年生まれのドヴォルザークと作曲家2人は、いずれもボヘミア生まれ。チェコという風土で育ったことがこれらの傑作を生みだした。ほかにハンガリー、ポーランドといった東欧の作曲家とふるさとのかかわりを特集している。
 ドヴォルザークはプラハに近い村の肉屋兼宿屋の家に生まれた。聖歌隊で歌い、アマチュア楽団でヴァイオリンを弾くなどして音楽に親しんだ。12 歳の時にズロニツェの伯父の家に送られ、ここでドイツ語の師アントニン・リーマンから音楽理論を学ぶ。さらにプラハのオルガン学校に入学。幼い時から触れた民俗音楽の上に、クラシック音楽の古典的な様式などを学んだことが、ドヴォルザークの音楽の基礎を作った。
 ドヴォルザークは1892年、ニューヨークのナショナル音楽院の院長としてアメリカに渡る。翌93年、交響曲第9番「新世界より」を作曲した。アメリカの民俗音楽や黒人霊歌に通じる楽想が用いられているなど、新世界で受けた影響が反映されている。しかし、「この作品はアメリカの民俗音楽や新大陸の文化の要素を取り入れつつも、それらをチェコの音楽の特徴に重ね合わせ、チェコの民族色に満ちた音楽に仕立て上げられている」と音楽評論家の寺西基之氏。
 ドヴォルザークより17歳年上のスメタナは、モラヴィアに近い都市リトミシュルで、ビール製造業者の長男として生まれ、ヴァイオリンを愛奏する父親から音楽の手ほどきを受けた。スメタナはチェコ語が話せなかった。ドイツ語は公用語のひとつであり、貴族の館に出入りする醸造家の父親は、家でもドイツ語を話したからだ。しかし、1848年の「プラハ聖霊降臨祭蜂起」は、スメタナの愛国心にも火をともし、母国語を学び始めた。
 「わが祖国」は1874年から79 年にかけて作曲された。スメタナ1874年の夏に健康を損ない、それから3カ月ほどで完全に失聴。だから作曲家はこの作品の演奏を聴くことはできなかった。「スメタナはこの連作を通して、交響詩をナショナルな題材を表現するジャンルとして確立し、音楽的には循環形式風の手法を用いて曲の一体性を保つように工夫した。欧州辺縁国の国民楽派は以後、このスタイルに倣うようになる。その点でこの作品は、単なる聴き物を超えて、西洋音楽史に名前を刻む存在となった」と音楽評論家の澤谷夏樹氏はつづっている。項目は他に◎バルトーク・ベーラの「祖国」◎ヤナーチェクの創作人生◎ハンガリーのマルチ音楽家コダーイ◎ショパン、その祖国への思い◎東欧の国民楽派はなぜ生まれたのか◎東欧のユダヤ人とクラシック音楽、など。表紙は、ドヴォルザーク、スメタナ、バルトーク、ショパン、プラハを流れるヴルタヴァ川です。

◎宮本文昭の気軽に話そう 周防亮介 ヴァイオリン
 若手のヴァイオリニスト、周防亮介。京都府生まれで、7歳からヴァイオリンを習い始めた。先生のレッスンを受けるために、先生の家の近くに一家で引っ越しをしたというエピソードも語っている。まさに「孟母三遷」の故事のごとくである。中学1年からは小栗まち絵先生についた。東京音大に進学すると、小栗先生も同大の特任教授に就任。「小栗先生は技術的なことはもちろん、舞台への出て行き方、歩き方、お辞儀の仕方や衣装なども、生徒に合わせてプロデュースしてくださる」。ヴァイオリニストは先生との二人三脚で作られる。

◎新連載 行きたい街角、聴きたい音楽~世界の音楽都市を訪ねて~
 今月から音楽評論家、加藤浩子さんの新連載が始まった。第1回はニューヨークのオペラの殿堂、メトロポリタン歌劇場(MET)を取り上げている。「カーテンコールではまず例外なくスタンディングオベーション。けれどほぼ1回こっきりで、すぐ帰る。日本のように何度もカーテンコールが繰り返されることは珍しい」と、日本とは異なる聴衆の反応を伝えてくれるなど、面白い読み物に仕上がっている。コロナ禍でまだ自由に世界各地に出かけられない日々が続く。この連載を読んで、旅した気分を。

◎特別企画 サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン2022
 国内最大級の室内楽の祝典「サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン2022」が6月4日(土)から19日(日)まで行われる。初夏の音楽祭としてすっかり年中行事となった。オープニングはチェリストである堤剛サントリーホール館長のプロデュース公演。ピアノの小菅優とクラリネットの吉田誠のトリオでブラームスとフォーレなどを。目玉企画の「ベートーヴェン・サイクル」はアトリウム弦楽四重奏団が登場する。6夜にわたり、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲を演奏する。「フォルテピアノ・カレイドスコープ」にも注目。現在のピアノの前段階のフォルテピアノが3台登場し、デンハーグ五重奏団や渡邉順生らが出演する。12企画22公演と盛りだくさん。


このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
 ドイツの指揮者フルトヴェングラーが亡くなって70年近くたつのに、“新譜”のリリースが絶えることはない。新譜といっても新しい録音があるわけでないので、古いSPレコードのリマスターだったり、新たな放送音源が見つかってCD化されたりするのだ。指揮者でいえば、トスカニーニ、クレンペラーやクナッパーツブッシュ、ピアニストではコルトーやバックハウス、ソプラノ歌手のマリア・カラスの全盛期は1950年代なのに、今でも人気は衰えない。
 「往年の演奏家は、楽譜への忠実さを一歩において認識しつつ、その演奏家にしか成しえない自由な表現を披露してくれる。その演奏は聴く者に、音を聴く以上の感銘を与える。彼らの演奏を聴くと、本来、演奏とは何なのかを問いかけているように思われる」と桐朋学園大名誉教授の西原稔氏。
 なんといっても往年の名演奏家の中で一番人気はフルトヴェングラーだろう。1886年、ベルリンで考古学者の父のもとに生まれた。1906年にデビュー。22年、ニキシュの後任としてベルリン・フィルとライプチヒ・ゲヴァントハウス管の常任指揮者に就任した。ナチス政権と対立しながらもベルリン・フィルを振り続けたが、戦争末期、スイスに亡命。戦後、非ナチ化裁判で無罪判決を受け、ベルリン・フィルに復帰した。51年、バイロイト音楽祭の再開場記念演奏会でベートヴェンの第九を指揮。54年、68歳で亡くなった。
 指揮者・作曲家の徳岡直樹氏は「他では聴くことのできない強烈なインパクトが確かにある、と自信を持って言い切ることができる」とフルトヴェングラーの演奏を評する。徳岡氏があげたフルトヴェングラーの名盤にブラームスの交響曲第4番がある。1943年12月録音。これについて「この大戦中のブラームスは数種類残された同曲の録音の中でももっとも艶やかで、かつ壮絶なドラマの込められたド迫力の演奏」と感想を書いている。
 NHK交響楽団コンサートマスター、篠崎史紀さんはNHKーFMで「まろのSP日記」というSPレコードを紹介する番組を持っているほど、CDやLPでなくてSPを聴いている。1950年代にはLPに置き換わってしまったから、残っているのはそれ以前に活躍していた往年の名演奏家。「聴衆も、演奏だけではなく、コンサート会場で感じるその瞬間の空気や匂いまでをも記憶し、演奏家の真意を受け止められる時代だったのだと思います」と記している。項目は他に◎ベーム、セル、ムラヴィンスキー、チェリビダッケ、カラヤン◎シュナーベル、ルービンシュタイン、ケンプ、ホロヴィッツ◎クライスラー、ティボー、シゲティ、ハイフェッツ◎時代によって変遷する演奏◎未来の可能性と過去への想像力◎往年のピアニストと現代のピアニスト、など。
表紙は、ハイフェッツ、フルトヴェングラー、ベーム、カラヤン、ホロヴィッツ、ディースカウ、リヒテル、カラス、カザルスです。

◎宮本文昭の気軽に話そう 川田知子 ヴァイオリン
 東京フィルの首席ヴィオラ奏者、須田祥子とデュオCD「スターライト」をリリースしたばかり。ヴァイオリンとヴィオラの二重奏という珍しいCD。知らない曲ばかりかというとそうではない。シューベルトの歌曲「野ばら」や「魔王」なども入っている。須田とは15年ぐらいの付き合い。雰囲気が似ているので「本当の姉妹みたい」と言われることもある。4月末から宮崎国際音楽祭のコンサートに何本も出演する。20代の頃から出演し続けているなじみ深い音楽祭。3週間も滞在しているので、なじみの居酒屋が何軒もあるという。

◎WMSベルリン 沖澤のどかがベルリン・フィルを指揮
 ドイツのヴァルター・シュタインマイヤー大統領の主催で、ベルリン・フィルによるウクライナとの連帯を表明する「自由と平和のためのコンサート」が3月27日、ベルビュー宮殿で行われた。急病のキリル・ペトレンコに変わり、アシスタントの沖澤のどかが指揮をした。ウクライナからベルリンに避難した作曲家シルヴェストロフの「夕べのセレナード」などを指揮。またキーシンとベルリン・フィルのコンサートマスター、樫本大進、チェロのシンケヴィッチのピアノ・トリオでショスタコーヴィチのピアノ三重奏曲第2番よりを演奏した。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
1,080円
980円
 イタリア北部クレモナで17世紀半ばから18世紀半ばにかけて作られたヴァイオリンは、名器が多い。ニコロ・アマティ、アントニオ・ストラディヴァリ、グァルネリ・デル・ジェズの3人の名工が作ったヴァイオリンは現在、非常に高い値段で取引される。彼らに続くヴァイオリンにガダニーニ、ベルゴンツィ、テストーレなどがある。さらに、カッパ、ブセットー、ゴフリラー、モンタニャーナ、ランドルフィー、ガリアーノ、チェルーティ、プレセンダなどのブランドがひしめいている。
 なぜクレモナで作られたヴァイオリンは名器なのか。形状、木材、ニスなどさまざまな理由があげられているが、いずれも決め手に欠ける。製造されて400年経つとよい音になる、という説もある。現代の科学的分析によっても分からない。「これは永遠の謎である。理由を断定的に書き記す文章があれば、それはフェイクと考えてよい」と音楽評論家の渡辺和彦氏。
 現在のオーケストラで使われる弦楽器は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの4種類。しかし、クレモナでヴァイオリン製作が盛んになる以前のバロック時代は、もっと多種多様な弦楽器が存在した。その一つがリュート。イングランドの女王エリザベス1世は音楽好きで、みずからリュートを弾いたといわれる。リュートはL字型のネックを持つが、その隣にまっすぐなネックを付けた大型リュート、テオルボがあり、ネック1本のキタローネも存在した。スペインでは小型のギターと言ってもよい、ビウエラが流行した。
 ヴィオール族では、脚(ガンバ)に挟んで弾く、ヴィオラ・ダ・ガンバがあり、バス・ヴィオル、トレブル・ヴィオル、テノール・ヴィオルなどと音域によって楽器があり、より低音のヴィオローネ、音域が広いヴィオラ・パスタルダという楽器もあった。ヴィオリンは中世のフィドルから発展したものと言われる。15世紀に流行したのはリラ・ダ・ブラッチョ。この楽器を得意としたのは画家のレオナルド・ダ・ヴィンチ。彼は音楽家の顔も持っていた。長く生き残った楽器にヴィオラ・ダモーレがある。ヴィヴァルディ、バッハばかりか、マイアーベアやプッチーニ、ヒンデミットらロマン派、20世紀の作曲家もこの楽器を使って作品を書いている。
 バロック時代に多種多様な弦楽器が存在することについて、音楽学の金澤正剛氏は「バロックという時代自体がさまざまと新しい可能性を追い求めた時代であったことと、多くの楽器が発展途上の段階であったことに由来しているものと思われる」と記している。
 現在に至るヴァイオリニストは、トスカナ派、ロンバルディア=ベネツィア派、フランコ・ベルギー派(マンハイム派)、ボヘミア派の大きく4つの流派に大別される。トスカナ派にはパブロ・デ・サラサーテ、ロンバルディア=ベネツィア派はアルカンジェロ・コレッリらを経てヨーゼフ・ヨアヒム、ヤッシャ・ハイフェッツ、現在のヴァディム・レーピン、樫本大進につながる。フランコ・ベルギー派は、ウジューヌ・イザイとその弟子のユーディ・メニューイン、アイザック・スターン、アルチュール・グリュミオーらがいる。項目は他に◎ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集「四季」◎バッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」「無伴奏チェロ組曲」◎ヴィオラという楽器の特殊性◎活躍する日本の若手チェリストたち◎オーケストラにおける楽器の配置と変遷◎弦楽器と指揮者、など。表紙は、パガニーニが愛用したデル・ジェズ「イル・カンノーネ(大砲)」、スタラヂヴァリウス「レディー・ブラント」、クレモナの街です。

◎宮本文昭の気軽に話そう 中野翔太(p)
 クラシックのピアニストだが、5月27日(金)にHakuju Hallでジャズ・ピアニストの松永貴志とサクソフォンの田中拓也のトリオでコンサートを行う。ニューヨークのジュリアード音楽院に留学しているときに、老舗ジャズクラブ「ヴィレッジヴァンガード」で生まれて初めて生のジャズを聴いた。「今ここで音楽が生れてきたような空気感、自分でもやってみたいと思っていました」。一方、神奈川県立音楽堂の「新しい視点」シリーズでは、7月に実験的な現代音楽を演奏するなど、意欲的な活動を続けている。

◎東西南北 新国立劇場2022/23シーズンのラインアップ
 新国立劇場は3月1日、2022/23シーズンのラインアップを発表した。同劇場は今年、開場25周年を迎え、オペラ3公演、バレエと演劇各1公演の5公演が開場25周年記念公演になる。オペラのラインアップは10演目。「ジュリオ・チェーザレ」(新制作)、「ボリス・ゴドゥノフ」(新制作、開場25周年記念)、「ドン・ジョヴァンニ」、「タイホイザー」、「ファルスタッフ」、「ホフマン物語」、「アイーダ」(開場25周年記念)、「リゴレット」(新制作)、「サロメ」、「ラ・ボエーム」(開場25周年記念)。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
1,080円
980円
 オルガンの歴史は紀元前の古代ギリシャにさかのぼる。鍵盤楽器としては最も古い歴史を持つ。水圧を用いて空気を管に送り込んだ。その後のチェンバロやピアノとは音が鳴る仕組みが全く違う。さらにオルガンは中世に入ってキリスト教会と結びつき「楽器の王様」となった。
 オルガンはふいごで風箱に空気を送り込み、鍵盤を押すことで弁が開き、パイプが発音する。チェンバロやピアノの音は自然に減衰していくが、オルガンは弁を戻さない限り、音は持続する。そして演奏者は音によって決まっているパイプを選択するためストップを引っ張るレジストレーションを行う。
 大きなパイプオルガンは持ち運びができない。設置される教会や建物の形状に合わせて作られる。「1台として同じものがないのもオルガンの大きな特徴だ。オルガンは建物に付随する特殊な楽器である。ヨーロッパに現存する18世紀以前のオルガンを弾く場合には、ピッチや調律法が違うこともよくあること」とオルガニストの中田恵子。
 チェンバロは弦を弾いて音を出す楽器。14世紀末に誕生したと考えられている。それから18世紀後半にかけてヨーロッパ全体で使われた。しかし、国によって独特の形状であり材質が異なっている。1段鍵盤のイタリアンや2段鍵盤のフレミッシュ、イタリアでは糸杉が用いられ、フレミッシュではポプラの木が使われた。また華麗な絵や装飾がつけられ、美術品としての側面もあった。
 バロック音楽において不可欠な存在なのが通奏低音奏者。「独唱を支えるバスの旋律を記し、それを低音楽器(主にヴィオラ・ダ・ガンバ)が弾き、それをもとに鍵盤楽器(主にチェンバロ)などが即興で肉づけの伴奏を施す」と音楽学の金澤正剛氏。やがて伴奏の中心的役割を果たしていたチェンバロ奏者が指揮をとるようになった。チェンバロが中心に置かれ、周りを弦楽器などが取り囲む。モーツァルトもオペラ上演の際には、自らチェンバロを弾きながら指揮をした。
 モーツァルトの時代に鍵盤楽器はチェンバロからフォルテピアノへと変わっていった。モーツァルトより14年後の1770年に生まれたベートーヴェンは、生涯で約10種ものフォルテピアノを弾いたという。19世紀はピアノの開発競争が盛んに行われた時代だった。ベートーヴェンのピアノ・ソナタは32曲残されているが、その作曲史はピアノの発展史そのものだった。
 初期のピアノ・ソナタ第8番「悲愴」や第14番「月光」はアントン・ワルターの楽器で作曲された。中期の第21番「ヴァルトシュタイン」や第23番「熱情」はエラールの楽器に触発されて書かれた。そして第26番「告別」はシュトライヒャーのピアノから生まれた。ベートーヴェンが最後まで弾いていたのはイギリスのブロードウッドから1818年に贈られたフォルテピアノ。第29番「ワルトシュタイン」はシュトライヒャーとブロードウッドがあったからこそ作曲された傑作だ。項目は他に◎バッハのオルガン曲、チェンバロ曲◎バッハのオルガン曲のピアノ編曲小史◎ブルックナーの交響曲はなぜオルガンのような響きなのか◎チェンバロとオルガン音楽の20世紀◎ピアノと指揮者、など。表紙は、タスカンのチェンバロ、ヒルデブラントのオルガン、ショパンのピアノです。

◎宮本文昭の気軽に話そう 佐藤卓史 ピアノ
 2014年からシューベルトのピアノ曲全曲ツィクルスに取り組んでいるピアニスト、佐藤卓史。07年にはシューベルト国際コンクールで優勝している。シューベルトの魅力について「シューベルトは自分にとって特別な存在なんだと感じることがたくさんありました。同じことが繰り返されるので冗長だと言われたりしますが、彼の中にある種の必然性があるのを感じます」と話す。4月14日(木)に東京オペラシティで第16回シューベルトツィクルスの演奏会が行われる。

◎STAGE 野平一郎 作曲・ピアノ
 5月から6月にかけて開催される第8回仙台国際音楽コンクールのピアノ部門審査委員長を務めるのが、作曲家でピアニストの野平一郎。今回のコンクール・ピアノ部門には史上最高の438人の申し込みがあった。ちなみに昨年のショパン国際ピアノ・コンクールで優勝したブルース・リウは2016年の仙台国際音楽コンクールの入賞者だ。野平委員長は「イマジネーション、ポテンシャルを持った人、クリエイティヴな資質を持った人を探していきたい。審査委員を驚かす人が出てきてほしい」と話していた。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
1,080円
980円
 ワーグナーのオペラは、オペラの中でも独自の魅力を放っている。特に「ニーベルングの指環」4部作は、その世界観と長大な長さもあいまって圧倒される。それは「ワーグナーは人間社会の普遍的な問題を提起している」(西原稔・桐朋学園大名誉教授)からだろう。
「ニーベルングの指環」4部作は、序夜「ラインの黄金」、第1日「ワルキューレ」、第2日「ジークフリート」、第3日「神々の黄昏」。「ラインの黄金」の上演時間は2時間半ほどだが、続く3本は4時間から5時間弱という長さ。
 ワーグナーは作曲だけではなく、台本もすべて自分で書いた稀有な作曲家。「指環」を書くにあたって主な素材にしたのは、ドイツ中世英雄叙事詩「ニーベルンゲンの歌」と北欧神話の「ヴォルスンガ・サガ」。「ヴォルスンガ・サガ」はライン河の伝説が北欧に伝わったものが、北欧神話化され、まとめられたもの。
 「ワーグナーは、まずは2つの素材を粉々にしてから、新しいジークフリートの物語を作り上げた。しかも『ヴォルスンガ・サガ』では数行で済まされていたジークフリートとブリュンヒルデの愛を拡大させて、新しい独自の愛の物語を展開させた。さらにこの2人の『愛』を悪漢ハーゲンの『権力』と対立させ、4部作全体に『権力』と『愛』の対立を張り巡らせた。ここにワーグナーの独創性がある」と石川栄作・放送大学徳島学習センター所長。
 「ラインの黄金」は、ライン川の川底にある黄金の指環を3人の乙女が守っていた。指環を奪った小人族アルベリヒは地底で一大王国を作り上げる。神々の長ヴォータンはアルベリヒから世界を支配する指環を奪う。「ワルキューレ」は、フンディングの家に傷ついたジークムントが逃げ込む。夫の留守を預かるジークリンデはジークムントに強く惹かれる。「ノートゥング」と名付けられた剣を持って2人は逃亡する。「ジークフリート」では、ジークリンデが産み落としたジークフリートがアルベリヒの弟ミーメに育てられる。ジークフリートの力を利用して指環を取り返すことをもくろんでいる。父ヴォータンの命に逆らい眠りにつかされていたブリュンヒルデはジークフリートによって目覚める。「神々の黄昏」では、ジークフリートがギービヒ家のグンターを訪ねる。そこでジークフリートは過去を忘れる薬を飲まされてしまう。
 「指環」を上演するためにワーグナーが建てたのがバイロイト祝祭劇場、そこで毎年夏、行われているのがバイロイト音楽祭。ここはワグネリアンにとっては聖地である。1876年、「指環」の全曲初演をもってこけら落しされた。指揮はハンス・リヒター、舞台はヨーゼフ・ホフマンだった。ワーグナーは82年の「パルジファル」初演の翌年に亡くなり、未亡人コージマが後を引き継いだ。そして息子のジークフリート、その妻のヴィニフレートと繋がれ、現在はワーグナーから数えて4代目のカタリーナ・ワーグナーが芸術監督を務めている。項目はほかに◎「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」「トリスタンとイゾルデ」「マイスタージンガー」◎卓越した芸術家を支えた妻コージマの生きかた◎バイエルン王国という存在、など。表紙は、ワーグナー、背景はバイロイト祝祭劇場です。

◎2022年注目の来日演奏家
 新型コロナのオミクロン株の感染拡大で、昨年12月から外国人アーティストが来日できない事態が続いている。毎年恒例の「注目の来日演奏家」だが、早くコロナ禍が収まり、予定されている演奏家が来日できることを願っている。
 オーケストラで注目したいのは若手指揮者とメジャー級の組み合わせ。マティアス・ロウヴァリ&フィルハーモニア管(3月)、ラハフ・シャニ&イスラエル・フィル(4月)、クラウス・マケラ&パリ管(10月)。ソリストはコロナ禍の中でも来日してくれ、日本の聴衆を楽しませてくれた。ピアノはルドルフ・ブッフビンダー(2月)、アンヌ・ケフェレック(4月)、キット・アームストロング(6月)、エフゲニ・ボジャノフ(7月)らが来日予定。
 ヴァイオリニスト、チェリストも多彩なアーティストが公演する。フランスの人気ヴァイオリニスト、ゴーティエ・カプソン(4月)、おなじみのベテランのチェリスト、ミッシャ・マイスキー(5月)、秋はアリーナ・イブラギモヴァ(9月)、イツァーク・パールマン(10月)パトツィア・コパチンスカヤ(同)、ヴィクトリア・ムローヴァ(11月)など聴きたい演奏家が目白押し。
 オペラでは、イタリア・シチリアのパレルモ・マッシモ劇場が6月に「シモン・ボッカネグラ」と「ラ・ボエーム」を公演する。アメリカのメトロポリタン歌劇場管は「ワルキューレ」「トロイアの人々」などのオペラの抜粋を上演する(同)。

◎宮本文昭の気軽に話そう ゲスト ハルキさん(活動弁士)
 無声映画に語りをいれる活動弁士。映画草創期に活躍した。やがて映画に音がついたトーキー映画が生まれ、弁士の活躍の場はなくなった。しかし、現在も活動弁士は存在し、映画を楽しむことができる。その一人がハルキさん。日本の活動弁士は、義太夫や浄瑠璃など語りの文化を持っているため独自の発展をし、今日まで続いている。「100年前の映画でも楽しく見られるということを知ってほしいという気持ちがあります」とハルキさんは話す。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
―など、おもしろい連載、記事が満載です。


 イタリア・オペラの代名詞、ヴェルディとプッチーニの生涯と作品などを中心にイタリア・オペラの魅力を探っている。
 ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)は「音楽とドラマが人間の感情表現において一体化する方向に、オペラのベクトルを向けた」とオペラ評論家の香原斗志氏。生涯にオペラ26作を作曲した。処女作は「ファッチォ伯爵オベルト」(1839年)。3作目の「ナブッコ」(1842)で成功を収める。
 ヴェルディ中期には多くの傑作が生まれた。「リゴレット」(1851)は「足を踏み入れた『心理オペラ』の世界で、いまだなかった次元の心理描写を達成した」と音楽評論家、國土潤一氏。「椿姫(ラ・トラヴィアータ)」(1853)は、高級娼婦ヴィオレッタと青年貴族アルフレードの恋、そしてヴィオレッタの悲劇を描く。世界でもっともよく上演されるオペラの一つだ。1幕でアルフレートが歌いだし、後に合唱となる「乾杯の歌」、2幕でアルフレートの父ジェルモンが息子を諭す「プロヴァンスの海と陸」など、単独で親しまれているアリアも人気。後期の「アイーダ」(1871年)は古代エジプトが舞台。スペクタクルで祝祭的な雰囲気があり、野外オペラでもよく上演される。エジプトとエチオピアの2つの国に引き裂かれた男女の悲恋を描いている。
 ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)は音楽家の家系に生まれた。父は5歳のときに亡くなり、苦労してミラノ音楽院で学んだ。「マノン・レスコー」(1893)が大成功し、オペラ作曲家の道を確実とした。日本人にもっともなじみの深いのは「蝶々夫人」(1904)だろう。長崎を舞台に、没落士族の娘・蝶々さんとアメリカの海軍士官ピンカートンの結婚、そして蝶々さんの悲劇を描く。プッチーニの音楽の中に「越後獅子」「さくらさくら」「君が代」「お江戸日本橋」など日本の音楽が8曲も使われている。プッチーニは日本に来たことはなく、当時のイタリア特命全権公使夫人、大山久子から資料を提供されたらしい。
 最後のオペラとなった「トゥーランドット」(1926)は中国が舞台。やはり中国の音楽素材を使っている。トゥーランドット姫に求婚する者は、姫の出す3つの謎を解かなければならない。解けなければ斬首されてしまう。王子カラフがその謎に挑戦する。カラフの歌う「誰も寝てはならぬ」が有名だ。第3幕後半は未完に終わり、アルファーノが補筆し完成させた。「トゥーランドット」を含めプッチーニは生涯に12作品を残した。項目はほかに◎ロッシーニ◎ショパンが愛したベッリーニ◎ヴェリズモ・オペラ◎イタリア、魅惑の劇場めぐり◎イタリア・オペラの旬の歌手、などです。表紙は、ヴェルディ、プッチーニ、背景はミラノ・スカラ座です。

◎2021年回顧ベスト・コンサート編、ベストCD&DVD編
 ベスト・コンサート編だが、今年は外国のオーケストラがコロナのための入国規制でほとんど来日できず、指揮者だけ外国人というのが多い。ヴェンツァーゴ指揮読売日響、チョン・ミョンフン指揮東京フィル、ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢、ラザレフ指揮日本フィルなどが挙がっている。ソリストはファウスト、アンデルジェフスキー、レーゼル、ツィメルマンら。新国立劇場の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は高評価だった。
 ベストCD&DVD編だが、コロナ禍の中でも収穫の多い年だった。輸入盤を含めると膨大な数になるため、12人の評者が重なってベストCDに挙げたものはほとんどない。その中でシフがエイジ・オブ・エンライトゥメント管を弾き振りしたブラームスのピアノ協奏曲第1番&第2番、ショパン・コンクール4位の小林愛実のショパン「24の前奏曲」はそれぞれ2人があげていた。また、クレンペラーなど過去の録音も目立った。
 また、今年亡くなった主な音楽家を掲載している。昨年暮れからの1年間を見ると、イヴリー・ギトリス(98歳)、岡村喬生(89歳)、ヘルムート・ヴィンシャーマン(100歳)、辻久子(95歳)、伊藤京子(94歳)などと高齢化社会を反映してか長寿をまっとうした方が目立った。

◎宮本文昭の気軽に話そう ゲスト 嘉屋翔太 ピアノ
 11月に行われたフランツ・リスト国際ピアノ・コンクールで1位なしの2位に入賞したピアニスト、嘉屋翔太は東京音楽大学に在学中。ラフマニノフについて「バッハみたいな対位法の達人なので、奇跡的なくらい全部の音に意味があって装飾がないんです。本当に緻密そのものなので、指が足りないんじゃないかっていうくらい書いてあって別格なんです」と話している。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
1,080円
980円
 ベートーヴェンは交響曲を9曲残した。このうち交響曲第5番と第6番は1808年12月22日、アン・デア・ウィーン劇場で同時に初演された。現在の5番は6番、6番は5番として発表されている。新作の交響曲2曲を一緒に演奏するばかりか、この日のプログラムは現在では考えられないほど長い。
 まず第1部は、田園交響曲(当時の第5番、現在の第6番)、アリア「ああ、裏切り者」、ミサ曲ハ長調より「グローリア」、ピアノ協奏曲第4番。第2部は、大交響曲(当時の第6番、現在の第5番)、ミサ曲ハ長調より「サンクトゥス」、ベートーヴェンのピアノの即興演奏、合唱幻想曲で、今のコンサート2つ分。それぞれのトリはピアノ協奏曲とピアノ独奏が入る合唱幻想曲。現在はプログラムの最後に置かれる交響曲はメーンの演目ではなかった。
 特集では「フルトヴェングラーとベートーヴェン」について取り上げている。フルトヴェングラーにとってベートーヴェンはもっとも重要な作曲家だった。フルトヴェングラーは1886年、考古学者・美術史家の父アドルフのもとに生まれた。1898年、ギムナジウムを退学し、2人の家庭教師に学んだ。哲学と芸術はヴァルター・リーツラー、考古学者のルートヴィヒ・クルティウス。音楽の専門教育はベルリン国立歌劇場首席指揮者を務めたマックス・フォン・シリングらに師事している。1922年、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、ベルリン・フィルの常任指揮者に就任した。
 音楽評論家の岡本稔氏は「フルトヴェングラーの演奏について語るとき、『精神性』とともにしばしば用いられるのが『官能性』とそこからもたらされる『陶酔』である。ベートーヴェンの演奏でも顕著にみられる。音楽がもたらす陶酔感がクライマックスで圧倒的な効果をもたらすのはこの音楽家に親しんだ人ならば誰もが経験している」とつづっている。
 1951年7月29日、中止されていたバイロイト音楽祭が、フルトヴェングラーの指揮する第九によって再開した。この「バイロイトの第九」の録音はEMIなどから発売されているが、リハーサル演奏などを編集したものではないか、などの謎が語られてきた。今年12月、スウェーデン放送が所有するライヴ音源が初めてCD化され、リリースされる。長年、悩ませてきた謎が解けると、ファンは発売を待ちわびている。項目はほかに◎交響曲第1番以前と第9番以降◎「オリーヴ山上のキリスト」と「プロメテウスの創造物」◎ベートーヴェン交響曲全集の歴史◎朝比奈隆のベートーヴェン演奏◎日本人ピアニストのベートーヴェン演奏、など。表紙は、フーゴー・ハーゲン作のベートーヴェンの胸像です。

◎宮本文昭の気軽に話そう ゲスト 成田達輝 ヴァイオリン
 ロン=ティボー国際コンクールやエリザベート王妃国際音楽コンクールなどで入賞した若手ヴァイオリニストの成田達輝。母親が小学校の教師をしており、当時最先端の英才教育に興味があり、ヴァイオリンを始めた。最近、子供がうまれ、「音楽というのは人生そのものなんじゃないかということです。友人から『子供を通して自分の小さいころを追体験している』と言われ、『それって人生の再現部に来ているってことかな』と思いました」と話している。

◎第18回ショパン国際ピアノ・コンクール視聴録
 第18回ショパン国際ピアノ・コンクールが10月、ショパンの故郷ポーランドの首都ワルシャワで行われた。コロナ禍のため1年延期されての実施だった。今回も日本人の参加者は多く、3次予選に5人、本選に2人残った。通常、本選は6,7人で争われるが、今回は12人と多く、異例のコンクールになった。結果は反田恭平が2位、小林愛実が4位(いずれも2人入賞のうちの1人)だった。音楽評論家の高久暁氏がレポートをしている。「独自な展開を見せる日本のピアノ文化の受け皿としてショパン・コンクールが機能したのであれば、それはショパン・コンクールと日本のピアノ文化の双方にとって極めて喜ばしい出来事であったに違いない」と記した。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
 長命、人生を全うした音楽家はもちろん多いが、短命、夭折した作曲家のエピソードは強い印象を残す。35歳で亡くなったモーツァルト(1756-91)の最後の仕事は「レクイエム」。亡くなる直前、モーツァルトに「レクイエム」の作曲依頼が舞い込む。高額の前払い金を置いていった依頼者は名乗らず、匿名だった。後に、モーツァルトは死者の世界からの依頼で、自分のための「レクイエム」を書いた、という伝説が流布された。現在では、依頼主は判明、この話は否定されているが、夭折の作曲家にふさわしいエピソードとして信じられた。
 夭折したモーツァルトは神童でもあった。神童がそのまま成長し天才になった稀有な例と言える。父レオポルドはモーツァルトに英才教育を施したが、モーツァルトは父親を凌駕する才能を持っていた。3歳からチェンバロを弾き始め、5歳で作曲を行う。今でいえば小学校の入学前から父とともに、ヨーロッパ各地の宮廷などをめぐり、神童の演奏を披露した。13歳からは音楽教育を兼ねてイタリア巡業を行う。システィーナ礼拝堂の秘曲「ミゼレーレ」を一度聴いただけで譜面にしてしまったのはこの時だ。
 モーツァルトよりも短い生涯だったのはシューベルト(1797-1828)。わずか31年の人生だったが、「冬の旅」「水車小屋の娘」「魔王」などの歌曲、交響曲第8番「ザ・グレート」、「未完成」、弦楽四重奏曲など傑作を数多くのこし、31年間に600曲以上の作品を書いている。生前に演奏されなかった曲も少なくない。「ザ・グレート」はシューベルトの死後、家を訪ねたシューマンが、未整理の楽譜を発見、友人のメンデルスゾーンのもとへ送り、メンデルスゾーン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管で1838年に初演された。
 天才は必ずしも夭折ではない。サン=サーンス(1835-1921)は、86歳まで生きた。当時としては非常に長命だろう。サン=サーンスはやはり神童だった。2歳半で伯母からピアノの手ほどきを受け、3歳でピアノ曲を作曲。10歳のときのパリ・デビュー演奏では、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番やモーツァルトのピアノ協奏曲第15番を演奏した。モーツァルトの協奏曲のカデンツァはサン=サーンスの自作だった。
 現役の指揮者・ピアニストではバレンボイムを挙げよう。先ごろ、誰よりも多い5度目のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集をリリースしたばかり。また、指揮者としては名門ベルリン州立歌劇場管弦楽団の音楽監督を務めている。バレンボイムは7歳でピアニストとしてデビュー、11歳の時、ザルツブルクにおいて最年少で指揮者マルケヴィッチのマスタークラスを受講した。そしてフルトヴェングラーに会い「バレンボイムは天才である」と言わしめた。項目はほかに◎メンデルスゾーン、ショパン◎ベッリーニ、ビゼー◎ガーシュウィン、ルクー◎瀧廉太郎、貴志康一◎才能に年齢は関係ないのか、など。表紙は、モーツァルト、シューベルト、メンデルスゾーン、ビゼー、リパッティ、ヌヴーです。

◎宮本文昭の気軽に話そう ゲスト 大萩康司 ギター
 若手人気ギタリストの大萩康司。昨年からのコロナ禍でコンサートの仕事は減ったが、録音は増え、CDをたくさんリリースした。チェロの宮田大、フルートの江戸聖一郎、オーボエの広田智之らと共演したCDが次々と発売された。ギターを始めたきっかけは母親。「小さいころ、小児喘息だったので、家の中でできる遊びをしていました。8歳のころ、母が昔やっていたクラシックギターを再開しました。すごく楽しそうに弾いていたので、『僕もやりたい』と言い、始めたのがきっかけです」と話す。

◎BIGが語る 清水和音 ピアノ
 デビュー40周年を迎えたピアニスト、清水和音。1981年にロン=ティボー国際コンクールで優勝したのは20歳のとき。これ以来ずっと第一線で活躍してきた。当時、日本で優勝した清水の人気は熱狂的だった。しかし、現在、コンクールで優勝しても次の仕事につながるとは限らない。「コンクールが増えすぎました。数が増えれば、皆が冷静に選ぶことになります。1980年代のコンクール1位は騒がれましたし、先駆者利益があったのです。今の若い人はかわいそうです」と話す。もちろん人気だけでは生き残れない。清水は若いときから実力も兼ね備えていた。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
1,080円
980円
 10月に第18回ショパン国際ピアノ・コンクールが行われます。コロナ禍のため1年延期されての開催です。1927年コンクール第1回の優勝者はソ連のレフ・オボーリン、戦後再開した1949年の第4回の優勝者はハリーナ・チェルニー=ステファンスカ、第6回(1960年)のマウリツィオ・ポリーニ、第7回(1965年)はマルタ・アルゲリッチ、第9回(1970年)はクリスチャン・ツィメルマンと、そうそうたるピアニストが名を連ねます。
 果たしてショパン国際ピアノ・コンクールなど世界のコンクールの優勝・入賞は必然なのでしょうか。飛びぬけた実力があれば優勝は当然なのでしょうか。ポリーニが優勝したとき、審査委員長を務めた巨匠アルトゥール・ルービンシュタインが「ここにいる我々審査員の誰よりもうまい」と話していますが、このポリーニのケースなどコンクール優勝は「必然」だったといえるでしょう。では1980年のショパン・コンクールで、イーヴォ・ポゴレリチは入賞さえできませんでした。しかし審査委員のアルゲリッチが「彼は天才」と認めたことで、1位のダン・タイ・ソン以上にポゴレリチに注目が集まりました。コンクールの結果はタイミングや運が左右することがあります。
 ピアノ協奏曲、練習曲集、24の前奏曲、アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ、舟歌、マズルカ、ワルツ、バラード、夜想曲などショパンの名作を並べたらきりがありません。ピアノ協奏曲について音楽評論家の寺西基之氏は「ロマンティックな感情表現と民俗的語法に基づくポーランド精神の表出の融合という、生涯にわたるショパンの音楽的美質が、後年手がけなかった協奏曲様式のうちにみずみずしく息づいている」と記しています。
 ロマン派の時代に生きたショパンですが、作品は「古典派の根幹、形式美にこだわった」と音楽評論家の真嶋雄大氏。「ポーランドの民族舞曲に清新な風合いと自らの心象風景を投入したポロネーズやマズルカ、そしてワルツや舟歌、つまりショパンは決して形式をはみ出さず、壊さず、あくまで形式の範囲内での進取性を模索したのです」といいます。
 ショパンの作品を得意とする「ショパン弾き」は昔も今もたくさんいます。ショパンが弾ければ、他の作曲家の作品もうまいのでしょうか。先述したショパンには古典性が元にあるということは、ショパン以前の古典的な作曲家の作品も弾ける可能性が大きいのです。また後期ロマン派以降にもショパンは大きな影響を与えています。つまりショパンの作品は過去から未来までの多様性を宿しているということです。「ショパン演奏に秀でたピアニストがピアノ演奏のどんなレパートリーも弾きこなせる可能性や期待感を有しているのは当然」と音楽評論家の高久暁氏は書いています。項目は他に◎芸術の都パリのショパンとリスト◎ショパンのピアノ、プレイエルとエラール◎ショパン演奏の変遷と彼の作品を生かす奏法とは◎ショパンが苦手なピアニスト◎天才作曲家と対等の立場だったパートナーたち◎ショパン、シューマン、リストのピアノ作品の特徴と違い、など。
表紙は、ラジヴィウ公の邸宅で演奏するショパンです。

◎宮本文昭の気軽に話そう ゲスト 西脇義訓 指揮者・録音プロデューサー
 西脇義訓氏はフィリップスに勤務し、レコード会社エヌ・アンド・エフ社を創立した。録音プロデューサーを務める傍ら、自分が指揮するデア・リング東京オーケストラを立ち上げた。はじめ録音するだけのオーケストラだったが、演奏活動をするようになり、9月4日には埼玉・所沢で公演を行った。オーケストラの編成をばらばらにし、半円形に座らず、1列目にチェロ、2列目にヴィオラ、ヴァイオリンの隣にフルートなどと常識とはかけ離れた配置をし、前を向いて立って演奏する。「前を向いていることで『空間』を聴くことができます。皆が意識を集中して聴きながら、空間の遠くで音を合わせるようにするのです」と話す。

◎BIGが語る ヨーヨー・マ チェロ
 今年の第32回高松宮殿下記念世界文化賞・音楽部門の受賞者は、中国系アメリカ人の世界的チェリスト、ヨーヨー・マ。古典から現代曲まで広範なレパートリーを持ち、「リベルタンゴ」の録音は、日本でピアソラ・ブームを巻き起こした。現在は世界中で「バッハ・プロジェクト」を行っており、11月に沖縄で無伴奏チェロ組曲を演奏する予定。
 7歳のとき、ケネディ大統領の前で演奏しているが、そのときのことで覚えているのはコメディアンのダニー・ケイに会ったこと。「小さな私に目線を合わせてしゃがんで話しかけてくれたことです。それ以来、私はこの教訓を胸に刻み、友人や同僚にそのような敬意と優しさを求め、すべての行動においてそれを実践しようとしています」と話す。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
今からちょうど60年前、1961年の世界の音楽地図はどのようなものだったろうか。第2次世界大戦から15年たち、3年後には東京オリンピックが開かれた。クラシック界は新旧の巨匠が入れ替わった時期だった。
 フルトヴェングラーが亡くなったのは1954年、同じ年にトスカニーニは引退し57年に死去した。変わって世界の「楽壇の帝王」に登りつめようとしていたのはカラヤンだった。55年にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術監督に就任、翌年にはウィーン国立歌劇場の芸術監督にもなった。63年には、当初、「カラヤンのサーカス小屋」と揶揄されたベルリン・フィルの本拠地フィルハーモニーが完成した。
 飛ぶ鳥を落とす勢いというのは彼のことを言うのだろう。ジェット機の操縦士がカラヤンに「どちらに飛びますか、マエストロ?」と尋ねると、「どこでも。世界が私を待っている」と答えたというジョークさえ生まれた。「あのころカラヤンは偶像だった。いまになるとはっきり見える。カラヤンが基準になっていた」と音楽評論家の堀内修氏は回想している。
 ドイツ文学の許光俊氏は1961年の世界へ時間旅行を試みた。まず訪ねたのがバイロイト音楽祭。このときにはまだヴィーラント・ワーグナー(1917-66)演出、ハンス・クナッパーツブッシュ(1888-1965)指揮の「パルジファル」が上演されていたからだ。これはワーグナーのオペラ上演史の中でもっとも有名なプロダクションなので、確かめてみたい。「ニーベルングの指環」の指揮はルドルフ・ケンペ(1910-76)で、「タンホイザー」と「さまよえるオランダ人」は、当時まだ40歳にもなっていなかったヴォルフガング・サヴァリッシュ(1923-2013)だった。
 そしてザルツブルク音楽祭。オープニングを飾ったのは早世したフェレンツ・フリッチャイ(1914-63)。モーツァルトの「イドメネオ」を指揮した。RIAS交響楽団首席指揮者などを務め、将来を大いに期待されながら50歳にならないうちに亡くなった。また最晩年のカール・シューリヒト(1880-1967)がウィーン・フィルと「英雄」などを演奏している。
 日本のクラシック界はどんなだったろう。1961年は、現在も音楽の殿堂であり続ける東京文化会館が開館した。当時、よくこのような広いロビーを作ったものだと感心する。この前川國男設計のモダニズム建築は、「戦後社会の1つの里程標と言っても過言ではない」(西原稔・桐朋学園大名誉教授)。
 現代につながるさまざまなオーケストラが誕生したのもこの時代。1956年に日本フィルと京都市交響楽団、61年に札幌交響楽団、62年に読売日本交響楽団、63年に広島交響楽団が設立された。項目はほかに◎60年を経て日本人の演奏レベルはどうなったか◎レコード・レーベルの「黄金の日々」◎1961年のマリア・カラス◎1961年のソ連の音楽界◎トップランナー、OZAWAはこうして生まれた◎本場のオペラに目覚めた1960年前後の日本人、など。表紙は、クレンペラー、東京文化会館、カラヤン、アルゲリッチ、カラスです。

◎宮本文昭の気軽に話そう  ゲスト 福井敬 テノール
 日本のトップ・テノールの1人、福井敬がゲスト。今春、「朝は薔薇色に輝き」と題したCDをリリースした。京都市交響楽団をバックに、「誰も寝てはならぬ」など名アリアが収められている。「オペラ・アリアのCDが欲しい」というファンがクラウドファンディングを立ち上げ、制作したもの。また9月から、コロナ禍の中でもクラシック音楽を聴いてもらおうと、「クラシック・キャラバン2021」が全国で行われ、ガラ・コンサート(9月14日〈水〉、愛知県芸術劇場、9月15日〈木〉、東京芸術劇場)に出演する。

◎BIGが語る 松本美和子 ソプラノ
 イタリアを拠点にヨーロッパ各地の劇場で活躍したソプラノ、松本美和子が、傘寿を迎える。その記念公演が11月7日(日)、紀尾井ホールで行われる。武蔵野音大からローマのサンタ・チェチーリア音楽院に留学、ジュネーヴ国際声楽コンクール2位などを受賞。ローマ、フェニーチェ、コヴェント・ガーデン、ベルリン、バイエルン、ウィーン、リセウなどで50曲以上の主役を歌っている。今も発声練習を怠らない現役歌手。記念公演ではさまざまな歌曲に、ライフワークとして歌い続けてきたプーランクの「人間の声」を披露する。
 
このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
1,080円
980円
特集
スターバト・マーテル レクイエム 宗教音楽の魅力

 モーツァルト、ヴェルディ、フォーレの「レクイエム」は「3大レクイエム」と称される。中でもモーツァルトの「レクイエム」の作曲の経緯はよく知られている。モーツァルトの最晩年、1人の謎の紳士がモーツァルト宅に訪れ、「レクイエム」の作曲依頼をした。その紳士は依頼者の名を語らなかった。「レクイエム」とは、死者の安息を願うミサで歌われる。生活の困窮もあり、体が弱っていたモーツァルトは、これは死の世界からの依頼で、自分のための「レクイエム」だと思い込んだという。
 この伝説は今では否定されている。依頼者は、有名な作曲家に曲を作らせては自分の名前で発表するのを趣味としていた地方貴族ということが分かっている。またモーツァルトが経済的に生活が困るほどだったというのも違うらしい。
 「スターバト・マーテル・ドロローサ」(聖母は悲しみで立ち尽くす)で始まり、それが曲名になった「スターバト・マーテル」。聖母マリアが、十字架にはりつけにされたイエス・キリストの死を嘆く。キリストとともに母も信仰の対象になってきた。600人以上の作曲家が「スターバト・マーテル」を作曲し、マリアとキリストをモチーフにした絵画は数知れない。
 ロマン派の作品ではドヴォルザークの「スターバト・マーテル」がよく演奏される。ドヴォルザークは1875年、長女ヨゼフィーネを亡くした。生まれてわずか3日の命だった。我が子を亡くした心情を聖母マリアの悲しみに重ね合わせ「スターバト・マーテル」の作曲に取り掛かった。いったん他の仕事に時間を費やし、77年、今度は二女ルージェナと長男オタカールを相次いで失った。その後、短期間で「スターバト・マーテル」を仕上げている。
 ところで、ブルックナーは交響曲第9番の第4楽章に自身の「テ・デウム」を使うことを望んだのだろう。「テ・デウム」は「天にまします主よ御身をたたえ」で始まる、主を称える讃歌である。教会では主日・祝日の朝課の最後に歌われてきた。ブルックナーは、この最後の交響曲を第3楽章までしか完成させることができなかった。ウィーン大学の最終講義で、未完成に終わったときには、第4楽章を「テ・デウム」で代用させたい、と語っている。
 音楽評論家の岡本稔氏はブルックナーの名解釈者である指揮者ギュンター・ヴァントの言葉を紹介し、同意する。「ブルックナーは最終楽章を完成させる自信がなく、それから逃避するために第1交響曲の改定に長時間を費やしてしまった」と。交響曲第9番はベートーヴェンの「第九」と同じニ短調。交響曲第7番や第8番で成功したブルックナーはさまざまなプレッシャーを感じていた。第9番にしても第3楽章までが非常に高い水準で書かれ、第4楽章を作曲するのに尻込みしていたという。項目は他に◎グレゴリオ聖歌◎バッハ:ミサ曲ロ短調◎ハイドンのミサ曲◎グレゴリオ聖歌、スターバト・マーテル、レクイエムの名曲名盤◎ヴェルディとフォーレのレクイエム、などです。
表紙は、ウィーンのシュテファン大聖堂とミケランジェリの彫像「ピエタ」です。

◎宮本文昭の気軽に話そう  ゲスト 天満敦子 ヴァイオリン

 ルーマニアの作曲家ポルムベスクの「望郷のバラード」の演奏で知られる天満。先ごろ亡くなった作曲家、小林亜星は天満のヴァイオリンが好きで、一時期“追っかけ”のようにコンサートに来ていたという。知人となってからは、都はるみが歌ってヒットした小林の「北の宿から」などを弾いてもいる。作詞した阿久悠がこれを聞いて、「なんだ、歌詞いらないじゃない」と言ったという。さまざまなエピソードを楽しく語っている。

◎広島交響楽団 2021「平和の夕べ」コンサート

 広島交響楽団の2021「平和の夕べ」コンサートが8月6日に広島で行われる。今年は8日に山形市でも特別公演がある。原爆を落とされた広島市のオーケストラにとってはアイデンティティーとなるコンサート。今年は、ゼレンカの「ミゼレーレ」、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第2楽章、バッハ、ブリテン「シンフォニア・ダ・レクイエム」など多岐にわたる。音楽総監督を務める下野竜也は「1曲1曲に思いを込めて選曲しました」と語っている。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
◎特集「オーケストラと指揮者の現在」

 オーケストラの楽器や編成は時代や社会状況を反映している。現在では普通にオーケストラにある管楽器の導入を見てみよう。ホルンとオーボエは軍楽隊の楽器としてオーケストラに早くから入っていた。クラリネットは野外のセレナード演奏などでは使われたが、オーケストラには遅く入った。トロンボーンは教会に属する楽器だった。フルートは通常編成に含まれず、オーボエ奏者が持ち換えて演奏していたのだ。そして人数は、ハイドンが楽長を務めたエステルハージ家の宮廷楽団はせいぜい二十数名しかいなかったが、時代が下るにつれ、オーケストラは巨大化する。頂点ともいえるのが、1910年に初演されたマーラーの交響曲第8番。「千人の交響曲」と言われるだけに編成は大きく、第1、第2ヴァイオリンがそれぞれ25人などで、1916年にストコフスキーがアメリカで初演した際には合計1,068人に上った。
 カラヤンのように優雅に、時には神秘的に指揮する指揮者は、それほど古い歴史を持っていない。バロック時代には指揮者はおらず、ハープシコードなどの通奏低音奏者が指揮者の役割を果たした。ハイドンの時代になってもハイドンは楽団の中央にフォルテピアノを置き、演奏しながら指揮をしている。フランスでは指揮棒でなく杖で床を突いてリズムを取った。リュリは杖で自分の足を強く打ってしまい、それがもとで亡くなった。指揮棒も決まっていたわけではなく、楽譜を丸めて指揮をするケース、また羊皮紙などに書かれた楽譜は現在の百科事典よりも大きく、1メートル以上の長い棒が使われたこともある。現代の指揮者の礎は、19世紀後半に活躍、リストの娘コジマが最初に結婚したハンス・フォン・ビューローが築いたとされる。
 現在、最も注目を集める指揮者はベルリン生まれのクリスティアン・ティーレマン。「ティーレマンは現代のカリスマか」という特集ページを作った。筆者の岡本稔氏は「表題のような問いかけをされたら、即座に『その通り』と答える。ティーレマンをおいて他に『カリスマ』と言える指揮者は全く思いつかない」とつづる。2024年にシュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者の地位を離れることが発表され、その後の動向は大いに注目されるだろう。
 今号はベルリン・フィル、ウィーン・フィルなどドイツ、オーストリア、東欧、フランス、イギリス、日本など世界の主なオーケストラを取り上げている。 ベルリン・フィルの「カラヤン・アカデミー」についてベルリン在住の中村真人氏にリポートしてもらった。カラヤンが創設した若手育成の組織で、小さなオーケストラが組める人数が在籍している。2年間の在籍期間で、ベルリン・フィルの中で月に1,2度演奏し、アカデミー生のコンサートが年に6,7回、そして個人レッスンがある。彼らには奨学金、ベルリン・フィルの出演料が支払われ、生活ができる。ベルリン・フィルの約4分の1はアカデミー出身者。世界のベルリン・フィルだからバレンボイム、ラトル、ペトレンコら一流の指揮者のもとで演奏できる。ここまで充実した育成組織はない。項目はほかに◎ウィーン・フィルの理念◎カラヤンの功罪◎コロナ禍に思う―ドイツ・プラハ・ウィーンのオーケストラ街道◎CDが売れ続ける往年の名指揮者の魅力◎オーケストラ「自主」レーベルの隆盛、など。表紙はシュターツカペレ・ドレスデンとパリ管弦楽団です。

◎宮本文昭の気軽に話そう  ゲスト スタン・ジャック(ファゴット)

 フランスのファゴット奏者で11年前から日本に住み、活躍している。低音の魅力にひかれて14歳の時にファゴットを始めた。秀才、天才の集まるパリ国立高等音楽院を首席で卒業し、トゥールーズ・キャピトル管やラムルー管などさまざまなオーケストラで活動してきた。子育てが終わったからと、何のつてもない日本に来た。しかし、日本で習った香道の先生に「スタンさんはずっと昔、日本人でした」と言われたそう。クラシックだけでなく、ジャズやシャンソンとも共演、日本の演歌も大好き。演歌歌手とCDも出しているというから驚きだ。

◎ステージ 佐渡裕(指揮)
 
 兵庫県立芸術文化センターで行われる毎夏恒例の、佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ。去年はコロナ禍で中止。2年ぶりの今年は7月16日からレハールのオペレッタ「メリー・ウィドウ」が上演される。「メリー・ウィドウ」は同プロデュースオペラで2008年に公演されているが、キャストも変わり、新制作上演になる。このオペレッタは、未亡人となったハンナ・グラヴァリの莫大な遺産をめぐる楽しい恋の物語。「ヴィリアの歌」など親しみやすいメロディーにあふれている。佐渡は「今年、この作品にしてよかったと思います。もっともっとオペラの楽しみを伝えていきたい」と話す。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。


1,080円
980円
 19世紀末から20世紀初頭の同時代を生きたマーラーとリヒャルト・シュトラウス。19世紀初めのベートーヴェンの時代とは比較にならぬほど交通そして情報は発達し、マーラーとシュトラウスは、たびたび会い、時には協力もするライバルだった。そしてそこにはマーラーの妻アルマとシュトラウスの妻パウリーネの存在が欠かせない。
 マーラーは1860年、ボヘミアの小さな町のユダヤ人家庭に生まれた。父親は荷馬車で行商を行い、酒類製造業で成功した。父親は教育熱心で、マーラーの音楽的才能を見抜いて、15歳でウィーンに出した。一方、シュトラウスは1864年、ミュンヘン生まれ。父親はミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者。母親はミュヘンのビール醸造会社の娘で、早くから父親に英才教育を受けている。
 音楽評論家の江藤光紀氏は「出自も育ちもまったく対照的で、作曲の方向性も異なっている2人が互いを理解するのには限度があった」と書く。マーラーは「シュトラウスと自分は同じ山の反対側から坑道を掘っていて、やがて出会うことになるだろう」と語っていた。
 マーラーは生前、作曲家より指揮者として著名だった。実際、指揮者としての出世は早かった。ウィーン楽友協会音楽院で学び、ピアノ部門と作曲部門いずれも1等賞を受賞。23歳でカッセル王立劇場の楽長(カペルマイスター)に就任、プラハやブダペスト、ハンブルクなどの劇場の楽長などを経て1897年、ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督に上り詰めた。
 シュトラウスは、ハンス・フォン・ビューローのアシスタントとして指揮法を学んだ。ビューローは今日の職業的指揮者の先駆者。そしてビューローの後を継いでミュンヘンの宮廷歌劇場の指揮者に収まった。
 作曲作品のジャンルも2人は大きく異なっている。マーラーは歌劇場を渡り歩いたのに残されたオペラはない。指揮者としての仕事が忙しく、夏の休暇のときしか作曲の時間がとれなかった。それでも長大な交響曲を9曲残した。第10番は未完。時間の長さもさることながら、編成も大きく、声楽が使われた曲が多い。また、通常のオーケストラにはないカウベル、鞭、チェレスタ、マンドリン、鉄琴や木琴など特殊な楽器を入れている。
 シュトラウスは、交響詩をたくさん書き、オペラ作曲家としても大成功した。よく知られている交響詩は、映画「2001年宇宙の旅」の舞踏で使われた「ツァラトゥストラはかく語りき」。「英雄の生涯」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」などがある。オペラ「サロメ」はオスカー・ワイルドの原作で、「7つのヴェールの踊り」などエロティックな場面はセンセーションを巻き起こした。今日でも大人気なのは「ばらの騎士」。ドレスデン宮廷歌劇場で初演されたが、あまりの人気にベルリンからドレスデンまでオペラを鑑賞するための「ばらの騎士特別列車」号が走ったほど。項目はほかに◎マーラー「大地の歌」と東洋趣味◎マーラーが語る妻アルマ◎シュトラウスの管弦楽の魅力と個性◎スイトラウスが語る妻パウリーネ◎マーラーとシュトラウスの指揮者◎自己愛の人たち、など。表紙マーラーとリヒャルト・シュトラウス、背景は2人の創作に非常に大きな影響を与えたヨーロピアン・アルプスの自然(マッターホルン)です。

◎宮本文昭の気軽に話そう  ゲスト 川口成彦 フォルテピアノ
 2018年の第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールで2位に入賞し、一躍注目を集めた川口成彦。10代のころにはラフマニノフやリストなど派手な曲にあこがれていたという。20歳になって「古典派の音楽を弾けずしてピアニストになりたい、なんて言っていられないな」と迷っているときに出合ったのがフォルテピアノ。「ハイドンのピアノ曲をハイドン時代のピアノで弾いたときに、すごく感動したというか、目からうろこが落ちたんですね」と話す。

◎ステージ カイヤ・サーリアホ 作曲
 フィンランドの女流作曲家、カイヤ・サーリアホのオペラ「Only the Sound Remains-余韻―」が6月6日(日)、東京文化会館で日本初演される。日本の能「経正(つねまさ)」と「羽衣」を題材に用いた。新たな演出で振付家、森山開次を起用した。「能は昔から好きで、日本でも何度か見ています。とてもシンプルなストーリーで非常に象徴的な現象から、音楽が入り込む余地が十分にあると私は考えました。2つの能を選んだのは、同じ物語性を持ちながら、とても対照的だからです。片方は暗くミステリアス、片方は軽やかでおとぎ話のような要素を持っています」と話す。

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
特集
ウィーンの作曲家
ベートーヴェンとシューベルト

 ベートーヴェンは1827年、56歳で亡くなった。シューベルトは翌1828年、31歳で早世した。ベートーヴェンは宮廷歌手の息子としてボンで生まれ、1792年、ウィーンに移住した。シューベルトはウィーン近郊で生まれ、父は教区の教師だった。2人は同じウィーンの空気を吸っていたが、2世代ほど違い、シューベルトが作品を量産し始めた1810年代は、ベートーヴェンの〝傑作の森〟時代。シューベルトにとってベートーヴェンは仰ぎ見る存在だった。
 ベートーヴェンは耳が聴こえにくくなっており、1802年には「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いた。しかし、創作意欲は衰えることなく1804年に交響曲第3番「英雄」を作曲、交響曲第5番「運命」(1808年)、ワーグナーが「舞踏の聖化」と呼んだ交響曲第7番(1812年)、ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」(1804年)、ピアノ・ソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」(1819年)、ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」(1804年)など次々に傑作が生まれていく。
 貴族の邸宅、ホールで作品を発表、楽譜を出版していたベートーヴェンに対して、シューベルトはシューベルティアーデと呼ばれる仲間たちの集まり、サロンなどで作品を発表していった。サロンで裕福な友人たちに囲まれ、ピアノを弾くシューベルトの絵が残されている。シューベルトはその友人たちの家で寝泊まりし、ベートーヴェン以上に自由人だったのは世代の差も大きいだろう。
 ベートーヴェンとシューベルトはサリエリの弟子で、つまり兄弟弟子になる。しかし、シューベルトは初期にはハイドンやモーツァルト、ロッシーニの影響を受け、ベートーヴェンとは異なる独自の道を歩んだ。
 「シューベルトの創作におけるベートーヴェンの影響は限定的であるが、それはシューベルトが自身の創作の個性と、ベートーヴェンの創作とをはっきりと区別し、自分自身の創作の個性の確立を重視したからのように思われる」(西原稔桐朋学園大名誉教授)
 シューベルトがベートーヴェンに会ったのは1827年3月。病床にあったベートーヴェンを見舞っている。項目はほかに◎ベートーヴェン:交響曲第7,第8,第9番◎「ハンマークラヴィーア」「ディアベリ変奏曲」「ミサ・ソレムニス」◎シューベルト:「未完成」「ザ・グレイト」◎「楽興の時」「即興曲集」「ます」「冬の旅」「八重奏曲」◎ベートーヴェンとシューベルトの名指揮者たち◎ベートーヴェンの「不滅の恋人」とは誰か、実子はいたのか、など。表紙は、ベートーヴェンとシューベルト、背景の絵はベートーヴェンの葬儀の風景。葬儀にはウィーン市民約2万人が参列したと伝えられている。

◎宮本文昭の気軽に話そう  ゲスト・小松亮太 バンドネオン
 日本のバンドネオン奏者の第一人者、小松亮太。今年はタンゴを確信した作曲家アストル・ピアソラの生誕100年で、小松も記念アルバムを5月に発売する。また、3月には著書「タンゴの真実」を出版した。「時間がたつにつれて、タンゴという音楽のバックボーンがどんどん分からなくなっています。全世界に蔓延している『タンゴの常識』の誤解を解きたい」と話す。

◎BIGが語る 飯守泰次郎 指揮
 東京シティ・フィル桂冠名誉指揮者を務める飯守泰次郎。傘寿(80歳)記念として5月16日(日)、東京文化会館で、ワーグナー「ニーベルングの指環」ハイライト特別演奏会を指揮する。ジークフリートにシュテファン・グールド、ブリュンヒルデにダニエラ・ケーラーなど第一線のワーグナー歌手を招聘する。「コロナ禍で私たちが現代社会で抱える問題が今まで以上に露わになり、『指環』の普遍的な内容がいっそう私たち自身のこととして迫ってきます」

このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。


1,080円
980円
特集「ロマン派の師弟 ブラームスとシューマン」
 シューマンの周囲には19世紀の音楽史を輝かせる才能が集まっていた。1853年9月、20歳のブラームスはデュッセルドルフに住んでいた43歳のシューマンを訪ね、ブラームスは自作のピアノ・ソナタをシューマンに聴いてもらった。そしてブラームスの才能を認めたシューマンは「新音楽時報」に「新しい道」と題したエッセーを書いた。
 「そのゆりかごを、恩寵の女神と英雄に守護された若者が現れた。彼は、時代の最高の表現を理想的な仕方で表明するように天職づけられている」と絶賛、これでブラームスは世に出ることになる。
 この直後、シューマン、ブラームス、シューマンの弟子のディートリヒの3人で分担して作り、名ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムが初演したのが「F.A.E.ソナタ」。現在はブラームスが作曲した第3楽章スケルツォだけがたまに演奏される。ヨアヒムは、ブラームスがヴァイオリン協奏曲を作る際に助言し、それを初演している。
 しかし、シューマンの精神はこれ以前から変調をきたしていた。翌1854年2月、シューマンはライン川に飛び込み、自殺未遂を図った。シューマンはボン近郊エンデニヒの療養所に入り、2年後そこで亡くなった。
 シューマンが妻クララのために多くの曲を作ったように、ブラームスの作品を何曲もクララが初演している。「F.A.E.ソナタ」のピアノもクララだ。クララは当時、一流のピアニストとしてヨーロッパ各地を演奏旅行して歩いた。ベートーヴェン、ショパン、そしてシューマンとブラームスが彼女のレパートリー。自ら作曲もした。そしてフランクフルトのホッホ音楽院教授に就任し、多くのピアニストを育てた。ブラームスがクララの代稽古をすることもあった。
 シューマンが1841年に作曲した交響曲第1番「春」の初演は、メンデルスゾーン指揮ゲヴァントハウス管。作曲の背景にシューベルトの死後、シューベルト宅を訪ねたシューマンが、忘れ去られていた交響曲第8番「ザ・グレイト」の自筆譜を発見、友人のメンデルスゾーンに送って初演してもらったことがある。
 意外に思われるかもしれないが、ブラームスは「美しく青きドナウ」などを作曲したヨハン・シュトラウス2世と親しかった。受け狙いの音楽を書くシュトラウス2世の、まったく正反対の音楽を作曲するブラームスがファンだったというから驚きだ。また、ドヴォルザークが世に出るきっかけを作ってやったのがブラームス。「ハンガリー舞曲集」が大ヒットしたブラームスは、ドヴォルザークに同じような作品を書くことをすすめ、出版されたのが「スラヴ舞曲集」だ。自分がシューマンに見出されたように、若い才能を助けた。

 特集は他に、◎ブラームスとシューマンの交響曲第1~4番◎シューマンのピアノ曲、「謝肉祭」「子供の情景」、他◎ブラームスの室内楽の魅力◎クララ・シューマンの弟子たち◎ブラームスの指揮者、ほかです。表紙は、ブラームスとシューマンです。

◎宮本文昭の気軽に話そう  ゲスト 出田りあ マリンバ
 ベルリン在住のマリンバ奏者、出田りあは、ストラスブール・コンセルヴァトワールなどを卒業し、第1回パリ国際マリンバ・コンクール第1位などの実績を持つ。マリンバとの出会いは6歳のとき。「最初に見たとき、自分の目線の高さくらいにマリンバの音板があって、叩くと木が1本ずつ振動しているのが見えました。その『鳴らしている』感覚が楽しかった」ときっかけを話す。

◎オーケストラ新聞
 飯森範親が東京ニューシティ管弦楽団のミュージック・アドヴァイザーに就任した。来期には音楽監督に就任する。「ニューシティは若くてポジティブな性格も持ち合わせています。本番では、練習を超えた表現力や瞬発力を発揮してくれるので、指揮者と気持ちを合わせながらとてつもなく熱い、お客様の心に届く演奏ができるオーケストラです」と話している。
このほか
◎青島広志の「押しもしないが押されてばかり」
◎外山雄三の「オーケストラと暮らして60年」
◎小山実稚恵の「ピアノと私」
◎「鍵盤の血脈 井口基成」中丸美繪
など、おもしろい連載、記事が満載です。
おすすめの購読プラン

MOSTLY CLASSIC(モーストリー・クラシック)の内容

クラシック音楽をもっと楽しむための月刊情報誌
「MOSTLY CLASSIC」(モーストリー・クラシック)は毎月20日発売の月刊音楽情報誌です。バッハやモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなど作曲家の魅力をはじめ、交響曲や協奏曲、ピアノ曲など音楽のジャンル、また世界各地のオーケストラやホール、ヴァイオリンやピアノなどバラエティーに富んだテーマを毎号特集しています。またピアニスト、小山実稚恵さんや小菅優さんの連載など読み物もたくさん。ソリストの活動やオーケストラ事情など毎月新鮮な情報を掲載しています。知識が少し増えるとクラシックを聴く楽しみが倍加します。コアなファンからクラシックは少し敷居が高いと思われている初心者まで誰でも楽しめる雑誌です。

MOSTLY CLASSIC(モーストリー・クラシック)の無料サンプル

176号 (2011年11月20日発売)
176号 (2011年11月20日発売)をまるごと1冊ご覧いただけます
サンプルを見る

MOSTLY CLASSIC(モーストリー・クラシック)の目次配信サービス

MOSTLY CLASSIC(モーストリー・クラシック)最新号の情報がメルマガで届く♪ メールアドレスを入力して登録(解除)ボタンを押してください。

※登録は無料です
※登録・解除は、各雑誌の商品ページからお願いします。/~\Fujisan.co.jpで既に定期購読をなさっているお客様は、マイページからも登録・解除及び宛先メールアドレスの変更手続きが可能です。
以下のプライバシーポリシーに同意の上、登録して下さい。

この雑誌の読者はこちらの雑誌も買っています!

MOSTLY CLASSIC(モーストリー・クラシック)の所属カテゴリ一覧

Fujisanとは?

日本最大級雑誌の定期購読サービスを提供

デジタル雑誌をご利用なら

最新号〜バックナンバーまで7000冊以上の雑誌
(電子書籍)が無料で読み放題!
タダ読みサービスを楽しもう!

総合案内
マイページ
マイライブラリ
アフィリエイト
採用情報
プレスリリース
お問い合わせ
©︎2002 FUJISAN MAGAZINE SERVICE CO., Ltd.